説教記録10月

 

1030日 説教―            牧師 松村 誠一

               「神の平和の計画」

エレミヤ書29章はバビロンの捕囚の民に対してエレミヤが書いた手紙です。神から選ばれた民族が、バビロンによって痛めつけられ、異国バビロンに地での生活を余儀なくされることは、屈辱であり、受け入れられることではありませんでした。そのような捕囚の民にエレミヤは、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。」(5節)というエレミヤの語りかけは、彼らを不快な思いを与えるばかりで、とても聞き入られる言葉ではありませんでした。しかし、エレミヤは語り続けます。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」。(1011節)エレミヤはイスラエルがおかれている状況を分析して、今どのように振る舞うかを語り聞かせたのではありません。エレミヤは神の啓示によって示されたことを神の名において語りかけているのです。70年の時が満ちたらバビロンの地から、エルサレムに連れ戻す、という神の言葉をエレミヤは語り伝えます。この70年という数字は非常に長い象徴的な数字でしょう。神の定めた期間が過ぎるならば神のイスラエルに対する計画は実行されるのだということです。捕囚の民の中には50歳、60歳を過ぎた人もいたでしょう。そういう人々は、生きている間にはバビロンから解放されることなく、異教の地で生涯を終えなければならない。しかし、そういう人々も、神が与えよとしている神の平和な計画を待ち望め、その計画に身をゆだね、神との関係の中で過ごせ、というメッセージです。そしてエレミヤは神の平和の計画を知らされた者は神に応答し、自らもその計画に参与せよ語りかけております。

捕囚の民は歴史的にはペルシャのキュロス王によってバビロンから解放され自国に戻ることが出来ましたが、それが最終的な神の平和の計画ではありません。最終的な神の平和の計画はイエス・キリストによる計画です。その最終的な計画はイエス・キリストによって明らかにされ、私たちにもその計画が知らされております。この平和の計画を知らされた者はイエス様に聞き従い、その計画に参与して行くことが求められているのです。そしてこの神の平和の計画に参与して行く時に人間は神との関係において生きる者とされていくのです。そしてこの関係に生きる者は、神の壮大な計画を担う者として、その人、その人だけがなし得るどんな小さなことにも意味があることに気付かされていくのです。それゆえに私たちは神の平和の計画に参与し、「主よ、来たりませ」と祈りつつ、今の時代神の平和の計画実現という希望をもつて歩んでまいりましょう。

       (エレミヤ書291114節)

 

 

1023日 説教―              牧師 松村 誠一

            「神の知恵であるキリスト」

パウロはコリントの信徒の手紙一21節で「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。」と語っています。ところが6節でパウロは「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。」と述べております。これはどうことでしょうか。岩波訳聖書(青野先生の訳)ですと6節は「しかし私たちは、『完全な者たち』の中にあっては、知恵を語る。」と記されています。そして注釈として「この言い方を、パウロは何の留保もなしにではなく、むしろある種の批判をこめていると思われるのでかぎ括弧をつけた。その批判についてはフィリピ31215を参照」と記されています。フィリピのこの箇所を読みますと「完全な者たち」というのは、自分たちは知識がある、自分たちは信仰の奥義をきわめてしまったと言って、福音を自分勝手に解釈し、勝手気ままな、放縦な生活をしていたコリントの人々への批判を込めての言葉であることに気付かされます。ですからパウロが6節で言っている知恵とは6節後半の「それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません」と言われているように、人間の知恵、この世の知恵ではありません。7節前半に「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり」とあるように、それは「神の知恵」です。

人間の知恵と神の知恵の違いは何なのでしょうか。神の知恵とは7節に記されていますように「私たちが語るのは、隠されていた、神秘として神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」(岩波訳は「むしろ私たちは、奥義の中にあって「今に至るまで」隠されてきた神の知恵を語るのであって、それを神は,世々の創造以前に、私たちの栄光のために、あらかじめ定めておかれたのだ。」と記されています)神の知恵は、隠されている、奥義なのです。この「神秘」または「奥義」という言葉は、21節にも用いられています。21節でありあますが、「兄弟たち、わたしもそちらに行った時、神の秘められた(奥義)計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。」と。そして2節で「なぜならば、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と記されています。

