説教記録10月

1031日 説 教 ―    牧師 山中 臨在

   「あなたを選ぶのは誰か?」

  ヨハネによる福音書 15:1117

イエス・キリストは「わたしがあなたを選ぶ」と言われます。私たち一人一人がイエス様によって選ばれています。それは私たちが金持ちだからとか優秀だからとか健康だから、という理由ではありません。私たちはつい自分の基準を物差しにして人の価値をはかろうとしますが、イエス様があなたを選ぶ基準は、人間の物差しとは関係ありません。ノーベル賞を受賞するような人もそれとは無縁な人も、有名な人も無名な人も、健康な人も病弱な人も、若い者も高齢の人も、主はあなたを選ばれ、あなたを必要とされています。それはあなたが「実を結ぶ」ためなのです(16)。

イエス様が言う「実を結ぶ」とは、あなたを愛しておられる主の言葉をじっと聞き、主に愛されていることを実感して豊かな人生を送ることなのではないでしょうか。そしてまた、人があなたを通して主の声を聞いて豊かな人生へと導かれることだと思います。そのために主はあなたを選ばれました。選ぶ、というのは普通、大勢いる中から僅かな人を見つけ出すということを意味します。自分の周りの人も皆選ばれていたら、選ばれた感じがしないかもしれません。しかし主があなたを選ぶというのは、あなたにしかない役割を主があなたに与えておられるということです。あなたがこの世の勲章を持っていてもいなくても、そんなことは関係ないのです。あなたのためにイエス・キリストは十字架で命を捨てたほどにあなたを愛しておられます。それほどあなたは神様にとっては特別な存在です。そして取るに足らないような「私」を友と呼んでくださるのです(15)。

人が決める価値は移ろいます。昨日価値があったものが今日は全く価値がなくなっていきます。しかし唯一変わらないのが主イエス・キリストの物差しです。主があなたを選んでくださることです。そして「あなたは私にとって高価で尊い。私はあなたを愛している。あなたは私の友だよ」と主は語りかけてくださいます。

あなたは自分で選んで品川教会の礼拝に来ていると思われるかもしれません。しかし主があなたを選び、主の声を聞いて主によって実を結ぶことを期待して礼拝に招いてくださったのです。あなたがお金持ちであろうとなかろうと、成績優秀であろうとなかろうと、手先が器用でも不器用でも、リーダーシップがあろうとなかろうと、健康であろうと病気であろうと、料理が上手だろうとなかろうと、主の栄光を表すために、あなたにしかできないことがあるのだと、あなたを選んでおられるのです。1円玉には1円玉の役割があり、100円玉には100円玉の役割があり、1万円札には1万円札の役割があるように、あなたにしかできない役割を主があなたに与えておられます。私たちを選んでくださる主の声に今日も聞き、感謝し、応答して主に仕えていきましょう。

 

 

 

1024日 説 教 ―         岸本敬子音楽主事

    「天にまします我らの父よ」

   マタイによる福音書 6:514

イエス様が教えてくださったこの「主の祈り」には神様の愛が溢れています!

9節の祈りは、「天におられるわたしたちの父よ」という、神様への呼びかけで始まります。すべてを創られ治められる全能の神様に我らの父よと呼びかけているのです。私たちは、天にいらっしゃる神様をと呼ぶことを許され、天との結びつきの中に生かされているのです。なんと素晴らしいことでしょう!イエス様の十字架の死によって、罪ゆるされた私たちは皆神の子とされました。このイエス様のとりなしによって、天の父なる神様を父/お父さんと呼ぶことができるのです。その恵みにあらためて気付かされ、感動を覚えます。そして、9節の後半、「御名が崇められますように」と続きます。これは、神様ご自身が崇められ、尊ばれますようにということです。本来、罪人の私たちが神様に向かって、「あなたの名が崇められますように」と祈ることは大変畏れ多いことなのですが、イエス様が「そのように祈りなさい」と教えてくださったので、私たちは祈ることができるのです。

10「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」「御心」とは、その独り子をお与えになるほどに私たちを愛して、救いをなしとげてくださる神様の御心です。神様が望んでおられることが、天においても地上においてもその通りになされますように、という祈りです。天の父なる神様は、私たちにとって何が一番大切で良いことなのかをご存知なのですから、神様の御心のとおりになりますようにと祈るのです。

11節からは、私たちの生活の中での願いの祈りです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」私たちが生きていくための日々の食べ物を与えてください、という願いです。神様は、私たちが今日一日の命を支えるために必要なものをご存知です。多過ぎず少な過ぎず、足りないこともなく、必要な分だけ与えてくださいます。

12「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」負い目のある者とは、主のゆるしの中に生かされることを必要としている存在であります。私たちはみな神様のゆるしが必要です。罪をおかしてしまう私たちは、神様にゆるしていただき、そのゆるしの恵みの中に生かされているのです。

