説教記録10月

1027日 説 教―               牧師 山中 臨在

「イエスさまからの嬉しい約束」ルカによる福音書19:110 

人々から不正に税金を取り立てているザアカイは、みんなの嫌われ者でした。お金持ちだったけれど、友だちがいなくて淋しかったことでしょう。ある日、町にイエス様がやって来たというニュースが流れ、ザアカイも、話題のイエス様を見たいと思って町へ出て行きましたが、背が低くて見えなかったので高い木に登ってイエス様を待っていました。すると、イエス様がザアカイのいる所で立ち止まってザアカイのほうを見て「ザアカイ、降りてきなさい。今日はあなたの所に泊まりたい」と言ったのでザアカイはとても驚きました。イエス様は義(ただ)しい人なのに、悪いことをする自分のような者の名前も呼んでくれ、救ってくれるのか。「いい子」だけがイエス様に招かれると思っていたのに、自分みたいな嫌われ者のこともイエス様はちゃんと名前を呼んでくれて、招いてくださるのか。そう知った彼は「喜んで」(6)イエス様を迎えました。

 イエス様の愛を知ったザアカイは今まで自分がみんなにしてきたことが悪いことだと気づき、自分が騙し取ってきたお金は4倍にして返し、困っている人には寄付する思いが与えられました。今まで他人の痛みなんてちっとも感じていなかったけれど、自分の痛みや寂しさをわかってくれる方(イエス様)がいるとわかったら、自分も人の痛みに寄り添いたい、と思ったのです。

 良い子のこともそうでない人のこともイエス様はみんな知っています。そして良い子にもそうでない子にも、どんな人にでもイエス様は声をかけてくれます。イエス様がそうしてくださったように、私たちも愛をもって他者をいたわる人生を歩みましょう。そしてそのように生きたら、まわりの人も喜ぶけれど、自分自身がとても嬉しくなります。ザアカイのように。

 

 

1020日 説 教―         牧師 山中 臨在

   「悔い改める」   マタイによる福音書4:1217

イエス様の宣教の第一声は「悔い改めよ。天の国は近づいた。」でした。これは、悔い改めたら天の国が近づくということではありません。「神の国は近づいている(まさに来ている)のだから、そこに行こう、行くために悔い改めなさい、ということなのです

 聖書が語る悔い改めは「後悔して反省する」ということではなく、方向を変えること、を意味します。罪を表すギリシャ語「ハマルティア」は的外れという意味です。神様という的を向いていない状態、自分に的を向けている状態が罪なのです。悔い改めるというのは、その的外れな状態から方向を変えて、神様の方へ向きなおすことです。後悔や反省をしても、根本の向きを変えていない反省だと、またそれを繰り返します。一つ二つのことを反省して後悔するのではなく、私そのものの向きを変えることが悔い改めです。そして悔い改めのもう一つ大切な点は、中心に神を置くことを意味することです。神様の方を向きなおし中心に神様を置くことが聖書の語る悔い改めです。

 バプテスト教会は信徒の教会、会衆主義ではありますが、まず聖書中心主義であることを忘れてはなりません。神様を中心に置く信仰を持つ信仰共同体であり、人間の思いではなく、神の思いにまず聴くことを根本にしています。神様を中心に置いていない知恵の出し合い、人間的な尺度や価値観や経験で教会のことがらを測っていくと、神様の喜ばれない方向に行く危険があります。私たちはさまざまな社会常識に囲まれています。それらは参考にすべき大切なことがらですが、それよりもまず神様の言葉を第一におくことが、福音宣教の第一歩「悔い改める」ことです。

神様の恵みは必ず神様の方から与えられます。人間の努力で獲得することはできません。天の国は近づいた、ということは、天国のほうから私たちに近づいてきてくれるのです。今神の国が来るとなったら、まず私たちがしなくてはならないことは、私自身の向きを神に向き変えることです。今までの私はあまりにも神様から遠くなかっただろうか。遠くて御言葉が聞こえなかったのではないか、いや聞こうとしていなかったのではないか。私たちは周囲のことにとらわれすぎますが、周囲のことにとらわれると、本来見ているべき真ん中におられる主を見失います。私たちの向きを変えて主を見ないと、インマヌエル「あなたがたと共にいる」方が、私たちが飢え、渇き、疲れ、戦い、苦しみ、泣き、どうしようもなくなった時にそこにおられる、ということがわからなくなってしまいます。主イエスは「暗闇に住む民を照らす大きな光、死の陰の地に住む者に射す光」(16)であることが見えなくならないように、悔い改め続けて歩みましょう。

 

 

 

1013日説教―      牧師 山中 臨在

 「賛美歌を歌おう」(コロサイの信徒への3:1617)                                                               

