説教記録10月

1025日説 教―                    日隈 光男 先生

    「孤独の時代を生きる」

    ルカによる福音書24:2835

コロナ危機の中、多くの人が苦悩と孤独の中に置かれています。今年半年間の国内の失業者は64,000人と発表されました(全国ハローワークの統計)。いろいろな事情で孤独な生活を送っている人が大勢いることでしょう。

 聖書に登場する人々が、神を裏切り、不信仰をさらけ出しています。神さまは即戦力のある優れた能力の持ち主を選ばれたのではなく、ごくありふれた人々を愛して選び、神の民イスラエルとし、イエスの12弟子にしました。

イエスは弟子たちを訓練しましたが、イエスが処刑された後で、皆逃げてしまいました。私たちは不信仰な12弟子に驚くことよりも、私たちと似ている弱い弟子たちが、神さまの無限の愛を受けていることを喜びましょう。人は変えられます。

 今日の聖書は「エマオの途上」という良く知られた、イエスの十字架刑後エルサレムを逃げ出した二人の弟子の物語です。このような弟子をイエスは見捨てる事なく、失望している二人に近づき耳を傾け、聖書から神の恩寵を語っています。イエスの十字架の出来事は神が人を愛して、その一人子をこの世につかわして、人間の罪の贖いの死を遂げさせ、全ての人の罪をゆるして神の子として受け入れる出来事です。この神のご恩寵を知った人は、不信仰で閉鎖的になっている心が開かれ、心が熱く燃える体験をしたと二人の弟子のことを記しています。聖霊によって心が燃やされた二人の弟子はUターンして仲間のところに帰り「イエスはよみがえり、生きているよ」という喜びを伝えました。これが伝道です。熱い信仰が与えられたときに、伝道する力があたえられます。

 マザーテレサは1950年代からインドのカルカッタで活躍しました。路傍の粗末なベッドに寝かされて死を待つ人々を、「死を待つ人々の家」をつくり、そこに収容して「あなたは愛されている」ことを優しい心と介護で伝え、人間らしい平安な天国への旅立ちを応援しました。マザーテレサは応援してくれる若いシスターたちを、毎朝、修道院から街へ送り出す時「さあ!今日もイエスさまにお会いしていらっしゃい」と言いました。それは、身寄りのない、ただ死を待つ孤独な人々の傍によみがえりの主がおられることを信じていたからです。私の伴侶も、2週に一回、青梅市の2つの老人ホームに入所していた二人の姉妹たちを交互に見舞い続け、お二人が召されるまで続けました。伴侶が召されて四年目の今、私は気がついたのですが、孤独なお二人の傍におられる復活されたイエスにお会いするのが楽しみだったのでしょう。本人は「往復5時間電車に乗るのは私にとって眠ることが出来、休息の時なの」と照れ隠しに笑っていました。

 私たちの心が、信仰によって熱く燃えるには聖書を読むことです。エレミヤは「あなたの言葉を食べました。あなたの言葉は私の喜びとなり、心の楽しみとなりました。わたしの心の中で閉じこめられ燃える火のようになります」(エレミヤ書15:1620:9の一部)と告白しています。

 

1018日 説 教―                牧師 山中 臨在

「愛をつたえよう」

イザヤ書6:8  エフェソ信徒への手紙3:1819

初めて訪れたケーキ屋で食べたケーキがあまりにおいしかったら、そのケーキ屋の存在を人に教えますか、それとも教えませんか。そのケーキ屋の人気が出たら、行列ができてしまい、売り切れてしまうかもしれません。だからケーキを独り占めしようと思ったら、人に教えないほうがいいのかもしれません。

 ケーキよりももっといいものがあります。それは主イエス・キリストを通して与えられる神様の愛です。その愛を伝えてほしいと、主は私たち一人一人に呼びかけておられます。では私たちに伝えよと言われている主の愛はどんなものなのでしょうか。

 まず第一に、ケーキと違って、主の愛は、どんなに大勢の人がその味を味わいたいと押し寄せても、なくなりません。むしろ多くの人が来れば来るほど、喜びが深まり、更に味わい深いものとなります。キリストの愛は人に喜びを与え、それを見た自分も喜びをいただくものです。そして何よりも主がそれを喜ばれます。

 第二に、主の愛は、毎日同じ味わいではありません。ケーキ屋のケーキはおいしいけれど、味はいつも同じです。しかし主の愛はその時々で味が異なっています。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さは・・人の知識をはるかに超えていて・・神の豊かさが満ちあふれる」(エフェソ3:18-19)のです。主の愛には限りがありません。その時々で最高の味を提供してくれます。

 第三に、主の愛はいつも「おいしい」とは限らず、時として苦く感じることがあります。おいしい物には罠も潜んでいます。カロリーの高いおいしい物ばかり食べていると健康を害していきますから、時には苦い物でも健康に良い物を摂取することが必要です。神様の愛も時として苦く感じますが、その時々においてあなたにとって最善の味です。それが神様の愛の表れなのです。「霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10-11)。

 

この主の愛の存在を伝えることが私たちの役割です。それは喜びが与えられる役割ですが、時として重荷に感じるかもしれません。しかし私たちは、主の愛は決してなくなることがなく、毎日違う味を味わうことができることをただ伝えればいいのです。キリストの愛はその表面的な苦さゆえに否定する人も多くいますが、私たちは、その愛がいかに味わい深いものだと体験したか、いかに感動しているかをそのまま伝えましょう。それを聞いても人は心を動かさないかもしれませんが、そのような人も主の愛を受け入れることができるように、祈り続けましょう。そして主の愛をつたえる者として歩んでいきましょう。

 

 

