説教要旨

― 10月25日 説教 ―       牧師 松村 誠一

 

       「私を憐れんでください」


イエス様と弟子たちはエリコの町に滞在し、そして町を出てエルサレムに向かう時の出来事です。エルサレムに通じる道端にティマイの子でバルティマイという目の見えない物乞いが人々から施しをもらうために道端に座っていました。イエス様とその一行がそこを通り過ぎようとした時に、このバルティマイは「『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と言い始めた。」と記されています。ダビデの子とは救い主・キリストのことです。弟子たちはイエス様が救い主・キリストであることはなかなか理解できなかったのですが、バルティマイはイエス様にお会いしたその時「ダビデの子よ」と呼んでいます。バルティマイが多くの目の見える人々より先にイエス様がダビデの子であると知り得たのは、目が見えなかったからではないでしょうか。目が見えないがゆえに、目の見える人よりはるかに神がおられる世界を心で感じ、心で見ることが出来たのではないでしょうか。バルティマイは物乞いでした。名誉もこの世の地位も富もありませんでした。ですからこういうものに左右されず、素直にイエス様のうわさを聞き、そしてイエス様にお会いした時に、直観的にダビデの子であることが理解できたのではないでしょうか。

さて、現代人の私たちはイエス様をどのように理解し、受け入れているでしょうか。私たちは富もあり、いろいろと学び、知識も持っています。いろいろと自己防衛するすべも身に着けています。このような私で

もってイエス様を見て、理解しようとするなら、イエス様の本当の姿を見ることは出来ないでしょう。

目が見えることによって、見えない世界、心でしか見えない、感じることの出来ない世界、信仰の目を通してしか見ることの出来ない世界、そういう世界に対して現代人は見えない者となってしまっているのではないでしょうか。この世の基準で、人間の知恵、知識でイエス様を理解しようとするならば、私たちも救い主イエス様との出会いはないでしょう。

イエス様をダビデの子、すなわち救い主イエス様と告白し、信じることが出来るのは、あのバルティマイのように、見えない世界を見ていく目が必要でしょう。そして「わたしを憐れんでください」とイエス様を全面的に信頼していく素直な心が必要でしょう。わたしたちもバルティマイのように「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と素直にイエス様のふところに飛び込んで行くならば、イエス様は私たちの救い主として御自分をあらわしてくださるのです。そしてイエス様は「何をして欲しいのか」と一人一人に尋ねてくださるお方なのです。最後に信仰に導かれた視力障害者の証しですが、「私はイエス様を信じることによって信仰の目でいろいろなものが見えるようになった。そして神の国において私の目はすでに癒され、イエス様と同じような目ですべてを見る目が与えられているのだ」と。 

    ( マルコによる福音書1046 ~ 52




― 10月18日 説教 ―       牧師 松村 誠一

 

       「すべての人の救い」


パウロは律法を守ることが救いの唯一の手段であると考えているユダヤ人たちに、信仰義認と行為義認(律法を守ること)について、ユダヤ人が信仰の規範としていた聖書(旧約)を引用しながら分かりやすく説明しています。6節ですが「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは申命記3012節からの引用ですが、パウロはキリストが私たちの救い主として私たちの世界へと下って来て下さったではないか。神と人間との断絶を神ご自身がイエス・キリストとしてご自身を現してくださり、その断絶に橋を架けて下さったではないか。それなのに、人間が人間の行為によって自ら天に上る、という試みは不可能のみならず、それは神に対する不遜な態度である。キリストは恵みと愛とをもって来て下さっているのに、そのことがまるでなかったように自分のわざによって義を得ようとする律法主義にあなたがたは陥っているのだ、と指摘しています。7節も同様でしょう。誰も陰府に下ってキリストを尋ねて連れて来る必要はない。キリストは復活して我らと共におられるのであると語り告げています。

さらにパウロは神の御心はキリストご自身であり、キリストが語られた言葉であり、その言葉は、もうすでにあなたの近くにあり、この言葉を聞いているではないか。もうすでに神はすべての罪を赦し、すべての者を神の子として神の国に招いて下さっているのである。難行苦行したり、神様のご機嫌を取ったりして神に近づこうとする、そんな必要は全くない。救いの言葉、キリストご自身はあなたの近くにいらっしゃる。

福音は宣べ伝えられ、聞く者一人一人の近くにある。神のご意志は、福音としてあなたがたに明らかに示されている。だからその福音を感謝して受け取ることこそ、人間の救いの道であるとパウロは語っているのです。

 パウロはこの事実を明らかに示し、その事実を自らのものとするためにさらに語っています。それは「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなた方は救われるからです。」と。信仰は個人的なものではありません。信仰とは信じる群れの中で、つまり教会で吟味され、受け入れられ、検証されていくものです。ですから、何を、どのように信じているかを公にしていくことが求められております。そして公にしていく時に、その信仰が神によって与えられたものであることを深く悟ることが出来るのです。

 ユダヤ人の行為義認と、パウロの語る信仰義認の違いですが、この違いは非常に微妙です。信仰義認はすぐに行為義認に変質してしまいます。ですから、私たちも「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたがたは救われるからです。」と、この御言葉の通り、お互いに自分の信仰を教会の群れの中で公にし、教会で吟味し、検証していく、ということが大切であると思います。