聖書は、詩編と賛歌と霊的な歌を歌って神をほめたたえなさい、と語っています。詩編(を歌うこと)と賛歌(賛美歌)と霊的な歌とはそれぞれどのような歌であったかということについては、さまざまな説がありますが、恐らく、創造主であり私たちの父なる神様をほめたたえる詩編、み子イエス・キリストを賛美する賛歌、そして聖霊の働きを賛美する歌、あるいは聖霊の導きによって湧き出る霊的な歌をイメージするとよいのではないでしょうか。

 私たちが礼拝で歌う賛美歌(賛美の歌)にはどのような役割があるのでしょうか。3つのことを教えられます。はじめに、賛美歌はみ言葉を伝える働きがあります。「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」(16)とあります。キリストの言葉は正直わからないものもあるかもしれませんが、それをただそのまま心に受け止めなさい、そうすることによって、み言葉が人の心の中に生きて働きます、そこから主にある、希望と力が与えられます。

 また、賛美歌にはキリストの真理を教える働きがあります。「知恵を尽くして互いに教え、諭し合いなさい」とあります。賛美歌を歌うことは、主の真理を教え伝える素晴らしい方法です。人はつい「私の」教えを人に教えたがりますが、「私の」教えが真理になってはいけません。真理を教える、或いは真理を学ぶのに最も良いのは、それを覚えることです。主の教えがおのずと心に刻まれます。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい、というのは、もともとは、「キリストの言葉があなたと住むようになりなさい」という意味です。神様が一緒に住んでいる時、主は私の手を離さないのですが、その手から私が離れようとすると、手は痛みます。でも痛むからこそ主の手の守りがあることがわかります。

 賛美歌の3つ目の役割は、主に感謝する表現であり、主に感謝することを教える役割です。「感謝して心から神をほめたたえなさい」とあります。私たちの中には、特に感謝する覚えはないという人もいるでしょうし、あるいは感謝できる状態ではない、と思う時もあるでしょう。しかし賛美歌を歌うことは、そんな時こそ神様は私たちが感謝すべき方であることを思い出させてくれます。感謝できない状態にある時も主は私たちを決して見捨てず、絶えず愛し見守って下さる方なのです。私たちにとって良い時も悪い時も、心から賛美歌を歌いましょう。御言葉と共に住み、主に感謝する道を歩きましょう。

 

 

 

 

106 日説教―                 牧師 山中 臨在

  「歌わずにいられない」    (エフェソ1:314)

フェソ書には主への賛美の言葉がちりばめられています。賛美は礼拝の根幹ですが、なぜ主を賛美するのか、エフェソ書は何と語っているでしょうか。

 一つは、神が私たちに「御子によって輝かしい恵みを与えて下さった」(6)からです。恵みとは一方的に神から頂く賜物であり神様の愛です。私たちが神様を愛したから神様がそれに報いるために私たちを愛されたのではありません。私たちが神様に背を向けるにも関わらず愛して下さるから恵みなのです。だから私たちはそんな素晴らしい神様をほめたたえるのです。カーナビの指示に私たちが逆らってもカーナビはあきらめずに私たちを目的地に届けようとするように、神様も私たちを決してあきらめずに私たちを最善の道に導いてくれます。なんという恵みでしょう。

もう一つは、「あらゆるものが主イエスによって一つとされる」(10)からです。ある物理学者によれば、自然界の現象は、一つにまとまらず、拡散・分裂するのが自然なのだそうです。これは人間にもあてはまります。人類は一つになろうとせず、どこまで行っても自分の主張をし、他人と分裂をしていく。こうして人は人と争い、国は国と争い、イデオロギーはイデオロギーと争います。いや実は自分自身の中にも相反する二つの物があってその間で揺れ動きます。人は善への欲求と悪への欲求との板ばさみになり、罪を憎みながらも罪に惹かれてしまうのです。そんな分裂を一つにまとめるためには、そこに或る大きなエネルギーをかけてあげなければなりません。そのエネルギーを人間は力による統一だとして戦争を繰り返してきました。しかしそれは決して統一を生みませんでしたし、これからも生まないでしょう。キリストのみが私たちを一つにまとめることのできる「エネルギー」です。神の栄光を傷つけてきた私たちは、罪を赦され罪から解放され罪から回復させられなければなりません。それをなしてくれる唯一のエネルギーはキリストです。その血によって罪を贖って下さった(7)、それはまさに神様からの賜物として与えられています。何という恵みだろう、何という救いだろう、と私たちは主を賛美して歌わずにはおれないのです。

調子のいい時には歌えるけれど、調子の悪い時には歌う気になれないと言う人もいるでしょう。けれど聖書は調子がいい時だけ主を賛美したらいいとは書いていません。いやむしろ調子が悪い時にこそ礼拝し主を賛美しなさいと語っているのではないでしょうか。「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)のです。賛美する気になれない私たちの痛みや苦しみや怒りを、誰もわかってくれない私のそんな思いを、主だけはご存知で、そんな私たちを愛され救いの恵みを与えてくださいます。だからこそ主は賛美されるべきお方なのです。だからこそ主を歌いたいのです。主は私たちの喜びの歌です。