説教要旨

326日 説 教―                         牧師 松村 誠一

                      「目を覚ましていなさい」

イエス様は御自分の死を見据え、そして再び御自分の再臨を視野に入れながら弟子たちに、どのように生きるべきかを語り聞かせております。弟子たちが間もなく経験するであろうイエス様の十字架の死、復活、そして昇天後、再臨までの期間をどのように生きるかであります。そしてこの期間とは、あの弟子たちの時代からこんにちの時代においても変わらずイエス様の昇天、そして再臨の間に私たちは生かされているのです。

 私たちイエス様の再臨を信じておりますが、その再臨の間、つまり今与えられている人生をどのように生きたらいいのでしょうか。イエス様は「目を覚ましていなさい」と教えておられます。その日、その時とは、イエス様が再び来られる時、再臨の時であります。イエス様が再び来られる時とは、この世の終わりの時でしょう。この世の終わりについては科学的には、175000万年後から、325000万年後の間と言われています。しかしこの予測も非常に怪しく、地球の寿命はかなり短くなってきていると言われております。地球温暖化、食糧不足によって人類は滅亡するとか、いろいろなことが言われておりますが、イエス様はそういう仕方で世が終わるのではなく、ご自身の再臨によって世が終わるということを告げ知らせております。

そしてその時がどのように訪れるかが、たとえ話によって語っておられます。「家を後にして旅に出る人」また「家の主人」とはイエス様のことでしょう。イエス様は、「目を覚ましていなさい」と語っていますが、信仰の目をもって生きろ、ということでしょう。また、「責任を持たせ」とは、それぞれに与えられているタラントを用いて、ということでしょう。イエス様のこのメッセージは直接にはイエス様の弟子たちでしょう。復活されたイエス様は、弟子たちに「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じております。弟子たちは福音を宣べ伝えることが目を覚ましていることでしょう。そして与えられた責任を果たすことでしょう。弟子たちはイエス様の死後、福音宣教に邁進しました。与えられた責任を果たしつつ生涯を全うしたのです。だから福音は全世界へと宣べ伝えられ、今日を迎えているのではないでしょうか。

さて、私たちにもイエス様は「目を覚ましていなさい」と語りかけておられるのです。「目を覚ましていなさい」ということはそう簡単なことではありません。が、また逆に簡単なことでもあります。まずは簡単なことではないことは歴史を振り返る時に、良く分かるのではないでしょうか。あの第二次世界大戦中の多くのキリスト者は、残念ながら目を覚ましていること、すなわち信仰の目を持って生きて行くことを断念してしまいました。「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。我が国を愛するがゆえに、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。目を覚まして生きるということは簡単なことであります。愛する兄弟姉妹が教会に集い、聖霊の働きを求め、共に聖書に聞き、共に祈り、神の愛を感謝し、その愛を頂き、互いに愛し合い、過ごすことにより目を覚まして生きる者へと導かれていくのです。教会生活を共にしてゆきましょう。

             (マルコによる福音書133237)

 

 

319日 説 教―            牧師 松村 誠一

         「神に喜ばれるように仕えていこう」

ヘブライ人への手紙121821節にはモーセがシナイ山で十戒を授けられた場面が描写されています。人を寄せ付けぬ絶対的な神、そしてそのような神に対する人間の恐怖が描かれています。なぜそのような神を描き出しているのでしょうか。それは手紙の送り手である迫害下にあるキリスト者にとって、出エジプトの民が経験した神の怒りと恐怖の中にいたからでしょう。迫害は神の裁きなのだ、と受け取るキリスト者がいたのだと思います。そのようなキリスト者に対して、今やイエス・キリストによって神との新しい関係が築かれている。そしてその関係は、キリスト者であるあなたたちまで及んでいるのだと語り伝えているのです。イエス様の流された血はアベルが流した血に比べようもない、実に恵みと祝福とに満ちた罪の赦しを与えるために流された血なのであると語っているのです。

そして25節からですが、「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。」と勧めています。「語っている方」とはイエス様のことでます。そしてこの「気をつけなさい」とは、御言葉を聞いた者がその生活においてイエス様を信じる信仰者として生活しなさい、という非常に積極的な意味を持っている言葉なのです。25節の後半ですが、「もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」とは、モーセが伝えた命令に背いたイスラエルの民が罰を逃れなかったとしたならば、ましてやイエス様の御言葉を聞きながら、その御言葉を拒む者は罰から逃れることはないであろう。だからイエス様の語られた言葉を受け入れ、信仰をもって日々歩みなさいと勧めているのです。

先週は随分テレビを見てしまいました。森友学園の問題、南スーダンの問題、豊洲市場の問題、天下り人事等々。虚偽、偽証、隠ぺいなどのテレビ報道番組でした。何が、だれが、正しく、だれが嘘をついているのか、全く分からない世界が築かれてしまいました。

私たちは当時のキリスト者のように迫害を受けるということはないでしょう。しかし教会は迫害と同じように信仰をダメにしてしまう、恐ろしい世俗の力が働いている只中に立てられているのです。それゆえ私たちは堅く信仰に立ち、「語っている方」を拒むことのないように気をつけなければならないでしょう。「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」と当時のキリスト者への呼びかけを共に聞いていかなければならないのではないでしょうか。

