説教要旨

 

1028日 説教―                 牧師 松村 誠一

                「主をたたえよ」

天野有先生は、1017日、主のみもとに召されました。私は天野先生の最期の原稿となった「説教黙想」No.102の“カール・バルトの説教(詩編6820節)”を読むと共に天野先生がドイツ語で読んでいたカール・バルトの説教の翻訳も読んでみました。そして私もこのカール・バルトの説教から大いなる励ましを頂きました。

カール・バルトは195685日、バーゼルの刑務所で詩編6820節から説教をしております。この時代、世界的に見れば東西冷戦時代であります。カール・バルトは、説教の始めに世界中が不安定な中にある中で   〝主をたたえよ″と言えるだろうかと問うております。バルトは、「私たちの思いや情は、普通、それとは全く別の方向に走ってしまう。私たちは主をほめたたえていない。私たちは皆―私も含めて―不平をならしている」と言っています。バルトは、具体的に不平不満をぶつけた後に、これらのことが本当に、そうだ、とは言えない。この不平不満の中で、私たちが自分自身を理解したり、お互い同士、理解することを学んでいるだろうか。決して学んではいないし、学ぶことは出来ない。そういう中で、〝主をたたえよ、日々、私たちを担い、救われる神を″と呼び叫ぶ。これこそ、とりもなおさず、私たちの全ての者を越えた、私たち全ての者に反した真理そのものである、と語っています。

“主をたたえよ、日々、私たちを担い、救われる神を”と呼ばわることが出来るのは、神が私たちを担われるからである。神は私たちを滅ぼしてしまってもよいはずである。しかし、神はそうなさらない。神は、私たちのような者をさえ、忍ぶことができ、忍ぼうと思い、事実 忍びたもうた偉大なる主にいますのだ と。そしてバルトは続けて言います。神はただ忍ばれるお方ではない、私たちの愚かさや悪や、大小様々の悲しみの泥沼から、私たちを引き出してくださることを意味している。神は死の国から私たちを離し、永遠の命へと移し替えてくださる。その神に対して“主をたたえよ、日々、私たちを担い、救われる神を”と呼ばわる時に、私たちは神の子とされ、私たちは変えられていくのである。そして神が与えて下さる命へと導かれていくのである と。

 天野先生は、この聖書の箇所を次のように訳しています。「日々に主はほむべきかな。我らの助けでいます神が我らを負い給う」と。天野先生は食道癌ステージ4と医師から言われ、癌治療中。心身共に非常に苦しい時に、このバルトの説教がどのように自分に作用するかを言わば実験してみようと思った、と言って「説教黙想」No.102の原稿を書いているのです。天野先生は自分も私たちのあらゆる正当、もしくは不当なつぶやきにも関わらず「日々に主はほむべきかな。我らの助けでいます神が我らを負い給う」、この言葉を苦しい時に口ずさみ、この言葉によって、イエス様の赦し、憐み、イエス様が与えて下さる永遠の命に生きることへの思いが強く与えられていったのです。私たちの心も不平不満で満ち溢れていますが、不平不満をぶちまけるのではなく、こういう時こそ、〝日々に主はほむべきかな″と主を賛美する者でありたいと思います。主を賛美する者を主は担ってくださるのです。

                 (詩編68編:20節)

 

1021日 説教―                 牧師 松村 誠一

     「来るべき方は、あなたでしょうか」

ヨハネはイエス様の先駆者としてイスラエルの世直し運動家として登場してきます。律法を守らず腐敗しきっているイスラエルの民に向かって、その罪を糾弾し、悔い改めを迫っています。ヨハネの糾弾は一般民衆にとどまらず、領主のヘロデに対しても向けられます。ヨハネはヘロデの悪事を非難し、それが原因でヘロデに捕らえられ、使命半ばにして獄に入れられてしまいます。そのヨハネが自分の弟子たちをイエス様に遣わし「来るべき方は、あなたでしょうか」、すなわちメシアはあなたなのですか、と問うているのです。

