説教要旨

 

84 日説教―            牧師 山中 臨在

      「最後の晩餐」      (マタイ26:2630)

イエス様と弟子たちが最後の晩餐で食したのとって腐敗や罪の象徴であは、「種いれぬパン」でした。イスラエルの人にるパン種を過ぎ越しの食事の時には用いなかったのです。最後の晩餐には、種いれぬパンであるイエス様は罪のない方であること、パンが裂かれたのは、イエス様ご自身が十字架で体を裂かれたこと、そしてパンを食べるということは、そのイエス様を心に受け入れることを表す意義があります。パンの次に一同は杯を飲みます。出エジプトの折、家の戸に小羊の血を塗ったイスラエルの民は、神の裁きから免れましたが、この最後の晩餐においては、イエス・キリスト自らが流される血によって、それを受ける者は神の裁きを免れることが象徴されています。神様の愛の契約が確かなものであることを示すために、神の独り子イエス様ご自身が犠牲となって血を流してくださった、それほどまでに、神様は人を愛してくださったことを改めて感謝したいものです。

 さて最後の晩餐では「何を」食べるかの他に、「誰と」食べるか、ということが大切です。主の晩餐式は、「私が」主の晩餐にあずかる、のではなく、「私たち」があずかるのです。私たち、というのは、キリストをかしらとするキリストの体です。

教会はキリストの体です。自分一人でその体ができているわけではありません。主の晩餐とは、主の十字架の贖いによって、私たちが主の体とされることを記念するためのものです。自分さえよければ良いという態度は、神様のみ旨に反します。主の晩餐は、そのクリスチャンのありようが問われます。「誰と」主の晩餐にあずかるのかをクリスチャンは考えなさい、というメッセージがあります。種いれぬパンは罪のない象徴だと言いましたが、クリスチャンは罪がないのではありません。イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦された罪びとであることを忘れてはなりません。従って私たちは常に自分だけでなく、キリストの体を形造る他者のことを思い、他者に思いをはせなかった自分の罪を悔い改めることを主の晩餐にあずかる度に忘れないようにしなければならないのです。

  私たちは、バプテスマと主の晩餐の二つの礼典を大切にします。これらはイエス様が私たちに命じられた「オーディナンス」と呼ばれる、大切なものです。主の晩餐にただ形式的にあずかるのではなく、自分の罪を悔い改める時、またイエス様の贖いによって救われてキリストの体として一つとされたことに感謝を捧げる時といたしましょう。