そうです、神の知恵とは、イエス・キリストであり、十字架に付けられ生涯を終えられたイエス・キリスト、そのイエス・キリストの生きざまが神の知恵なのであります。神の知恵とは、神がイエスを通して神の愛と赦しを宣べ伝え、そしてイエスが十字架を担って死んだ、そのイエスに復活の命を与え、今も神の力によって生きる者として下さることであります。神の知恵である十字架の言葉は人を救いに導く神の力です。十字架の言葉である福音を共に聞き、聖霊の働きにより、罪の赦しと永遠の命を頂き、喜びと平安の日々を過ごす者でありたいと思います。

       (コリントの信徒への手紙一269節)

 

 

 

1016日 説教-                 牧師 松村 誠一

        「十字架につけられたキリスト」

 イエス様の十字架の死、それが私たちの救いの出来事であることは人間の知性、理性によっては知ることは出来ません。なぜならばこの出来事は人間の知性、理性を超えたところの神の出来事だからです。ではどうしたらその出来事を神の出来事として知り得るのでしょうか。それは信じるという信仰によってのみ知ることが出来るのだ、ということをパウロは語ってきました。

 当時のコリントの教会には人間的知識を誇っていた人々がいました。彼らは福音を知識によって解釈し、救いに導くところの福音を曲げてしまい、その結果教会を分裂させてしまいました。そのコリント教会員に対してパウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」(126)と語っています。つまりあなたがたが救われたのは、ただ神の恵みにより、神の一方的な選びによって救われたのではなかったのかと、パウロはコリントの教会員に自分が救われた時のことを思い起こさせております。

 私たちはどうでしょうか。私たちも知識によって救いに導かれたのでしょうか、行いが良かったからでしょうか。そうではないと思います。この私でありますが、自分ではどうすることも出来ない醜さ、罪深い者であることをイエス様によって認識させられた時、イエス様の十字架の出来事を通して救いへと導かれた者です。これは私の努力ではありません。聖書の言葉が私の内に働き、罪をあらわにし、信じる信仰へと導いてくださったのです。キリスト者は皆そうではないでしょうか。

 パウロがコリントの町に初めて訪れ、福音を宣べ伝えた時の事を思い出し語っています。自分の知恵、知識で語ることなく、ただ「イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めて」コリントの町に行ったのです。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。」(23)と述べております。なぜでしょうか。それは十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなことでしかなかったからです。その愚かなことを語ることにおいて、いったいどれだけの人間が救いに与かり、神を信じる者になるか、パウロにとってかいもく検討もつかなかった。それゆえ恐れに取り付かれ、ひどく不安だったのではないでしょうか。しかしそのパウロが語った福音によってコリントの町に救われた群れが起され、教会が設立されたのです。それはなぜでしょうか。それは人間の知恵、知識では愚かなに思える十字架につけられたキリストを宣べ伝えた。そこに神が働いて下さり、信じる者を起してくださったからであります。

 十字架の言葉は人を救いに導く神の力です。十字架の言葉である福音を共に聞き、聖霊の働きにより、罪の赦しと永遠の命を頂き、喜びと平安の日々を過ごす者でありたいと思います。 

        (コリントの信徒への手紙一215節)

 

 

109日 説教―           奨励 片桐 健司 兄

     「罪深い男を愛したイエス様」

ザアカイは、取税人でした。税金を集める人です。その税金は、当時ユダヤを支配していたローマに納めるものでした。取税人は、集めた税金から自分の収入も得ていました。自分の取り分を不正に多くして、暴利をむさぼることが多かったようです。ザアカイも同じように不正をしていて、金持ちでした。しかし、周りからは嫌われ、孤独でした。もともと取税人の仕事そのものがいやがられていて、その仕事をするのは、日頃周りから差別されているような限られた人たちだったと思われます。ザアカイは、金持ちではありましたが、心のどこかで寂しさや悲しさを抱えていたのかも知れません。

ザアカイのいる町に、イエスが来るという話を聞いて、ザアカイもイエスに会いたいと思いました。イエスなら自分の寂しさを解決してくれると思ったのかも知れません。大勢の人たちがイエスの周りに集まりました。しかし、背の低いザアカイは、イエスを見ることすらできません。そこで、木の上に登って、イエスを見ようとしました。と、そこへ大勢の人の間からイエスがやってきて、「ザアカイ、今日、私はあなたの家へ泊まる」と言うのです。罪深く、みんなから嫌われているザアカイに、大勢の人をさしおいて声をかけたイエス。そこにいた人たちも、なんで罪深いザアカイなんかに声をかけるんだ、と言いました。どうしてイエスはそんなことをしたのでしょう。