ヨハネはイエスこそ旧約の時代預言者によって預言されていた救い主であることを一番良く知っていた人物でしょう。問題なのはその救い主・キリスト理解なのです。ヨハネが抱いていたのは偉大な力を発揮し、この世の悪を滅ぼし、正しい神の国を建設していく、そのようなイエス像だと思います。ヨハネは、獄中でイエス様がメシアとして力ある業を発揮されることを期待して「来るべき方は、あなたでしょうか」と問いただしたのではないでしょうか。そのようなヨハネの期待のこもった質問に対してイエス様は次のようにお答えになっております。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。これはイザヤのメシア預言の言葉であります。つまり、旧約聖書で預言されてきたメシアは私である、と告白されているのです。しかし、その告白ですが、ヨハネが抱いていた力ある者として、この世に登場するのではなく、耳の聞こえない人、歩けない人、病の中にある人を癒し、一般社会から疎外されている人、そういう人々の苦しみ、悲しみに連帯し、そしてイエス様ご自身も共に悩み、苦しんでくださる。そういう仕方で彼らを励まし、助けられました。つまり彼らに仕えるという仕方で、救い主・キリストとしての働きを具体的にされたのです。

私はこの箇所を学んでおりまして、私も自分なりのイエス様像というものを作りあげてしまっているのではないかということに気が付かされたのです。つまりイエス様を自分に引っ張り込んで来て、自分の都合のいいイエス様像を作りあげてしまっているということであります。

自分自身にとって都合のいいイエス様ではなく、来るべき方に出会っていく、真のイエス様に出会っていくには私自身が貧しくならなければなりません。貧しくならなければとは、イエス様の助け、イエス様からの赦し、イエス様の愛をいただかなければ生きていけない、そのような者である時に、来るべき方、救い主イエス様に出会っていくことが出来るのであります。

自分には力がある、能力もある、富もある、自分の力でやっていける、そのような者には、イエス様は御自身を隠されてしまう、いや、見えなくなってしまう存在なのです。

              (マタイによる福音書1126

 

1014日 説教―                   牧師 松村 誠一

             「自由人と自由な者」

パウロは福音宣教のために、自らの権利を自分の自由な意思により放棄していく、その自由こそキリスト者の自由であることを語ってきました。今日の聖書の箇所もそうです。パウロは誰に対しても、「自分は自由な者である。自由な者であるがゆえに、自らすべての人の奴隷になりました。」と言っております。福音宣教と奉仕のために喜んで、自らの自由な決断により、与えられている権利や当然の報酬を放棄していく、それこそ自由な者なのだと。そしてその自由な決断を選び取り、自由な者として生きていくためには節制、自己訓練が必要であることが述べられています。

パウロが語っておりますように、人が救われるのは信じる信仰によるものであり、決して行為によるものではありません。しかし、救いに与った者は、与えられている福音宣教という使命を果たしていくために節制が必要なのです。その節制ですが、パウロはマラソン競技を例に出して語り教えています。コリントでは、この時代マラソン競技が盛んでした。みんなマラソンがどれだけ過酷な競技であるか、また優勝する者がどれだけ節制して、自己訓練をしているか良く知っておりました。そのコリント教会員に対して、あなたがたも賞を得るように走りなさいと勧めております。この節制ですが、神の霊に導かれて生きる生き方を指し示してる言葉が使われています。救いのために、禁欲的な生活をすることを勧めているのではありません。節制はあくまでもキリスト者としての務めを果たしていくためであります。パウロは自分の全存在をかけて福音宣教に当たるのでありますが、それを貫徹させるためには、肉的な弱さに打ち勝たなければならなかったのです。自分の正しさや、自分に与えられている権利を主張したいこともあったでしょう。しかし、その権利の主張も、自分の主義主張も他者のために制限しなければならないのです。それはできるだけ多くの人を得るため、すなわち救いへと導くためです。これは神の霊に導かれなければできないのです。肉欲に打ち勝ち、そしてさらに当然与えられている権利まで自ら放棄して福音を宣教していくためには、神の霊に導かれなければできないのであります。

