説教記録11月

1128日 説 教―             牧師 山中 臨在

エリコを出ろ!」マタイによる福音書20: 1734

ゼベダイの子、ヤコブとヨハネの母親が、これから十字架にかかって行くイエス様に、二人の息子を、主の王座の右と左につけてくれと頼みます。息子たちに権力を与えてやってくれと言うのです。イエス様の教えに忠実である人でも人間というのはどこかで、他人から高く評価されたい、あるいは権力がほしいという願望・欲望があるのでしょう。他の弟子たちはそれを聞いて腹を立て、結局自分たちの中で誰が一番偉いかという議論になっていくのですが、結局どの弟子も皆同じように自分が高く評価されたい、権力がほしいと思っているようです。

それに対してイエス様は22節で「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか?」と問われます。杯という言葉で自らの十字架を彼らに差し出しているのです。そしてそれが私たちの信仰の根拠であることを教えます。信仰は、自分たちの信仰深さでも情熱でも熱心さでもない、イエス様が十字架にかかって私たちの罪を赦されること、その一方的なイエス様の恵みによって信仰が与えられるのだということです。どこまでも神様のみ旨がなるのだから、私たちが他人からどう評価されるとか、自分の力で権力を得ようということに翻弄されないようにしなさい、と今を生きる私たちに聖書は語っているのではないでしょうか。

29節以降にはエリコの町を出た所での二人の盲目の人との出会いが描かれています。ここでこの二人はイエス様に出会い、イエス様によって目が開かれ、イエス様に従いました。マルコ福音書の並行箇所では「なお道を進まれるイエスに従った」と記されていますが、つまりイエス様に出会ったこの二人はエリコに留まらず、イエス様に従ってエリコを出て行ったのです。イエス様に出会った私たちはどうでしょうか。まだエリコに座ったままでいないでしょうか。今や、世の価値から出て行って、イエス様に従って行かなければならないのです。霊の目を開かれた私たちは、今私たちのいる場所、私たちのエリコを出て、イエス様の道を歩いてゆかなければならない、福音を携えて出てゆかなければならないのではないでしょうか?

世界祈祷週間を迎え、世界各地に派遣されている宣教師の方々を覚えて祈りたいと思います。私たちすべての者が宣教師として外国に行くことはできないかもしれませんが、それでも私たちは自分のエリコを出て、主の福音宣教のためにできることがあるはずです。この世の価値観を基準にすれば、今自分がいる所から外に出ることは難しいかもしれません。しかし主のみ心が必ずなることを信じ、この世の基準から解放され、霊の目を開いてくださるように、主に祈っていきたいと思います。そして私たちのエリコを出て、みことばを伝え、人に仕える者として歩んでゆきましょう。

 

1114日 説 教―           牧師 山中 臨在

成長」 エフェソの信徒への手紙4:1116

キリストに結ばれる者は、未熟な者ではなく、成熟した者に成長しなさい、と聖書は語ります。「未熟な者」と訳されている原語は「さいころを振る」という語源があるそうです。不確かなさいころの目を見て一喜一憂し心が迷い揺れ動くような未熟な者ではなく、揺るぐことのない「キリストに向かって(キリストを見て)成長しなさい」(15)と聖書は言っているのです。成長するとは、昨日より今日、今日より明日、と体が日々新しくされることです。それは子どもだけに限定されていることではなく、すべての人に語られるメッセージです。

私たちの教会は今日4人の方々がこのキリストの体に加わり新しくなりました。それによって教会が新しく成長させていただいています。児童科の方々の賛美がありましたが、彼らもまた私たち教会の成長を支える宝です。成長のカギは「頭であるキリストに向かう」こと、そして「キリストの愛に根ざすこと」(15)です。キリストの体にはさまざまな部分(働き)があります。11節に挙げられている(使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師)以外にも、たくさんの賜物が教会には満ちています。どの部分も体を造り上げるには必要ですが、このキリストの体が成長するためには、あらゆる節々が補い合って、しっかり組み合わされ、結び合わされなければなりません(16)。体の各部分を結び合わせるためには私たちがキリストの愛に根ざしていなければならないのです。「愛は、すべてを完全に結ぶ帯」(コロサイ314口語訳)だからです。皆がしっかり結び合わされていて初めて成長ができます。キリストを頭とし、愛を持ってお互いに配慮し、お互いを尊重する中で、主が私たちを成長させてくださるのです。

