説教記録10月

 

1029日 説教―            牧師 松村 誠一

             「イエスは良い羊飼い」

 旧約聖書にはしばしば良い羊飼いと悪い羊飼いの例が出てきます。エレミヤ書23章には悪い羊飼いの話が出てきます。「『災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは』と主は言われる。それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについてこう言われる。『あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する』と主は言われる。」(12)

 羊飼いとは当時のイスラエルの指導者のことです。イスラエルの指導者は、イスラエルの民を正しい道に導こうとはせず、自分たちの勝手気ままな生活を維持するために、悪政を行い続けたのです。まさにエレミヤが指摘しております通り、羊の群れ、つまりイスラエルの民を散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかったのです。しかし、主なる神は3節で「このわたしが群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。」とエレミヤを通して宣言しております。このエレミヤは紀元前627年頃預言活動をした人物でありまが、ヨハネの時代のヨハネ教団の人々は、このエレミヤの預言がイエス様において成就したと理解したのです。そして、その先ですが、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」この言葉もイエス様の十字架の死と、復活の出来事を通して理解することが出来たのです。

 今日においても、イエス様の生涯を知っている私たちは、良い羊飼いは羊のために命を捨てる、というイエス様の言葉が、イエス様の十字架への道が示されていることは理解することができるでしょう。しかし、そのイエス様の十字架の死が、「この私のためである」、ということは今日の私たちすべての者が受け入れられる事柄ではありません。この「私のためである」。このことを受け入れるには、自分自身がいかに罪多き人間であり、自分勝手で、いつも自分、自分、と自分のことばかりしか考えられない愚かな存在であるということを知らなければならないでしょう。同時に、このような人間が生きていくには、神の赦し、神の然りがなければ生きてゆけない存在であることを知らなければ、イエス様のこの言葉は受け入れることは出来ないのではないでしょうか。著者のヨハネはイエス様の十字架と復活の出来事を知っており、それほどまでに我々に神の与える命に生きるようにと愛し、招いておられるお方であることを訴えているのです。

 

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られたイエス様のご生涯を振り返る時に、私たち一人一人の中に巣くっている非人間的な思い、他人の命を破壊してしまう恐ろしい生き方が、まさに正されていくのです。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」このイエス様の言葉を今日、“私に”語られた言葉として聞き、それほどまでに私を愛して下さっているイエス様の愛に触れ、イエス様の御心を求めて日々歩む者でありたいと思います。

         (ヨハネによる福音書101118)

 

 

 

1022日奨励―            片桐 健司 兄

        「わたしたちはどこからきたの?」

■みなさんは、生まれる前、どこにいたか憶えていますか?ほとんどの人が憶えていませんよね。でも生まれる前のことを憶えている人もいるんですね。赤毛のアンというお話の翻訳をした村岡花子さんという人がいるのですが、花子さんの子どものあゆむさんは、小さいときに病気で亡くなってしまいました。それを悲しんだお母さんの花子さんは、「仕事が忙しくて、死なせてしまってごめんね。私の所なんかに生まれてこなければよかったのに」と言ったそうです。そのとき、「それは違う」と話したのはあゆむさんのお父さんでした。あゆむさんは、生まれる前に神様に「ぼくは、あの人の所へ行きたい」と言って、花子さんの所に来たと話していたと言うのです。どんな所かわかりませんが、人は生まれる前から神様のところにいて、神様に送られてこの地上に来たのです。

人は、死んだらやはり神様の所に行きます。そしてこの地上で生きているときも、神様に守られています。「うそだーい」と誰かが言いました。「神様は、守ってなんかくれないよ。」「ぼくのうちはね、お金がなくて困っているって、うちの人が言ってたよ。」「病気で苦しんでいる人もいるよ。」「心の病気で辛い気持ちの人がいて、人生が苦しいって。」そうですね。大変なことがたくさんありますね。

実は、この私も大変なことがありました。ある日曜の午後、教会の帰りに近くの図書館に行ったんです。そこで小さい部屋にかばんを置いて、ちょっととなりの部屋に行きました。小さい部屋には誰もいなかったので、まあいいかなと思って行ったのですが、23分して戻ってきたら、黒い服を着た女の人がいました。あまり気にしないでかばんを持ってそのまま家に帰りました。そうして家へ帰ってかばんの中の財布をみたら、入れていたはずの7万円が入っていなかったのです。びっくりです。もしかして、教会の礼拝堂にかばんを置いていたときに、誰かがとったのかな?いや、教会の人がそんなことするはずない。そうだ、図書館で黒い服を着ていた人がいた。あの人がとったのかな。悔しい気持ちでいっぱいになりました。