具体的には私たちキリスト者は、主イエス様と共に十字架を担っていくことであります。これは友のために、兄弟姉妹のために、他者のために、それらの人と共に苦しみを負うことでもあり、受け入れることであり、赦すことであります。自己義認、自己主張、自己満足から解放され、イエス様と共にこの世の十字架を負いつつ、感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように他者に仕えていく者でありたいと思います。

           (ヘブライ人への手紙121829節)

 

 

312日 説 教―        牧師 松村 誠一

     「私たちの人生は荒野の40年間」

  ヘブライ人への手紙の著者は詩編957節から11節を引用し、出エジプトしたイスラエルの民の不従順について語り教えています。ここで注目しなければならないのは以下の指摘でしょう。「荒れ野であなたたちの先祖はわたしを試み、試し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった』」。(ヘブライ人への手紙3910節)「四十年間わたしの業を見た」と記されていますが、具体的には荒れ野での生活です。飢えと渇きであり、どこに神がおられるのか、神などいないではないかという生活の現実です。

昨日は3.11大震災から6年たった日でしたので、6年前の大震災の様子がテレビで映し出されていました。そして思い出したのでありますが、それは多くの人が叫んだ言葉であります。何十万人の人々の生活を一気に奪ってしまった現実、一万人以上の人々の命を奪ってしまった現実を見て、神などいないではないか、と叫んだ叫び声です。あの出来事についてキリスト教界においても神はどこにいたのかをテーマに散々話し合いが行われました。あの現実を見ると、神はどこにおられたのか、と問わざるを得ないのではないでしょうか。

人間が“目で見る”ということは確かなことのように思います。しかし、限界のある人間が見ることが出来る範囲というのは、いつも限界付けられており、“見る”という行為も罪というプリズムによって屈折して見えているのではないでしょうか。あのイスラエルの民の荒野の40年間は神の導きであり、神の御手の中にあったのですが、そのことを正しく観ることが出来なかったのです。しかし私たちはイスラエルの歴史を振り返る時に、聖書に記されているように、「彼らはいつも心が迷っており、私の道を認めなかった」からだ、という指摘は受け入れられるのではないでしょうか。

  あの3.11大震災においても同じだと思います。確かに神はどこにいたのか、神などいない、と叫びたくなる現実が目の前に付きだされた出来事です。このような出来事は、これほど大規模なことではなくても私たちの日常生活には次から次へと起こっているのではないでしょうか。当座は神などいない、という出来事の中においても神はおられ、神の安息の地への導きと招き、つまり私たちを神の支配、神の国へ、との導きと招きは変わることなく続けられている、ということに気付かなければならないのだと思います。イスラエルの民の荒れ野での40年間はイスラエル民族の歴史を指し示しており、そしてさらに私たちの人生をも指し示している出来事だと思います。ヘブライ人への手紙の著者が「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」と教えておりますように、このような信仰をいただいて日々歩む者でありたいと思います。

       (ヘブライ人への手紙3715節)

 

 

35日 説 教―       牧師  松村 誠一      

          「神は御子によって語られた」

 ヘブライ人の手紙1章12節に「神は、かつては預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と記されています。

旧約聖書を読みますとイスラエルの民に対する神の語りかけがいつもなされています。イスラエルの国は、あの中近東の国では最も小さい国であります。エジプト、アッシリア、バビロニヤなど堂々たる文化をもった大国、その大国の中でまさに大海の波間に揺れ動く小舟のような存在で、いつ歴史上から消え去ってしまってもおかしくない、そのような国でした。しかし、そのような国でありましたが、預言者を通しての神の語りかけにより、神の叱責の言葉によりイスラエルの民はいつも悔い改め、神の言葉に聞き従って歩んできたのです。神から離れ、いや、異教の神々を拝み、神が望んでおられる民族のあり方から逸脱した時も必ず神は預言者を立て、預言者を通して神の意志を伝え、イスラエルの民を導いていっております。このように神の意志は、昔は預言者を通してイスラエルの民に語りかけられておりました。しかし、預言者がいかに信仰深く純粋な人間であっても、神の言葉をストレートに聞くことは不可能でありましょう。それはどんな澄み切った水でも、太陽の光を屈折させることなく、受け入れることは不可能であるのと同じようにです。またその預言者が聞いた神の言葉を今度はイスラエルの民に伝えるわけですが、その伝える言葉は預言者の解釈を通してしか聞いた言葉を話すことが出来ないのです。

 しかし、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」と記されています。旧約の時代の終わりに神はイエス様をこの世に遣わされ、そのイエス様により、神の意志を伝えられたのです。そしてそ「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れである」と記されています。神の栄光とは神の活動の姿です。ですから、御子イエス様は神の具体的活動の姿と言えるのではないでしょうか。イエス様が神の具体的活動をなさることによって、私たちはイエス様を通して神の思い、神の意志を知ることが出来るのです。ですから私たちの信仰とは「イエス様との真実な関係」であると言えるでしょう。イエス様の語りかけを私たちが聞き、そして応えていく。私たちの語りかけにイエス様が応えてくださる、これが私たちの信仰の内実なのです。

神は御子イエス様をこの世に遣わされることによって、完全に神の御心を私たちに示してくださいました。そのことを知り得た私たちは、感謝の思いをもって「イエス様との真実な関係」に生きる者として共に歩んでまいりましょう。

         (ヘブライ人への手紙114)