神様はすべての人を礼拝に招いてくださいます。子どもも高齢者も、健康な人も病気を抱えておられる方も、喜んでいる人も悲しんでいる人も、どこの国の方も、また初めて来られた方も招かれているのが礼拝です。どの人が欠けても礼拝になりません。以前私は、「子どもと共なる礼拝」がなくなることが私の望みである、と言いました。礼拝は常に子どもと共なる礼拝であり、大人と共なる礼拝であり、他者と共なる礼拝なのです。互いに尊重し合い、配慮し合いながら、キリストが示してくださった愛の生き方に倣い、愛をもって互いに仕えながらキリストの体として成長させていただきたいと思います。教会で、一緒に生きること、共に成長させていただくことの恵みを味わって歩んでいきましょう。

 

117日 説 教 ―          牧師 山中 臨在

 「天国の門」 ローマの信徒への手紙 6 : 1523

死を避けることは誰にもできません。そして死に対して恐れや不安を持っている人は少なくないでしょう。死は、人間の永遠のテーマかもしれません。

聖書は、神様は私たちを死の恐れから解放するために御子イエス様をこの世に送られたと語ります。「罪が支払う報酬は死」(23)です。人は皆罪人ですから、死ぬばかりの身であるのです。ところがイエス・キリストは、人を罪から解放してくれました(18)。御自分が人の罪を引き受け、十字架にかかって命を捨てました。それで私たちはもう罪の罰に定められることがありません。それだけではありません。イエス様は死んで三日目によみがえり、永遠の命が与えられることを示されました。「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(23)とはそのことを表しています。

永遠の命とは、不老不死、ということではなく、私たちが死んでもなお、私たちに先駆けて復活された主イエスが共におられる、ということです。死んだ者はその存在が消えるのではなく、天国で平安の内に永遠の憩いの中に置かれるのです。しかし一方で、死によって愛する人と引き離されてしまう痛みが私たちにはあります。聖書は「罪の奴隷から解放されて神の奴隷となりなさい、(神の奴隷の)行き着くところは、永遠の命です」(22)と語ります。奴隷と訳されている原語は、主人に聞き、主人に仕える者を意味します。私たちは罪の言いなりになるのではなく、神の言うことを聞いて神に仕える神の僕になりなさい、と言うのです。神の僕は皆、目的地は同じです、それは永遠の命、即ち死に打ち勝って復活された主イエス・キリストのおられる神の国です。召天された方と共におられるイエス様は、地上に残され痛み悲しむ私たちとも共にいてくださいます。イエス様によってつながっているのです。「先に召された人のことは心配しないでいいよ、彼らと私は共にいる。彼らと引き離されて痛み苦しむあなたは、心配しないで思う存分悲しんでいいよ、泣いていいよ、私はあなたを決して一人で放っておかないよ。だから死を恐れなくていいのだよ」と、主は今日語りかけてくださっているのではないでしょうか。

目的地天国に行くために天国の門を通るでしょうが、天国の門は、天国を閉ざすためにできてしまっているのだと思うのです。聖書は「罪に仕える奴隷となって死に至る」(16)と語ります。「罪の言いなりになると、目的地天国への道を阻む壁を作ることになってしまう。だから罪の奴隷ではなく神に聞き神に仕える者となりなさい、天国に立ちはだかる門を作らないで歩んでいこう、そうすれば死の恐れから解放される人生、共に同じ目的地に向かって歩む人生を送る恵みがある」と聖書は語りかけているのではないでしょうか。

私たちは神の国に住む者として招かれています。罪の奴隷ではなく、神に聞き仕える者として歩み、天国の門が開かれそこに入ることのできるようにぜひ祈っていきましょう。