そしてお祈りしていたら、神様がこう言いました。「健司さん、あなたのお金は誰のものですか?あなたのお金も、持ち物も命も、みんな神様からもらったものですよ。7万円だって、神様から頂いたものだから、何も心配しなくていいんですよ。」そうか。7万円はなくなったけど、もともとは神様のものだった。もしかして、そのお金で、その人が助かったら、それはそれで良かったんだ、と思ったら、悔しい気持ちがなくなり、心が落ち着きました。(それから1週間ぐらいして、私の本棚の書類の間から7万円が出てきました。最初から財布に入れてなかったことにそのとき気がつきました。)

空の鳥も、野の花も、みんな神様が育ててくださっています。何を食べようかとか、何を着ようかとか、心配しなくても必ず神様は備えてくださいます。神様が悪いようにするはずはありません。必ず神様は、一番必要なものをいつも用意していてくれるのです。今は、大変なことがあっても大丈夫。神様を信じていれば、神様は守ってくれます。

■空の鳥のことが書いてあるあとに、聖書にはこう書いてあります。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。

              (マタイによる福音書62532

 

 

 

1015日 説教―             牧師 松村 誠一

            「キリストの言葉を聞く」

 パウロは神から選ばれたユダヤ人は神のご計画に不忠実であることを指摘してきました。しかし神のご計画は、人間の側の不忠実などによって左右されるものではなく、そのようなものを超えて、着々と進められていくことを語ってきました。そして神のご計画は、全ての人々がイエス・キリストによって救われることであることを続けて語ります。109節ですが、「口でイエスは主であることを公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」と。

パウロは、ここで自ら次のような問いを立てております。イエス・キリストを信じる信仰によってのみ人は救われる。ではイエス様のことを知らなかったら、口でイエスは主である告白することは出来ないではないかという質問です。そのような質問にパウロは次のように答えています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして、信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてある通りです。」(ローマ101415

 イエス様を信じる信仰によって救いが得られるということは、イスラエルの歴史を通して、アブラハムの生涯を通して、モーセや、預言者、そしてイエス様の弟子達の証言を通してでないと、知ることは出来ません。信仰とは、聞かなければ、与えられないのです。不思議な業や、しるしが信仰を成立させるのではないのす。聖書が指し示している救い主イエス様の言葉が人間を目覚めさせ、醜い人間の罪が明らかにされ、絶対なる神の前にただひれ伏す者へと導いてくれるのです。人間の思いではなく、神の働きかけによるものです。言葉が語られる、そこに神が働かれ、神様の出来事が起こされていくのです。

 信仰は、キリストの言葉を聞くことにより成立するのです。そうであるならば、宣べ伝える者がいなければ聞くことすら出来ません。宣べ伝える言葉はキリストの言葉です。キリストの言葉は、その言葉を知っている者でなければ宣べ伝えることは出来ません。しかもその言葉を宣べ伝えるようにと遣わされなければ、宣べ伝えることは出来ないのです。パウロはイザヤ書の言葉、「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と紹介しています。“良い知らせ”とはキリストの言葉を指しているのでしょう。伝える者の足が美しいのであって“口が美しい”とは述べておりません。それは良い知らせを知らせる内容は、遣わして下さるお方によってすでに用意されているのです。その用意されている言葉を運べばいいのです。素晴らしい人間の言葉はいらないのです。キリストの言葉を聞く。聞いた者に神が働かれる、そこに信仰が神によって与えられるのです。遣わされ、良い知らせを伝える者とは誰のことでしょうか。それはイエス様を救い主と信じている私たちです。

                    (ローマの信徒への手紙101421節)

 

 

 

108日 説教―              牧師 松村 誠一

            「聖なる者としてください」

 “聖なる者”として生きる、ということはイエス様によって罪赦された者として生きることであり、罪赦された者として感謝してイエス様の教えに従って歩む者のことであると4章で学びました。しかし、自分自身の心の内を探る時に果たして聖化されているのだろうか。いや相変わらず罪多き者であることが示されるのではないでしょうか。私たちは”聖なる者“にほど遠い自分の姿の前にくずおれてしまいそうになる時があるのではないでしょうか。そのような私たちに今朝の聖書の箇所は慰めと励ましを与えてくれます。