福音は全ての人の救いのために語り伝えられているのですから、その語り伝えられている福音を共に聞き、救いに与り日々過ごしてまいりましょう。

      (ローマの信徒への手紙101113節)



― 10月11日  説教 ―   牧師 マイク・マクナラハン

 

       「神の恵みに応える」


今日の聖書の話は我々が神の恵みに応えることを神が願っている内容の話です。放蕩息子の話は財産要求が問題ではなく、彼がその行為で父親に「あなたを敬うことができない」と言って罪を犯したことです。財産をなくした彼は外国での貧しい生活で初めて自分の愚かさに気づき、父の許しを請うたのです。彼は罪を犯した今までの自分を捨てたのです。

 我々は常識的にもこのような身勝手な息子は許されないと思います。しかし、大切なことは放蕩息子を我々自身と置き換えて聞くことです。我々は神に背を向けて自分勝手な道を歩み、神から離れることをします。神から離れれば離れるほど、ますます罪深い者になり、神の栄光を傷つけることになります。命を頂いている神様から離れて自分の道を歩むことは、「私には神はいりません」と言っているようなものです。

 父親は「いなくなった息子が見つかった」と、放蕩息子の帰りを喜んで受け入れました。「あなたの父母を敬え」という十戒の掟を破ったにも拘わらず、父親は不遜な息子を無条件で許し受け入れたのです。聖書には「我々は道に迷った羊であり、神の名を汚す罪深いものだ」と書かれているように、我々は永遠に神の恵みに預かる資格のないものですが、神はあの父親のように我々に哀れみをかけてくださっています。

 この話には、我々は神の栄光に預かり、罪の重荷から開放されている福音のほかに、父親が放蕩息子を一人の息子として迎えたように、神は我々を自分の子供として天に迎え永遠の命を与えるというすばらしい福音が示されています。罪を拭い捨て神から与えられる新しい命を頂きましょう。そして神様の恵みに応えましょう。

放蕩息子の兄も忘れてはなりません。彼は弟を受け入れた父親への怒りで、「あなたが許せません」、つまり「私には神は必要ありません」と神に背を向け、罪を犯しました。イエスを信じるなら、あの父親のように息子が戻ってきたときには大いに喜びましょう。放蕩息子のような若者を神は受け入れてくださっていることに神の栄光を称え感謝しましょう。神の子供として神の御言葉に従うことは神の栄光を称えることです。世に出て行って福音を述べ伝え、神の恵みに応えましょう。若者たちにも伝えてください。神を信じ、絶えず希望を持ち続けることです。彼らもやがて応えるでしょう。      

(ルカによる福音書 151132


― 10月4日  説教 ―                 牧師 松村 誠一

            「果たすべき責任」 

ローマの信徒への手紙1章8節からパウロがローマの教会を訪問する目的が記されております。

 このローマの信徒への手紙は紀元55年頃、コリント滞在中に執筆されています。イエス様の十字架の死が紀元30年頃だとしますと、イエス様の死後25年目にして福音はローマに伝えられ、そして教会が設立され、そしてその教会に属する教会員の信仰が全世界に言い伝えられているというのです。今日のように発達した伝達手段はありませんし、交通も発達していない時代であります。福音は人間が直接人間に伝えなければ伝わらない時代であります。もっとも今日においても福音は人間と人間の人格的な交わりぬきでは伝えられないのでありますが、その人格的な交わりを通して福音は世界の首都ローマまで伝えられ、伝えられたばかりでなく、もうすでに教会が設立され、設立されただけでなく、その教会の人々の信仰が全世界に言い伝えられていたのです。

 パウロはこのことを知り、「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同について私の神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」(8節)とパウロの感謝の意を表しております。そして次にパウロはローマに行きたい思いがあることを伝え、そのローマ訪問の目的を明らかにしております。「霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。」と。つまり、福音によって与えられた神の恵み、その神の豊かな恵みを幾分かでも与え力づけたいし、自分自身もローマの教会員によって励まされたいからである。そのことを願ってローマに行くのだと伝えています。パウロはさらに「あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで」おります。つまり、何人かを信じる信仰へと導きたいからであると、その目的を明らかにしております。

 パウロは不信心な者を義として下さる、こんな者が義とされる。何のために義とされたのか、それは神に仕えるためであり、福音を宣べ伝えるためであることを深く悟るのです。そして、福音を語り、信仰へと導くことは、自分が果たさなければならない責任であることを片時も忘れることなく、与えられた賜物を注ぎだし生涯を送った人物です。

パウロが言っておりますように私たちも不義なる者です。しかしその不義なる者が、神の一方的な選びによって信仰へと導かれた者ではないでしょうか。なぜ、神はこのような私たちを選んで下さったのでしょうか。それは神に仕えるためであり、多くの人々に福音を宣べ伝え、信仰へと導くためなのです。私たちもパウロ同様に、果たすべき責任が与えられていることを忘れてはならないと思います。 私たちも、無条件に神様に、愛され、救いへと導かれた者として感謝し、果たすべき責任を果たしていきたいと思います。

        (ローマの信徒への手紙1章8~15節)