私たちは、パウロ以上に弱さをもっているのではないでしょうか。私たちはエゴのかたまりではないでしょうか。そのような者ですが、一人一人に与えられているキリスト者としての務めを果たしていくために、エゴに打ち勝ち、自分に与えられている権利を放棄して他者に仕えていくことが求められているのです。不従順な自己を神のみむねに服従させることが求められているのです。節制が求められているのです。朽ちない冠を得るために節制するのです。

    (コリントの信徒への手紙()9章:1927節)

 

107日 説教―                    牧師 松村 誠一

              「分かちあう幸せ」

使徒言行録243節からは見出しに「信者の生活」と記されておりますように、信仰者の群れが築かれ、その群れの様子が描かれております。ペトロを始め、イエス様の弟子たちの大胆な福音宣教、そして具体的に、病人を助け、励まし、民衆に寄り添い、民衆に仕えての生活は神の威厳、臨在を感じさせるものだったのでしょう。すべての人に畏れが生じ、また信仰者の群れは皆一つになって、すべての物を共有し、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて皆がそれを分け合ったという出来事が起こっております。この信者の生活は、私は、これからの社会の理想ではないかと思わされました。それは先日開かれた東京地方連合女性会の集会で、ふじみ教会牧師、犬塚先生のお話を伺ってであります。犬塚先生は教会のシェアハウスに住んでおられ、そのシェアハウスについてお話をしてくださいました。先生は、「高齢化の加速や大規模自然災害の多発など、誰もが一人では生き残れない社会が広がっている。ならば、生きられる方法を一緒に考えよう」と思ったそうです。先生は使徒言行録、今日の箇所から信徒の支え合いの暮らしに触発され、同じことが出来ずとも神を頼りに決断していく姿を模範に教会づくりをしていきたいと思いをもつことになります。犬塚先生は主任牧師になった時から共同生活実現に向かって具体的に動き出します。 2012年、企業の社員寮が売りに出され、その社員寮を購入して南カナンシェアハウスを立ち上げます。その家には犬塚先生家族、犬塚先生とお連れ合い、そして2人の息子さん、それに管理人の栗山さん、そしてご主人に先立たれて特別養護老人ホームから移住してきた信子さんという方が一緒に住んでいるそうです。寝室はそれぞれ個人に与えられているそうですがリビング、台所、ふろ、トイレは共同だそうです。

「拠点としての南カナンシェアハウスには、居住の他に①交わりの接点 ②社会への玄関 ③教会がもつセーフティーネット ④ケアを運ぶ基地、という4つの役割を設けた。そのため、ここでは教会のイベントや子ども会、近隣住民との交流会などが頻繁に行われる。入居者以外の人が日常的に出入りすることで、さまざまな交流も生まれる」と。「入居者同士のトラブルはどのように対処していますか」の問いに、犬塚先生は「人と人との摩擦は悪いことばかりではありません。むしろ、そんな思い通りにならないことを通して、新しい気づきが与えられることが多いです」と語っております。(「百万人の福音」10月号より)実際の共同生活にはいろいろな事が起こるでしょう。しかし犬塚先生は「悲しみと同じパイプで恵みは流れる」と語っておられます。この言葉は本当にそうだと思わされました。このような犬塚先生の発想、そして実践を後押ししているのが、今日の聖書の箇所です。こんにちの日本の社会、経済のしくみから、ここに記されているような生活をすぐに始めることは困難なことでしょう。しかし、犬塚先生も言っておられますが、同じことが出来ずとも神を頼りにして、少しでも取り入れていこうという姿勢は持ち続けていかなくてはならないと思わされました。まずは畏敬の念をもって神の御前にぬかずき、心一つにして互いに仕え合い教会生活を共にしてゆきたいと思います。  

                (使徒言行録24347節)