13「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」

誘惑 とは私たちの神様への信仰をさまたげる悪の力です。私たちは、肉体的にも霊的にも弱さを持っているので、誘惑に負けやすく、悪の力によって信仰が弱まってしまいそうになることがあります。だから、誘惑に遭わせないでください、神様のそばから離れることのないように、悪い者から助け出してくださいと祈って、守っていただかなければなりません。

「祈る」ということは、神様に向きなおることです。「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。(6:6)」他の誰もが立ち入ることができない、神様と私だけの交わりを神様が求めておられるのです。「そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。(6:6)」私たちの祈りを神様は聞いてくださいます。父なる神様は、私たちが願う前から、私たちに必要なものをご存知なのです。たとえそれが私たちの願うものと違っていたとしても、それは私たちにとって最高に良いものなのです。だから、安心してイエス様が教えてくださったように祈ればよいのです。私たちは皆、天におられる父である神様の子として招かれたひとりひとりです。その恵みを心にきざみながら、天に向かって お父様 と呼びかけて、神の子としていただいたことに感謝して祈りましょう。

 

1017日 説 教―            牧師 山中 臨在

    「自分勝手」  ペトロの手紙()1:2021

  神の言葉である聖書は私たちを励まし希望を与え力を与えてくれますが、それは、聖書を自分の都合の良いように解釈してよい、ということではありません。むしろ聖書は「自分勝手に解釈すべきではない」(20)のです。私たちは聖書を自分勝手に解釈する権利はありません。

聖書は信仰生活の唯一の基盤です。その他のどんな物も(優れた神学書や説教集も、また優れた神学者や信仰深い牧師も)信仰の基盤とすることはできません。私たち自身が信仰の基盤になってはならないことは言うまでもないことです。この信仰の基盤である聖書を自分勝手に解釈しないようにするにはどうしたらよいのでしょうか。「預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったもの」(21)と語られています。聖書は、聖霊を受けて聖霊の助けのもとに書かれたのですから、それを読む人も、聖霊の助けを受けて読む必要があります。

自分の意見や主張を正当化するために聖書を利用しようとするのは自分勝手さの表れですが、すべての人にその誘惑は潜んでいます。その誘惑に打ち勝つために、私たちは聖霊の助けを求めて絶えず祈らなければなりません。説教者は説教の準備をする中で、自分勝手に語らないように聖霊の働きを祈り求めます。説教を聞く者もまた祈らなければなりません。説教者が語るべきことを語るように、また自分たちも説教を通して主の言葉を理解して自分勝手にそれを解釈しないように、聖霊の助けが必要です。説教は説教者と聞く者すべての共同作業です。

また聖霊の助けが与えられるために、神様は人(神の家族)を用いられます。教会学校がその良い例です。教会学校では与えられた御言葉を聞き、それぞれがどのようなメッセージを受けたのかを皆で分かち合います。それが自己の絶対化を防ぐことに役に立ちます。自分とは異なる解釈を聞く中で、自分自身の勘違いに気づかされたり、より深く聖書を読む良いきっかけをいただきます。教会学校の大切さを強調し過ぎることはありません。

聖書に納得できないこともあるでしょう。しかしあなたが納得しようとしまいと、神の言葉は注がれ続けます。時としてそれはあなたの耳に痛いこともあります。私たちは何とか自分に都合の良いように聖書を解釈できたらいいなと思うかもしれません。でも自分の都合や欲望に合うように聖書を捻じ曲げてはいけません。むしろ自分を聖書に合うように変えていただくことが必要です。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(コロサイ316)と聖書は言います。御言葉と一緒に住みなさいということです。一緒に住むことは心強く安心を与えてくれますが、時として「うっとうしいな」と思うこともあるかもしれません。でも御言葉は私たちが心強いと思う時もうっとうしいと思う時も、必ず私たちに最善の道を与えてくれます。その御言葉に全面的に委ね、神様を信じて歩みましょう。

 

 

 

1010日 説 教―             牧師 山中 臨在

    「あなたもクリスチャン?」

                マルコによる福音書8 : 2733

 イエスが病人を癒し飢えた人たちに食べ物を与え多くの奇跡を行うのを見て、人々は期待を込めて「このイエスはバプテスマのヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」と口々に話していました。その様子を見てイエスは弟子たちに「あなたがたは私を何者だと言うか」と尋ねます(29)。「尋ねる」と訳されている言葉は元来「身を乗り出すように聞く」という意味です。それほどこの質問は大切な問いでした。ペトロは「あなたはメシアです」と答えました。私たちも今、この大切な問いかけに対して「あなたこそ救い主メシアです」と答えられるでしょうか。

