説教記録3月

左欄(タイトル) 説教題の下に「会員ページ(PHOTO)」は創立から現在までの写真(フォトアルバム)を載せています。「閲覧」には「パスワード」が必要です。希望者は管理者に申し出ください。

 

326 説 教―           牧師 山中 臨在

  「マックの法則」 

      コリント信徒への手紙()12:110

  かつて、マクドナルド(通称マック)の社長になった方が、雨の日には客が来ないという業界の常識を覆し、雨の日にこそお客様に来ていただける道があるのではないかを考えたそうです。聖書も、雨の日にも味わえる神様の恵みがあること、いやむしろ雨の日だからこそ気づかされる神様の恵みがあると語っているのではないでしょうか。

パウロはイエス様に出会うまでは、いわば「晴れ」の道を歩いてきました。ユダヤ教の律法に通じた指導者で、裕福であり、キリスト者を迫害することで更なるエリートとなりました。ところがイエス様に出会って彼は人生を180度転換させ、キリストの福音を伝える伝道者となりました。自分自身を誇っていた彼が、自分ではなく主を誇る人生へと変えられたのです。でもそれは今までのような「晴れ」の道ではありませんでした。キリスト者であるがゆえに投獄、鞭打ち、投石、盗賊、水難、飢餓などあらゆる苦しみに出会い、そして更に神様から「身に一つのとげが与えられ」ました(7)。身体的な苦痛なのか精神的な苦しみなのかわかりませんが、パウロは「雨」を超えた「大嵐」に見舞われたようです。

その中でパウロは雨が止むように必死に祈りますが、パウロの願った祈りの通りにはなりませんでした。祈りが空しいのではありません。その雨の中の必死な祈りを通して、パウロは主の語りかけを聞き、自分が弱くさせられている時こそ、主が共にいて主の力が自分に働いてくださることを知って主の前にへりくだる恵みの機会が与えられることを確信できました。

雨が降るからこそ植物や食べ物が豊かな実を結んで、私たちを養ってくれること、そして雨が降る時こそ、太陽の存在とその恵みに気づきます。雨雲に覆われて見えない時も太陽はその上にいつもあります。人生の雨の中で神様が見えなくなる時も必ず神様は共にいて、その力を注いでくださいます。だから私たちは、弱い時に強がる必要はなく、むしろ「自分は弱い」ことを認めることで、主が共にいてくださることを確信することができます。

3年前にコロナが襲った時、私たちは途方に暮れました。教会活動が制限され、いまだかつて味わったことのない不安を抱きました。でもコロナの中でもできる福音宣教のわざがありました。コロナの中だからこそ気づいた神様の恵みがあったはずです。コロナの時こそ「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈ろう」という年間聖句が私たちの心に迫り、今年度も福音宣教のわざに励んでくることができました。今教会はいくつかの課題に直面していますが、これは行き詰まりの状態にあっても、主が共にいてくださることを信じて心を合わせて祈る絶好のチャンスです。この雨の中だからこそ示される主の恵みに気づく恵みの機会が与えられています。私たちの雨雲の上には、主の光がいつも輝いていることを信じて、これからもたゆまず祈っていきましょう。

 

319日 説 教―               牧師 山中 臨在

    「あれがほしい、これがほしい」

                     出エジプト記16:15

あなたが今一番欲しいものは何ですか。私たちはすぐ目の前にある欠乏を満たそうとします。お金がないから給料が上がってほしい、病気だから健康がほしい、自分の容姿が気にいらないから整形手術をしたい。けれどいったんその欠乏が満たされたら、あれほど欲しかったものが急に価値のないものになってしまい、絶えず次から次へと欠乏しているものが出て来ていつも平安でない状態を繰り返す、そんな人生を生きていないでしょうか。

