説教要旨

 

― 8月12日 奨 励―         原 剛 兄

     「お返しできないほどの恵み」

品川教会に通わせて頂き約23年の時が流れました。品川教会での多くの出会いに改めて感謝いたします。中でも、今はもう、天に召されましたが、牧師婦人である愛子先生との出会いから多くを学ばせて頂きました。品川教会で目に飛び込んできた様々な光景に私は驚ろかされました。教会にはいつもたくさんの弱い方がおられました。そしてその方たちは、教会と言う場所の敷居を超え、牧師館にも入り込み、まるで、そこに生まれ育った一人のように、食事をし、寝転がり、テレビを見て、ときに風呂に入り、泊まっていました。いろんな方が、それぞれの弱さをそのまま持ち寄り、さらけ出し、交わっていました。

「宴会をもよおすときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。」これは、イエス様が、神の国とはこういうところだ、ということを説明するために、語られたたとえ話です。神の国は、何もお返しできないものが、何もお返しできないことを前提に招かれ、そこで、大切なひとりとして扱われる、そんな世界だということです。

愛子先生がその生涯を通じて見せてくださった世界、まさに、この神の国を証ししたように思います。有名な個所ですので小さい頃から何度も読んできた箇所です。私はこの箇所を昔から読んでいても、僕は目が見えるし、歩けるし、それなりに元気だし、何かされたら、それなりにお返しできる人間だと思いこみ、この話を、良い話ではあるが、あまり直接自分とは関係のない話のように感じていました。

しかし、愛子先生との出会いを通じて、気づいたことがあります。それは、誰でもない、私自身が、この宴会に、招かれたその張本人だということです。私は、愛子先生に何もお返しできませんでした。何もお返しできない、罪深い私が、イエス様の哀れみにより、ただただ愛されて、何の条件もなしに、招かれている。このような、大切なメッセージを愛子先生から頂けたことを、人生の宝として感謝申し上げます。

そしてまた、この言葉に励まされます。「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」 私からは何もお返しできませんでした。しかし、イエス様が、愛子先生に、あなたは幸いだ、とおっしゃるのです。ここに希望があります。その希望は私たち自身がベースではありません。イエス様の哀れみ、神様の約束された永遠が、ベースです。 永遠なる神様のもとに、愛子先生が共におられることを祈ります。

    (ルカによる福音書14章:1214節)

 

 

― 8月 5日 説 教―             日隈 光男先生

    「手を差し伸べて触れるイエス」

「イエスは憐れんで、手を差し伸べて触れられた」(マルコ141)、この御言葉は、妻の看病中、支えられた御言葉の一つです。

イエスさまの姿勢が表れています。「重い皮膚病」のひとは、祭司によって社会から隔離命令が出された病気と孤独に苦しむ人です。社会から除け者にされています。新共同訳が「重い皮膚病」と改訳したのは19964月の「らい予防法」の廃止にともなうものです。従来訳は長い間「らい病」としてきました。彼はイエスさまに近づく事を、律法で禁止されていました。

イエスは彼の姿を見て、憐みの心が大きくなり、自分から手を差し伸べて触れました。そして、愛情を持って癒しにかかわっていきました。らい病は今では治る病気になっていますが、昔は不治の病として本人はもとより、周囲の人々も苦しみました。約150年位前に、ノルウエーのハンセン医師がらい菌を発見し、ただちに特効薬の開発が世界で始まり、75年後の1943年に、アメリカでプロミンという特効薬の合成に成功し、今も進化しています。

 しかし、ご存じのように、それまでの歴史は、当事者や関係者に重い負担がかかる悲惨な病気でした。キリスト教も長いあいだ救援活動に携わってきました。

 新共同訳聖書翻訳委員の一人である本田哲郎司祭の「小さくされた人々のための福音」の同一箇所を見ますと、「らいをわずらっている一人の人がイエスのもとにやってきて、ひざまずき(中略)イエスははらわたをつき動かされ(放っておけないという気持ちになり)手をのばしてその人を抱きしめ」と訳されています。 本田司祭は日ごろ通称釜ヶ崎にある「ふるさとの家」を中心にして、日雇い労働者やホームレスの人々の支援活動をしています。本田司祭はその人たちに学びながら聖書の読み直しをしています。社会的弱者とされた人々を、「神は抱きかかえ、神の力を注がれる」と、力強く翻訳しておられます。

 イエスの言葉の背景に、旧約の信仰者の思いが重なって見えます。有名な詩編139編を読みますと「神は前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いて下さる」と、神は苦しみの中におかれた人間を、両手でしっかりととらえて下さるという、神の意志が賛美されています。主なる神は、わたしたちの魂をどこまでも追い求めて下さり、わたしたちの心を見抜いて助けてくださるのです。

 人生避けて通れない苦しみとして「生老病死」という言葉がありますが、人生は重荷を負って生きるものです。しかし、主なる神は、その人間に目を掛けてくださり、弱い時にもとらえて下さるのです。弱小の民イスラエルを選んで宝の民と愛された主です。アブラハムを選ばれたときも、彼が主の命令に従って、父の土地ハラン出て、荒野で流浪生活をしていた時です。ヤコブも荒野に逃げ、途方にくれた弱い時に夢の中で、神が共に居て下さることを知りました。換言すると、ひとは弱い時にこそ、神の支えの御手が伸ばされていることを知るのではないでしょうか。パウロも「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言っております。

        (マルコによる福音書1章:4045)