説教要旨

 

48日 説 教―             牧師 松村 誠一

              「信仰による自己認識」

 ローマの信徒への手紙ですが、1章から8章まで、パウロは福音とは何か、救いとは何かを述べております。人間が救われるのはイエス様を信じる信仰により救われるのだということをいろいろな方面から語って来ました。そしてパウロは同時に福音の力、神の愛の深さ、強さを訴えて来ました。その神の愛はイエス様の十字架の死によって私たちに具体的に示して下さり、そのイエス様の死によって律法から、罪から、死から解放して下さったのだ。そのことをパウロは筋道をたて、しかも体験的に、自分の渾身の力を振り絞り書き進めて来ました。そして91011章はその神の愛はパウロ自身が考えたものではない、歴史を見るならば歴史を導いておられるお方は、生きた真の神であることが分かるではないかとイスラエルの民の歴史を振り返っております。そして神の愛は決定的に御子イエス・キリストによってはっきりと示されたではないか、とパウロはローマにいるキリスト者に対して語ってきております。

そして12章からはその神の愛に私たちは応えていこうではないかと勧めています。その勧めとは、あなたがたの体、つまりこの世に係わりを持っている具体的なあなたがたの全存在を神に喜ばれる聖なる生ける、いけにえとして献げなさい。それがあなたがたのなすべき礼拝ですと語っています。3節からは、それが具体的に展開されています。神の壮大な人類救済の計画、イエス・キリストによって示された神の愛の偉大さを語ってきたパウロがキリスト者への具体的な勧めは「自分を過大評価してはなりません。」であります。ローマの信徒への手紙を読んできますと、この勧めはとても大切な勧めであることが分かります。そしてこの3節の後半がパウロの言わんとしていることだと思います。「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」。これが「自分を過大評価してはならない」ことに繋がっていくのです。つまり、頂いた信仰によって自己を見る、頂いた信仰が、その人を慎み深くさせるのだということでしょう。

なぜパウロはこのことを勧めるのでしょうか。それは4節以降に述べられております。パウロは教会を“私たちの一つの体”である、と体にたとえています。そしてその教会に集う一人一人は、体を構成する部分にたとえております。

このたとえはコリントの信徒の手紙一12章で具体的に展開されておりますが、教会員の一人一人は体を構成する手であったり、目であったり、口であったり、皆その働きは違いますが、それぞれが無くてはならない部分です。その部分はその部分の働きをすることが求められております。教会も同じように、一人一人が無くてはならない存在なのです。その一人一人の働きが十分にできるように、一人一人が信仰によって自己を認識し、その認識のもとに奉仕をしていくことが。パウロの言う「慎み深く評価しなさい」ということでしょうか。一人一人がその自己認識に立ち、神の恵み(カリス)によって与えられている賜物(カリスマ)を生かして教会の福音宣教の業に参与していく時に教会はキリストの体なる教会となり、神の出来事が起こされていくのです。

             (ローマの信徒への手紙1238節)

 

 

41          牧師 松村 誠一

         「復 活」 

復活されたイエス様の出会いによってパウロは異邦人伝道の使命が与えられます。そしてその使命を果たすべく小アジアへと向かい、その地その地でイエス様がわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、そして三日目に復活したことを宣べ伝え、教会を立てあげてゆきます。

ところがコリント教会の中に復活は信じられない、という人たちが出てきたのです。これはパウロにとって絶対解決しなければなららない問題でありました。なぜならばイエス様を救い主と信じるということはイエス様が死者から復活させられたことを信じることであるからであり、信仰の根幹だからです

復活を信じることが出来ないという人々に、パウロは自然界を例にとりながら説明しております。花を咲かせようとするならば、まず種をまきます。種は土の中で姿をなくしますが、土から養分を吸収して美しい花を咲かせます。パウロは人間の復活についても植物同様に肉体(種)は滅びても霊なる体(花)として生かされるのだ、と類比をもって説明しています。

またパウロはこの世の被造物はそれぞれ違いがありますが、それは神の創造の業でありこの世に生きるものは人間であろうと、他の動物であろうと、神様はそれぞれに体(肉)を備えられたように、その被造物に霊なる体も備えられたのだと語っています。そしてこの世の体(肉)とやがて備えられる霊なる体との対比が記されています。最初の対比は朽ちるものと朽ちないものです。私たちの肉体はやがて朽ちるものです。この朽ちる肉体にイエス様は永遠の命を与えてくださり、朽ちない者によみがえらされるのだと。第二は卑しいものと栄光あるもの。そして次は弱いものと力強いものとの対比です。そして最後は自然の命の体がまかれ、つまり肉体をもった人間として生まれ、その肉体が死ぬと、霊の体が備えられるのだということを語り聞かせております。そしてその仕上げをアダムとキリストを対比して説明をしております。

 復活という出来事は、人間が理性で、知性で考えても理解できるものではありません。それは信じる信仰によってのみ信じ、受け入れることができる事柄です。パウロはその信じる信仰を手助けするために、この世の自然界を見渡し、その類比から考えてみなさいと語りかけています。ヤゴがトンボになることが一番分かりやすいと思うのですがいかがでしょうか。ヤゴは水の中で成長します。およそ水の中で数週間経つと水から上がり、草花の幹にへばりつき、そして間もなく昆虫として空を飛ぶトンボとなります。ヤゴであった時のヤゴはトンボになってもヤゴと同じ生き物です。人間もこの世では肉体を持っておりますが、やがて、この肉体を脱ぎ捨て、霊なる体、すなわち復活の体が備えられ、この世とは全く違った神の国で永遠に生きる者となるのではないでしょうか。いずれにしろ、肉体を持った私たちは自然界の生物、動物が指し示しているように、私たち肉体を脱ぎ捨てたあと、新しい霊の世界へと招かれていることを、このイースター礼拝で確認し、復活の命へと招いてくださるイエス様を主と告白し、信仰生活を共にしてゆきたいと思います。

     (コリントの信徒への手紙一153549節)