 私たちは主からいつも問われています。あなたはイエスとどんな関係にあるのか、日常生活の中でイエスを何者だと呼んでいるのか、と。「あなたクリスチャン?」と尋ねられてすぐに答えるのをためらいたくなる状況もあるかもしれませんが、イエスは身を乗り出すほどにあなたの信仰告白をお聞きになりたく思っておられることを心に留め、「イエスはメシアだ」と告白することができるように聖霊の働きかけを祈り続けていきたいと思います。

 ペトロの信仰告白を聞いた直後に、イエスは「自分のことを人には伝えるな」と弟子たちに言っているのは不思議です。メシアとはヘブライ語で、油注がれた者、神様の特別な使命を請け負う人のことです。イスラエルの人々は、いかなる政治的権力にも立ち向かって自分たちを救い出してくれるメシアと呼ばれる救世主が来ることを待望していました。ペトロの告白を聞いてイエスは、自分は人が期待しているような強い王ではなく、「多くの苦しみを受け、権威ある人々から排斥されてついには十字架につけて殺される」ような者であると教えました。人々の期待を裏切るような内容ですが、そこにはイエスの私たちへの深い愛が示されています。イエスは世を救うために来られたのではなく、「あなた」を救うために来られた方です。「あなた」を、権力の支配からではなく罪の支配から解放するために来られた方です。力で支配する救世主ではなく、愛で導く救い主です。そのために「あなた」の罪の身代わりとなって、「あなた」の苦しみを自分が一身に背負って十字架上で命を捨てられた方です。しかし死んで3日目によみがえり、永遠の命の希望が「あなた」にあることを示された方でもありました。それほどまでに徹底的に「あなた」を愛する方です。

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」(33)とペトロに言われたイエス様。この「思う」と訳されている言葉は、「一つの方向を向き続ける」という意味です。私たちが日々の生活の中で、町を歩く時、仕事場で、学校で、家庭で、「私はイエスが私の救い主であることを信じるクリスチャンです」とイエス様の方向を常に向き続けなさい、そう語りかけられているのではないでしょうか。

 

103日 説教 ―               牧師 山中 臨在            YOUは何しに教会へ?」                                   ヨハネによる福音書 20 : 3031

YOUは何しに日本へ?」という番組は、日本に訪れた外国の方に来日の目的を尋ねます。彼らの旅の目的を聞くと、その人がどんな方であるのかを知ることができます。それはその方の履歴書のようです。履歴書には、自分は何をしてきて、何に情熱を持ちどんな信念やビジョンを持って何の目的でここにいるのかを書きます。履歴書を書くことは、自分自身を客観的に見つめ直す良い機会です。信仰告白は、信仰者の履歴書です。自分は何を信じているのか、何をしに教会に行くのかいつも自分に問いかけ、それによって自分の信仰を他者に伝えることができます。

イエス様の復活を信じなかったトマスが「見なくて信じる人は幸いだ」(29)とイエス様から諭されたことを、ヨハネは心に留めているのでしょう。罪びとの自分たちがイエスの十字架の贖いによって救い出されたこと、イエスは十字架で死んで三日目に復活して人々に永遠の命の約束を与えたこと、この恵みの出来事を目撃した者の責任と情熱によって、後の世の人たちが見なくても信じることができるようにヨハネの福音書を書いたのです。イエス様の与えてくださった恵みの数々は多すぎて書ききれなかった(30)けれど、そんなたくさんの恵みの出来事がなされた目的は一つに集約されます。それは「あなたがたが、イエスは神の子メシア(救い主)であると信じ、イエスの名により命を受けるため」(31)です。イエスの名により命を受けるとは、イエス様自身から永遠の命をいただくということです。それはイエス様に出会うことであり、礼拝することなのです。私たちが教会に集うのは、イエス様に出会ってイエス様に永遠の命を受けるためです。「私はイエス様が救い主であることを信じています。そのイエス様に会うために礼拝をささげます。」この信仰告白を私たちは、自分の履歴書として行っているでしょうか。

品川教会にも信仰告白があります。自分が体となっているこの教会はどのように信仰告白しているのか、私たちは無関心であることはできません。信仰告白について学ぶことは、自分が何を信じているのか、自分に神様がどれほど豊かな恵みをくださっているのかということに改めて出会う、喜びの出来事だと思います。聖書に書かれている出来事も、教会で起こされる出来事もすべて、その目的は、私たちが「イエス様が神の子メシアであると信じるため、そして礼拝してイエス様に出会って永遠の命を受けるため」です。

あなたは今日ここに何をしにいらしたでしょうか?あなたの信仰の履歴書には何と書くでしょうか。自分の言葉で「今日の」信仰の履歴書を書いてみることを始めてはいかがでしょうか。それによって、イエスは神の子、救い主メシアであるという信仰告白を再確認し、礼拝することによってイエス様から永遠の命を受けて歩む人生の恵みを味わいたいと願います。