1011日 説 教―             牧師 山中 臨在

  「礼拝さいこう」   ヨハネによる福音書4:1926

コロナ危機に直面した私たちは、礼拝のあり方に戸惑いました。家庭で一人で礼拝できるのか?インターネットでの礼拝は礼拝と呼べるのか?礼拝時間が短縮されたり、歌う賛美歌の数が減ったり、隣の人と距離を置いて座ったり、礼拝が今までと変わってしまっていいのか?しかしそれによって、礼拝とは何かを再考する恵みもありました。礼拝とは主なる神様との対話です。日曜日の朝11時に教会で行われる儀式ではありません。儀式は何も考えず何もしなくても参加できますが、対話は神様に応答し応答されるものですから、参与(参加でなく)するものです。そして対話は毎回同じ順序とは限りません。だから対話の順序(礼拝式の順序)は変わることもあります。しかしどんな対話をしているのかが明確でなければなりませんから、礼拝の一つ一つ(前奏、招詞、祝祷、献金、頌栄等)がどんな意味を持つのかを再考することが必要です。そしてイエス様はまた、礼拝する場所について再考せよと語ります。サマリア人やユダヤ人は、礼拝する場所が大切であると考えていますが、イエス様は、神様は霊であり、場所に限定されない、と教えます。礼拝堂でない所にも神様はおられ、そこで共に礼拝を捧げることができます。

さて、礼拝は最高であることもまた大切です。礼拝とは、神様に最高の価値を帰することであり、また礼拝者にとって、他の何物にもまさって最高の価値あることです。サマリアの女性は、イエス様と出会い対話したあと、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々にイエス様を証ししました。水がめは彼女にとって生きるために今一番必要なものでしたが、礼拝者となった彼女はそれを手放しました。それは水がめにまさる最高のものを得たからです。

自分に大切な物をも脇に置いて礼拝を捧げなさい、というのは、礼拝が採光することだからです。光が差し込むのです。サマリアの女性は、男性にだらしないと人々の間で噂になっていました。だから人目を避けて誰もいない時刻に水汲みをしに来ていました。そんな彼女の心の暗闇に、イエス様と出会い対話することで、希望の光が与えられました。主を礼拝することによってのみ、人生の諸問題に光と希望が与えられます。

そしてその希望の光を与えられて私たちは初めて、再興することができます。人生に疲れ果て倒れそうになっていたサマリアの女性は、イエス様に出会って変えられました。人目を避けるように生きていた彼女が、町に出かけて行って、イエス様を人々に伝えるようになったのです。礼拝は、自分の力では起き上がれない私たちを再び起き上がらせてくれます。

長い歴史の中で、人が集まって礼拝できないことは何度もありましたが、そんな時も神様は私たちを礼拝に招き続けてくださり、礼拝はなくなりませんでした。集まって礼拝を捧げることが神様からの大きな恵みであることを私たちは改めて知りました。これからも礼拝は「さいこう」であることを覚えて歩みましょう。

 

 

104日 説 教―          牧師 山中 臨在

「やられたらやり返す」 マタイよる福音書5:3848

 ローマの信徒への手紙12:17

大ヒットドラマ「半沢直樹」で主人公は「やられたらやり返す」をモットーにしていましたが、イエス様は復讐を禁じ、それどころか「右の頬を打たれたら左の頬をも打たれなさい」(39)とさえ言います。「悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12:17)とおっしゃるのです。なぜそんな難しいことをしろとイエス様は言うのでしょうか。それはあなた自身を救うためなのです。社会ではいつも険しい表情をして全身に力が入っている半沢直樹が、唯一穏やかな表情で復讐心から解放されるのが自宅です。家は彼を救うのです。痛みを負わされ侮辱され復讐してやりたい、やられたらやり返したい、そんな思いを持ち続けて生きることは、常に余計な力を身に帯びて生きていかなければならず、しんどいのです。やり返したい思いがある間、私たちは解放されません。たとえ復讐しても平安は与えられずかえって苦しくなります。

イエス様は私たちをそんな苦しみに向かわせないように、「やられてもやり返してはいけない」と命じられます。そうすることで、神の家に戻って来なさい、神の家に帰れば、あなたはすべての苦しみから解放される、と語っておられるのです。

「悪に悪を返さないように、心がけなさい」の中の「心がける」と訳されている言葉はもともと「前もってよく考える」という意味です。私たちは例えば誰かに悪口を言われたら、「とっさに」悪口を返します。この「とっさに」が人間の罪です。そんな人間に対して聖書は「とっさに悪を返さぬように前もってよく考えなさい」と語られるのです。

どうすればそれは可能でしょうか。それは祈ることです。どんなに立派な人でも神様の力なくては「とっさの仕返し」をやめることはできません。自分でとっさに仕返しする前にまず、祈るのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44)とイエス様は語ります。そうすれば、「あなたがたの天の父の子となる」(45)と言うのです。神様の家に戻るなら、復讐したい思いや腹立たしさ、そこから来る痛みや苦しみから解放されます。「仕返ししなければ私の気がすまない」ともう思わなくてよい自由、そして平安が与えられるのです。忘れてはならないのは、「私」も神様に背き神様を迫害する敵だったことです。敵である「私」のためにイエス様は祈られました。「私」にやられたのに、イエス様はやり返さず、十字架の死を甘んじて受けられ、「父よ彼らをお赦しください」ととりなしの祈りをしてくださったのです。

クリスチャンはこのイエス様に倣う者です。キリスト者の特権は、祈りという最高のプレゼントを神様から与えられていることです。このプレゼントは飾り物ではありません。使うために贈られたものです。だから大いに使わなければなりません。祈りの中で、「やられたらやり返す」生き方から解放していただきましょう。