イスラエルの民は長い間の奴隷生活から神様によって解放していただいて神様を賛美していたのに、荒野で空腹になると「エジプトにいたほうがましだった。食べるものはいくらでもあったんだ!」と不満を言い始めます。それを聞いた神様は天からマナという食べ物を降らせて、民の飢えを満たしました。この箇所は私たちにどんなメッセージを送っているでしょうか。

私たちは何か自分に不都合なことが起こった時、誰かのせいにしようとしますが、それは実は神様に不平を言っていることだと聖書は語ります(78)。神様はいつも私に最善の道を与えてくださるのに、その神様を信頼していない罪を犯してしまっていることを自覚しているでしょうか。

また、神様は私たちの必要を満たしてくださる方です。それなのに人は神様が与えてくださるものでは満足せず、あれがほしい、これがほしい、の大合唱です。神様から与えられている恵みには目を注がず、限りのない自分の欲望に目を注いでしまいます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば必要なものはすべて与えられる」(マタイ633)と約束されている言葉を私たちは信じているでしょうか。

さらに、礼拝の大切さを私たちは学ぶことができます。毎日必要な分のマナをくださる神様ですが、「六日目に家に持ち帰ったものを整えれば、それは毎日の分の二倍になっている」(5)ようにしてくださいます。これは安息日に礼拝をするために神様が整えてくださっている恵みです。日々の忙しさの中で、私たちは礼拝の時間を犠牲にしてしまう誘惑にさらされているかもしれません。しかしまず礼拝をささげること、それを通して主は私たちの必要を満たしてくださることを心に留めたいと思います。

壮年男子だけで60万人もいたイスラエルの民の不平を、モーセはよく聞いて誠実に対応しました。多くの人の不平に一つ一つ対処するのは極めて困難ですが、モーセは主に祈る中で、主の応答に耳を傾け、民に誠実に語りました。私たちは「たゆまず祈りなさい」と年間聖句をいただいて歩んできました。教会の中で起こるさまざまな声に対して、互いに祈り合っていきたいと思います。「あれがほしい、これがほしい」と叫ぶ前に、私たちの必要を満たしてくださる主の恵みに気づいて感謝したいと思います。

 

312日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

   「みことばを握る」列王記 22:1420

ユダ王国のヨシヤ王は、神様の前に正しい人で、偶像に仕えた父や祖父によって破壊されかけていた主の神殿の修復を始めます。その時「律法の書」(旧約聖書の一部)が見つかり、神様の言葉に耳を傾けずそれに従わなければ、神の怒りが国に臨み、国が荒れ果てる、と書かれていることを知ったヨシヤ王は、衣を裂いて、父や祖父の統治するユダ王国が神様に従わなかったことに対して、その罪の悔い改めを表明しました。預言者フルダを通して、神様は、ユダ王国の不義のために国に災いをもたらすが、ヨシヤ王は主の前に悔い改めたので、ヨシヤ王の生きている間はこの災いを下さない、と語ります。そしてその後ヨシヤ王は民衆を神に立ち返らせるために宗教改革を進めていきます。

不信仰のゆえに国が荒れ果てると聞いたヨシヤ王が、「心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたし(主)の前で泣いた」(19)ということから、ヨシヤ王の国を愛する思い、そして神様の前に心から悔い改めている様子がわかります。それほどまでに、ヨシヤ王の心の中に、神様の言葉が本当に生きていたことを示していたのではないでしょうか。彼は神様の言葉を心に握っていたのです。握って離さなかったから、主の言葉を聞いたその時だけでなく、そのあとも彼は改革をし続け民を悔い改めに導き続けたのでしょう。自分が生きている間は災いを下さないと神様が言うのだから彼は何もしなくてもよかったかもしれません。またどうせ自分が死んだあとはユダの民に災いが下されるなら、民が悔い改めたとしても無駄じゃないかと人は思うかもしれません。しかし主の言葉を握っていたヨシヤはその言葉を守らずにはおれなかったのでしょう。

