説教要旨

 

625日 説教―            牧師 松村 誠一

             「わたしに従いなさい」

ルカによる福音書は、年代的には紀元80年頃記された書物であると言われております。ご承知のようにルカによる福音書の著者はすでに文書化されていたマルコによる福音書を手元において、そのマルコによる福音書に自分自身が集めた資料を追加し、編集しながら自分の福音書を書き記しています。それが今、私たちが手にしているルカによる福音書です。マルコによる福音書と読み比べてみますと、そのほとんどがマルコと同じですが、違う点があります。

それは23節です。ルカは「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」と記しています。“日々”という言葉が付け加えられております。マルコではイエス様が歩まれたように、十字架を背負ってイエス様に従っていくようにとのメッセージが語られています。ルカによる福音書は“日々”という言葉を追加することにより、イエス様と同じように十字架を背負って、つまり殉教を覚悟してというメッセージは弱められています。

ルカは“日々”という言葉を追加することにより“十字架を背負う”をいう言葉にどのように意味を持たせようとしたのでしょうか。それは私たちの人生に起こる様々な試練、苦難、病など自分にとってこの世で生きていくにはマイナスと思われるものすべてが、自分の十字架であるということだと思います。私たちは様々な試練、苦難や病などは、自ら背負うことは出来ないのではないでしょうか。しかしイエス様を信じる信仰によって受け入れ、これらの試練や苦難を乗り越えていくことは起こり得ます。その試練や苦難はイエス様がご存知であり、イエス様ご自身がそれらを共に担って下さることを知り、慰めと力を与えて下さるからです。またこれらを通してイエス様と出会い、イエス様との出会いにより、その苦難、すなわち十字架を背負うことが可能となるのです。

もう一つ、“自分を捨てる”とはどういうことでしょうか。自分を捨てるということは、自己を否定することです。この自己を否定するとは、いつも自分が、自分がと、自分の栄光、自分の考え、自分の思い、自分の気持ち、自分の、自分の、という自分を否定しなければならないのです。これはそう簡単なことではありません。なぜならば、この世の誰もが、自分を自分を、と自分を第一とすることでこの世の中が動いているからです。

「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」とは、私たちの罪を赦し、永遠の命へと導いて下さるイエス様を救い主と信じ、御言に従いつつ日々生きることです。御言に従うには、御言を聞かなければなりません。御言を教会で兄弟姉妹と共に聞くことにより自分が、自分がという自分を第一にするという思いが砕かれ、イエス様の御心を求めて歩む者とされていくのです。

               (ルカによる福音書92124節)

 

 

618日 説教―             牧師 松村 誠一

         「聖霊の導きの下に祈りなさい」

「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです。」(ユダの手紙4節)

 神の恵みを、みだらな楽しみに変えてしまっていることが指摘されています。自分たちの情欲のままに、倫理的な規範などわずらわしいと主張する人々が教会に紛れ込んできたのです。そしてそういう人たちは当然のことながら、イエス様を神の子キリストと認めなかったのです。

 キリスト教はイエス様の死後、瞬く間に、激しい迫害に遭いながら小アジア、そして大ローマ帝国の首都ローマにも伝えられていきました。なぜキリスト教は短期間に、しかも民族を超え、全世界へと伝えられ、そして多くの人々がキリスト教徒に導かれたのか。その大きな要因は、キリスト教倫理にあります。神の定められた秩序によって人間の生活が営まれていく。それは人間が人間として生きていくうえで大きな力となっていったからです。

 教会にひそかに紛れ込んできた人たちは、グノシス主義の影響を受けていた人々でしょう。彼らは、我々は罪から解放され、自由にされているのだから何をしてもゆるされていると言ってはばからなかったのです。自分たちの肉はすでに滅ぼされており、霊は救いに与っていると主張し、キリスト教倫理に反する生活をし、またそのような生活を言い広めていたのです。このような中にあってユダは、教会に集う人々に対して「愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。」(17)と勧めています。この勧めは今日の私たちにとりましても大切な勧めです。

イエス様、またイエス様の弟子たちが語った言葉を思い起こすことが出来るのは、私たちが自らの心の内に御言葉を蓄えなければなりません。心の内に御言葉を蓄えるならば、そこに聖霊が働いてくださり、今も活けるイエス様の言葉として自らに語りかけてくださるのです。ユダの手紙の著者はさらに「しかし、愛する人たち、あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。」(20)と勧めています。聖霊の働きを求めて祈り、御言葉を頂いていくときに、確実に私たちの思いは変えられていきます。

私は祈りの度に私の思いがいかに不純で、いかに自己中心であるかが示されます。そして、その都度、自分の不信仰を悔い、赦しを求めて、この私の思いを変えて下さいと祈っております。この祈りは私だけでなく、すべてのキリスト者はこのような祈りをしているのではないでしょうか。御言葉を心の内に蓄え、聖霊の導きの下に祈ることによって、私たちの信仰は養われ、キリスト者としての生活が可能となるのです。私たちは倫理的にも乱れた世俗の世界で日々過ごしておりますが、“聖霊の導きの下に祈り”励まし合いながらキリスト者として日々過ごしてまいりましょう。