かなり前に、自分がもっていたクラスに、一人の転校生が来ました。初めの1週間は静かにしていたその子でしたが、少し慣れてくると、授業の邪魔をするようになりました。授業中騒いで、わざわざ、担任を怒らせるようなことを言うのです。注意すればするほど、余計騒ぐので、騒いでも相手にしないようにしていたら、今度は黒板に書いたものを消しに来たりして、どう対応してよいか、難しく、困りました。しかし、時間がたって少しずつその子のことがわかってきました。その子は、家庭的に恵まれず、夜も家で一人で過ごすことが多い子でした。自分の寂しさを紛らわそうと、授業中に大騒ぎしたり、勝手な行動をしたりしていたのです。担任がその子のことを理解することで、その子は少しずつ落ち着きを取り戻していきました。

ザアカイも、本当は悪い人ではなくて、寂しいだけの人だったのです。誰よりもザアカイが寂しさや悲しさを抱えていることを、イエスは見抜いていました。集まった大勢の人の中でザアカイに声をかけたのは、ザアカイが一番イエスを必要としている人だったからだと思います。

手と足と心の形が「愛」という字になります。手をさしのべ、足を運び、心を注ぐことが、愛するということです。その愛に人の泣き顔からできた「頁」が付くと「憂」という字になります。「憂」は「憂(うれ)い=悲しい」という意味です。愛することは悲しいのでしょうか。そうではありません。人の悲しみがわかる、人の悲しみを自分の悲しみとして受けとめることができたとき、本当に愛することができるのです。この「憂」に「人」がつくと「優」という字になります。「優しい」という字です。人の悲しみが分かる人が優しい人なのです。

■イエスは、ザアカイの本当の悲しみがわかったのでした。悲しいことは不幸ではありません。「心の貧しい人」「悲しんでいる人」は幸いであるというのは、そういう人にこそ、イエスの愛が注がれるからです。最後にイエスはこう言いました。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。

           (ルカよる福音書19110節)

 

 

102日 説教―              牧師 松村 誠一

      「真理はあなたたちを自由にする」

イエス様が公の生涯を歩みだしてから、すぐにイエス様はユダヤ人から命を狙われていましたので、エルサレムに上って行くことを躊躇していました。しかしイエス様の兄弟がエルサレムに上っていったので、イエス様もあえてガリラヤからユダヤ、エルサレムに上っていっております。そしてユダヤ人に向かって教え、語っています。その結果、多くのユダヤ人はイエス様の権威に満ちた教えに恐れを感じ、イエス様を神から遣わされた方であることを信じたのです。しかしちょっとした感動、驚きでは本当の解決にはなり得ないことをイエス様はすでに見抜いておられたのです。イエス様の教えに驚き、うわべだけの信仰を持った人にイエス様は語ります。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書83132)

ここで、イエス様は、ただ頭の中で理解し、同意するのではなく、私の言葉に留まることが私の弟子なのだと語っています。つまり、イエス様の言葉を受け入れ、毎日の生活の中で、その言葉に促され、イエス様の言葉にひっかかりながら、その言葉に従って生きる、その生き様こそイエス様の弟子としての生き方なのだということが語られているのです。

そしてイエス様の弟子として生きる時に、人は真理を知り、真理は人を自由へと導いてくれるのだということが語られているのです。聖書が言う真理は、1プラス1は2、という客観的な真理ではありません。聖書が示す真理とは人間が人間として本当に生きることを指し示す言葉として使われています。イエス様との関係が成立するところに人間は本当に自由となり、自由に生きることが可能となるのです。そしてその自由とは第一に罪と死から自由にされるということであります。そして罪と死から自由にされることにより、初めて人間として生きることが出来るのです。

多くの方が言います。私は罪だの死だの考えたことがないから、罪から死から自由になるといってもピーンときませんとおっしゃる方がいらっしゃいます。しかし、そういう方に限って方角を気にしたり、占いに頼ったり、縁起を担いだり、何か分けの分からないものにおびえながら毎日を過ごしておられるのではないでしょうか。「真理はあなたたちを自由にする」。自由に生きるということは、真の神以外のものに支配されることなく、惑わされることなく、おびえることなく、生きることであります。自由に生きるということは、真の神に支配されて生きるということであります。真の神に支配されて生きる人生は、いろいろなしがらみから解放され、自由な者として日々過ごし、それゆえに平安があり、希望があり、喜びの人生となるのです。イエス様の言葉に留まり、イエス様の弟子として喜びと希望をもって日々過ごしてまいりましょう。

        (ヨハネによる福音書83138