昨日(311日)で東日本大震災から12年が経ちました。「神が愛というなら、なぜこんな理不尽な災害が起こるのか」「神に背いたから神が怒って災いがくだった、と聖書に書かれているが、ではこの災害は人が神に背いた罰なのか」と私たちは思うかもしれません。それに対する答えは神様にしかわかりません。しかし、生まれつき目の不自由な人を見て弟子たちが、それは本人の罪のせいか両親の罪のせいか、と尋ねた時、イエス様が「本人の罪でも両親の罪のせいでもない。神の業がこの人に現れるためだ。」と答えたことを思う時(ヨハネ913)、神様は今何を語っておられるのか祈り求めたいのです。置かれている状況がどんなものであっても「あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない」(申命記316)と約束された主の言葉を今しっかりと握ってゆきたいと思います。そして震災により今なお大きな痛み、不安、悲しみにある方々に、神様の平安と慰め、そして希望が与えられることを祈ってゆきましょう。そこから私たちに何ができるのか、何をすべきなのかが示されてくるのではないでしょうか。

 

 

35日 説 教―          牧師 山中 臨在

「知らんけど」 フィリピの信徒への手紙3:511

2022年に流行語となった「知らんけど」は、「文末に付けて、断定を避け、責任を回避する言い方」として、何かと揉め事の多い昨今の時代にマッチして結構使われているようです。現在では当事者になることを避ける無責任な発言にもつながりかねないなという印象も持ちます。

私たちの信仰生活はどうでしょうか。イエス・キリストを救い主と信じていることを、あるいは信じているところまでいかなくても教会に来て礼拝していることを、どれくらい明確に日々の歩みの中で示していますか。自分の信仰を曖昧にすることはないでしょうか。クリスチャン人口が極端に少なく、宗教団体が引き起こすさまざまな社会問題により宗教離れ・宗教嫌い・宗教に対する警戒が多い中で、信仰を表明すると社会から疎外されるのではないかと不安を覚える方もおられるかもしれません。しかし、自分とイエス様をつなぐ絆に対して「知らんけど」を付け加える度に、主は悲しい思いをしておられることでしょう。

世の中の価値が私たちの信仰を揺さぶる時、私たちは主イエスの愛と恵みを、そして自分の信仰を「知らんけど」と断定を避けてしまうのでしょうか。パウロはまさに世の中の価値に生きていた人でした。ユダヤ教に従事する者としてはいわば血統書付きの身分であり、世の価値基準から見るとエリート中のエリートでした。世の価値とは異なるクリスチャン信仰を真っ向から否定し迫害することによって、ますます彼の名声は高まりました。しかしこれらは、彼がイエス様に出会ったことによって無意味になりました(7)。彼は、イエス・キリストを知ることのすばらしさは、この世の価値とはくらべものにならないと証ししています(8)。イエス様が自分の罪のために苦しみを負いながら十字架に死んでくださったこと、それほどまでに、イエス様を迫害していたような自分さえ主が愛されることを知りました。また死より復活して、肉体の死が終わりではないこと、「キリストの内にいる者とされ」(9)主と共に歩む永遠の命を与えられることを示してくださるその希望を知り、パウロは、「これは本物だ!」という確信が与えられ、この世の価値に揺さぶられてはいけないことを私たちに伝えています。この世の価値を失ったとしても、イエス・キリストを信じる信仰に生きる人生は輝かしいものだと確信をもって伝えているのです。

イエス・キリストを通して示される神様の愛、救い、希望を「知らんけど」と曖昧にする私たちですが、神様は私たちのことを知っておられます。「主は私を究め(探し出し)、わたしが座るのも立つのもわたしのすべてを知っている方だ」(詩編1391, 2, 4)と聖書は語るのです。そのうえで私たちを愛し礼拝に招き、いつも共にいて御言葉を与え続けてくださいます。主は私たちの喜びであり、慰めであり、試練の時の助け手であり、希望です。そのことに私たちは「知らんけど」と付け加える必要はありません。この方を信じて歩んでいきましょう。