                                    (ユダの手紙1723)

 

 

611 説教―                牧師 松村 誠一

                「心に割礼を」

 ユダヤ人は我々には神から律法が与えられ、神から選ばれた民である。だから神によって義とされ、神からの救いを得ていると、理解し主張しておりました。このユダヤ人の選民意識はものすごく、異邦人は神を知らないで闇の中にいる人々であると理解し、自分たちは彼らの案内人であり、彼らの教師であると自認しておりました。しかし実際には彼らも与えられている律法を守ることが出来ず、いやその律法を破ることさえしていたのです。そのようなユダヤ人たちに対してパウロは「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。」(ローマ225)と訴えております。割礼はまさにユダヤ人のしるしでした。パウロは、割礼は律法が与えられ、律法を守る民のしるしに過ぎない。だから律法を守らない、守れない、あなたがたユダヤ人は割礼なき者であると指摘しております。

そしてパウロは外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、内面がユダヤ人である者が真のユダヤ人である、と訴えているのです。このユダヤ人とは“主を褒め称える”という意味があります。ですから本当に心から主を褒め称える者が、神から選ばれた神の民なのだ、ということを語り伝えているのです。そして本当に神を称える者とは、霊によって心に施された割礼をうけた者であること語り告げております。

人間は善悪を知る心が与えられています。しかし残念ながらその善悪を知る心も罪よってふさがれてしまっています。その罪によってふさがれてしまっている善悪を知る心は、聖霊の働きによって、善悪を知る心へと回復されるのです。ですからパウロは霊によって心に施された割礼、つまり復活のイエス様の霊が私たちの心に働きかけてくださる時に罪よってふさがれてしまっている善悪を知る心に風穴を開けてくださり、神の思いを受け入れる者となるのだ。これこそが真のユダヤ人、主を心から褒め称える者なのだと教えています。

 これは当時のユダヤ人に語られた言葉であります。しかし、このユダヤ人に語られた言葉を、今日、私たちに語られた言葉として聞いていかなければならないのではないでしょうか。私たちは聖霊の働きによって罪によってふさがれて善悪を知る心に風穴が開けられ、生前イエス様が語られたことを思い起こし、イエス様と同じ思いをもって他者と共に歩む者へと導かれております。聖霊の働きにより、何をし、何を語り、あるいは何をせず、何を語らざるかを知らされている者であります。しかし当時のユダヤ人がそうであるように、私たちも善悪を知る心は罪によってふさがれてしまうことが度々です。それゆえに、私たちは共に聖書を読み、聖書の言葉を心の内に蓄えていかなければならないのです。そういう私たちに聖霊は働いてくださり、罪によってふさがれている善悪を知る心にいつも風穴を開けてくださり、内面がユダヤ人、つまり主を褒めたたえる者として歩んで行くことが出来るのです。

              (ローマの信徒への手紙21729節)

 

 

64日 説教―               牧師 松村 誠一

        「イエス様が一緒に住んで下さる」

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(ヨハネによる福音書141516節)間もなく十字架刑により殺害される時が近づいている、その時にイエス様は弟子たちに約束をされています。“父は別の弁護者を遣わして、いつまでもあなたがたと共にいるようにしてくださる”という約束です。この“弁護者については26節で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起させて下さる。」と解説されています。

 「弁護者」は聖霊であり、聖霊はイエス様が、弟子たちに教えたこと、話されたことを思い起こさせて下さるのです。そして思い起こすことにより、イエス様が救い主であることを受け入れる信仰へと導いて下さるのです。

弟子たちは、イエス様が語られたことをいつも十分に理解することができませんでした。イエス様が弟子たちの足を洗われた時も、ペトロは「わたしの足など、決して洗わないでください。」と言っていますし、また「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と、イエス様の話されたこと、行為を全然理解できなかった様子が記されています。イエス様の教えや振る舞いを理解できなかったのはペトロだけではありません。他の弟子たちも、群衆もです。しかし、そのような弟子たちがイエス様ご自身を、そしてその教えを理解する時がくるのです。

それは聖霊が降ったペンテコステの日です。弟子たちは聖霊の働きにより生前イエス様が教えられたことを理解し、イエス様こそ神の子、救い主であるという信仰へと導かれていくのです。そして生前イエス様が語られた「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という命令に従い、自分の命をかけて、いや、命を捨ててまでもイエス様の弟子としての道を歩むことになるのです。それを可能足らしめたのは、聖霊の働き、聖霊の導きであります。聖霊は、生前のイエス様が語られたことを思い起こし、その語られたことを受け入れ、信じ、それに従うようにと導いて下さるのであります。聖書使徒言行録2章に聖霊が降った出来事が記されています。

ここで注目したいのは45節です。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」ことです。聖霊は生前イエス様が語られたことを思い起こさせて下さると同時に、まさにイエス様と同じ思いをもって他者と共に歩む者へと導いてくださるのです。聖書を共に読み、生前語られたイエス様の言葉を心に内に蓄えるならば、今も活ける霊なるイエス様が私たちの心の内に共に住んでくださるのです。

       (ヨハネ意による福音書141521節)