説教要旨

312日 説 教―        牧師 松村 誠一

     「私たちの人生は荒野の40年間」

  ヘブライ人への手紙の著者は詩編957節から11節を引用し、出エジプトしたイスラエルの民の不従順について語り教えています。ここで注目しなければならないのは以下の指摘でしょう。「荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、試し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった』」。(ヘブライ人への手紙3910節)「四十年間わたしの業を見た」と記されていますが、具体的には荒れ野での生活です。飢えと渇きであり、どこに神がおられるのか、神などいないではないかという生活の現実です。

昨日は3.11大震災から6年たった日でしたので、6年前の大震災の様子がテレビで映し出されていました。そして思い出したのでありますが、それは多くの人が叫んだ言葉であります。何十万人の人々の生活を一気に奪ってしまった現実、一万人以上の人々の命を奪ってしまった現実を見て、神などいないではないか、と叫んだ叫び声です。あの出来事についてキリスト教界においても神はどこにいたのかをテーマに散々話し合いが行われました。あの現実を見ると、神はどこにおられたのか、と問わざるを得ないのではないでしょうか。

人間が“目で見る”ということは確かなことのように思います。しかし、限界のある人間が見ることが出来る範囲というのは、いつも限界付けられており、“見る”という行為も罪というプリズムによって屈折して見えているのではないでしょうか。あのイスラエルの民の荒野の40年間は神の導きであり、神の御手の中にあったのですが、そのことを正しく観ることが出来なかったのです。しかし私たちはイスラエルの歴史を振り返る時に、聖書に記されているように、「彼らはいつも心が迷っており、私の道を認めなかった」からだ、という指摘は受け入れられるのではないでしょうか。

  あの3.11大震災においても同じだと思います。確かに神はどこにいたのか、神などいない、と叫びたくなる現実が目の前に付きだされた出来事です。このような出来事は、これほど大規模なことではなくても私たちの日常生活には次から次へと起こっているのではないでしょうか。当座は神などいない、という出来事の中においても神はおられ、神の安息の地への導きと招き、つまり私たちを神の支配、神の国へ、との導きと招きは変わることなく続けられている、ということに気付かなければならないのだと思います。イスラエルの民の荒れ野での40年間はイスラエル民族の歴史を指し示しており、そしてさらに私たちの人生をも指し示している出来事だと思います。ヘブライ人への手紙の著者が「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と教えておりますように、このような信仰をいただいて日々歩む者でありたいと思います。

       (ヘブライ人への手紙3715節)

 

 

35日 説 教―       牧師  松村 誠一      

          「神は御子によって語られた」

 ヘブライ人の手紙1章12節に「神は、かつては預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と記されています。

旧約聖書を読みますとイスラエルの民に対する神の語りかけがいつもなされています。イスラエルの国は、あの中近東の国では最も小さい国であります。エジプト、アッシリア、バビロニヤなど堂々たる文化をもった大国、その大国の中でまさに大海の波間に揺れ動く小舟のような存在で、いつ歴史上から消え去ってしまってもおかしくない、そのような国でした。しかし、そのような国でありましたが、預言者を通しての神の語りかけにより、神の叱責の言葉によりイスラエルの民はいつも悔い改め、神の言葉に聞き従って歩んできたのです。神から離れ、いや、異教の神々を拝み、神が望んでおられる民族のあり方から逸脱した時も必ず神は預言者を立て、預言者を通して神の意志を伝え、イスラエルの民を導いていっております。このように神の意志は、昔は預言者を通してイスラエルの民に語りかけられておりました。しかし、預言者がいかに信仰深く純粋な人間であっても、神の言葉をストレートに聞くことは不可能でありましょう。それはどんな澄み切った水でも、太陽の光を屈折させることなく、受け入れることは不可能であるのと同じようにです。またその預言者が聞いた神の言葉を今度はイスラエルの民に伝えるわけですが、その伝える言葉は預言者の解釈を通してしか聞いた言葉を話すことが出来ないのです。

 しかし、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と記されています。旧約の時代の終わりに神はイエス様をこの世に遣わされ、そのイエス様により、神の意志を伝えられたのです。そしてそ「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである」と記されています。神の栄光とは神の活動の姿です。ですから、御子イエス様は神の具体的活動の姿と言えるのではないでしょうか。イエス様が神の具体的活動をなさることによって、私たちはイエス様を通して神の思い、神の意志を知ることが出来るのです。ですから私たちの信仰とは「イエス様との真実な関係」であると言えるでしょう。イエス様の語りかけを私たちが聞き、そして応えていく。私たちの語りかけにイエス様が応えてくださる、これが私たちの信仰の内実なのです。

神は御子イエス様をこの世に遣わされることによって、完全に神の御心を私たちに示してくださいました。そのことを知り得た私たちは、感謝の思いをもって「イエス様との真実な関係」に生きる者として共に歩んでまいりましょう。

         (ヘブライ人への手紙114)