 さて、パウロはテサロニケの信徒への手紙を書き終えるに当たり次のような祈りを捧げています。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」(523節前半)パウロの執り成しの祈りです。私たちは自分自身で”聖なる者“にはなれません。イエス様によって”聖なる者“へと導かれていくのです。23節の後半にパウロは「また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」と祈りを続けています。私たちが”聖なる者“とされていくことが明らかに記されています。私たちが”聖なる者“とされるのはイエス様が来られるとき、すなわち再臨の時です。イエス様の再臨によって、この世が終末を迎える時が私たちの救いの完成の時であります。私たちが”聖なる者“とされることも、その救いの完成において神によって与えられるものなのです。ですから”聖なる者“とはイエス様によって、”聖なる者“にされていくことを願いつつ、イエス様に従って歩む者であると言えましょう。

 パウロは手紙の最後で「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、わたしは主によって強く命じます。」と記しています。とても強い言葉です。これは異教社会に出来たばかりの教会ですので、キリスト者としてどのように生活をすればいいのか分からない人がたくさんいたのでしょう。ですから一部の人だけでなく教会員全ての人に読んでもらいたい。この手紙を読みパウロたちと共に主イエス様を救い主と信じ、信仰の道を共に歩んでもらいたいというパウロの強い思いが記されています。そしてテサロニケの教会員全てがこの手紙を読み、パウロの勧めを受け入れ、与えられた信仰に生き抜いたのでしょう。ですから紀元約52年頃に記された手紙が、今このように私たちにもキリスト者として生きる指針を与えてくれているのです。私たちは、イエス様が必ず来られ、私たちを”聖なる者“として下さる日を願いつつ、いつも喜んで、絶えず祈り、今与えられている生活を感謝して教会生活を共にしていきましょう。

          (テサロニケの信徒への手紙一 52328節)

 

 

101日 説教―         牧師 松村 誠一

       「教会生活の秘訣」

パウロはテサロニケの教会員に「兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で、労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、また、そのように働いてくれるのですから、愛を持って心から尊敬しなさい。互いに平和に過ごしなさい。」(5:1213節)と勧めています。これはただ一人の教会の指導者ではなく、あなたがたの間で、労苦している人々、あなたがたを正しい方向へ導く人々を、彼らの働きのゆえに愛をもって心から尊敬しなさい、と勧めております。ですがら、少なくても3人以上の人々の働きを念頭に置いて語っているのだと思います。

教会が教会という信仰共同体となり始めたこの時代に、教会のために労苦すること、これは、まさに労苦の連続だったといことが容易に想像することができるのではないでしょうか。この労苦することでありますが、第一に時間を捧げなければ出来ない働きです。主と主の教会のために自分を投げうっている人々のことをパウロは思いつつ書き記したのではないでしょうか。教会が教会となってゆくために教会員の様々な世話を買って出た人々。教会が教会となるために教会員を戒める、諭す役目を担っている人々を念頭に置いて語っております。異教社会において、具体的にどのような生活をすればいいのか、分からず戸惑っている教会員もいたのでしょう。そういう人々に、愛をもって正しい方向へと導いてくれる人びとを、心から尊敬しなさい、と勧めているのです。

お互いに愛し合う中で、特に労苦している人々、世話をしている人々、正しい方向へと導く働きを担っている人々を、愛をもって尊敬していく時に、教会内に秩序が生まれ、その秩序が神の平和を築き上げていくことになるのです。またパウロは、教会員に戒め、励まし、助けるようにと勧めをしております。まずは怠けている者たちを戒めなさいという勧めであります。主の再臨がいつ来るか、気になって仕事が手につかなかった人ではないでしょうか。次に気落ちしている者。キリスト教への迫害が激しくなってきて、その迫害に遭い、おろおろしている人のことかも知れません。そして弱い者たちを助けなさいですが、伝統的な清い物、清くない物の規定に縛られ、食べていいもの、食べてはいけないものにこだわり生活している人々でしょう。そういう人々が教会の交わりからはじき出されないように助けなさい、という勧めです。これらの大前提は「悪をもって悪に報いることのないように気を付けなければならないのです。

パウロは「いつも喜んでいなさい。」と勧めています。いつも喜んでいられる。それは、12節からの勧めを具体的に日常生活の中で実行する時に、喜びが与えられるのであります。主と主の教会のために労苦している人を愛し、重んじ、尊敬の念をもって接していく、怠けている者たちを、気落ちしている者を愛する兄弟姉妹として励ましていく時に、喜びが与えられていくのです。喜びは、祈る思いが与えられ、祈りを捧げていく中で、どんなことにでも感謝する思いへと導かれていくのです。

喜び、祈り、感謝は円環です。この円環を絶やさないように共に教会生活を送ってゆきましょう。

    (テサロニケの信徒への手紙一 51222節)