説教記録11月

 

1124日 説 教―              牧師 山中 臨在

「わたしたちを助けてください」 使徒言行録16:610

パウロはアジア州へ伝道に行くことを聖霊によって禁じられました。なぜ聖霊はアジア州への伝道を禁じたのでしょう。それは、マケドニア人の「わたしたちを助けてください」という叫びをパウロが聞くためではなかったでしょうか。パウロには不満もあったでしょうし、また意気消沈していたことでしょう。しかしその時、小さな叫びをパウロは聞くことができました。行きたかったアジア州に行けない現状が与えられて初めて、パウロは神のみ心に聞いていなかったことに心が打ち砕かれ、そんな時に、それまで聞くことのできなかった声、マケドニア人の「助けてください」という叫びをキャッチできたのでした。その結果、パウロは海を越えてマケドニアに行き、こうして福音が初めてヨーロッパに渡りました。

私たち品川教会は「助けて下さい」という声をキャッチしているでしょうか。それとも品川教会の発展、品川教会のプログラムで心がいっぱいで、「助けてください」という小さな叫びを聞き逃しているでしょうか。マケドニア人の叫びも、教会近隣の方々の叫びも、一体どんな叫びなのかは具体的にはわかりません。けれど、何か心に不安や満たされない思いがあり、そこから救い出してほしい、という切実な思いがあるのではないかと思います。彼らに本当の救いを与えることのできるのは、主イエス・キリストの福音以外にありません。彼らの痛みや苦しみをわかるのは、十字架の苦しみを経験されたイエス様しかいないのです。だからこそ私たちは、自分の思いを手放して、叫びに敏感になって、イエス様の愛を届けて分かち合っていかなければならないのです。

助けて下さいという声を拾って、福音宣教のわざに仕えている宣教師の方々がいます。バプテスト連盟からは、4組の方々が海外に派遣されています。自国では考えられないような苛酷な環境の中に置かれてある中で、福音を宣べ伝える宣教師の働きは、私たちの想像を超える危険にさらされています。しかし彼らは自分の思いを捨て「助けてください」という叫びを受け、この叫びから唯一救い出すことのできるイエス様を伝えなければ! そんな思いで宣教しています。彼らを覚えて祈り献げ物をしていきましょう。

周りにある叫びを聞き取っていくことは面倒くさいことかもしれません。危険も伴います。でもイエス様はそんな叫びをあげる人々と徹底的に関わってこられ愛を示されました。私たちはイエスに倣う者としての使命を受けています。ならば、イエス様の愛を運ぶ教会でありたいと思うのです。パウロがマケドニア人の叫びの「幻を見たとき」(10)、パウロにとっての道が開かれました。私たちも、「助けて下さい」という叫びを聞いた時、自分ではできないと思っている主からのチャレンジに心を開く時です。助けを求めている隣人はあなたの周りにたくさんいるはずです。

 

 1117日 説 教―      牧師 山中 臨在

 「成長の源」 Ⅰコリント3:49(3:19)

神様が命の電源、成長の源である、私たちは神様によって成長させて頂いていると聖書は語ります。しかし逆に、電源があったとしても器や設備がなければそこには何も生まれてきません。器は大切です。しかし聖書は「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく神である」と言います(7)。私たち「器」は必要ないのでしょうか。ここで「何者」と訳されている言葉は本来「何」となります。パウロの役目は何か? と問うているのです。パウロはコリントで教会を始めた人、つまり「植えた人」で、アポロはその教会を養育した人、つまり「水を注いだ」人でした。それが、神様が彼らに与えた役割です。それぞれ異なる役割です。でもその前に彼らには「主に仕える者」(6)という共通の役割が与えられていることを心に留めたいと思います。私たちは「主がお与えになった」仕えびとです。主人は神様です。一人一人異なる役目を持ちますが、目的は一つ、神様に仕え神様を礼拝することです。私たちはそれぞれ神様から与えられた役目と価値がある大切な存在です。

 知り合いの牧師が、子どもの集会で「良い子の皆さんもそうでない皆さんも、よくいらっしゃいました」と言っていましたが、それがまさに神の国なのではないかと思わされます。どんな子でも主は目を注がれ愛され、成長させて下さる。その子を用いて下さる。私たちの考える「良い子」ではなく、神様がその子を最善に成長させて下さるのです。私たちは、自分が自分の判断で良い子に成長させようとします。だから、パウロがいいとかアポロがいいと言ったりして争います。でも成長の源は私たちではなく、主なる神様なのです。私たちの役目は成長の源である神様にゆだね仕えることです。

 聖書には「一羽のすずめの命さえ神は守って下さる」(マタイ10:29)と書かれています。商売用のすずめはつがい(二羽)でなければ売れないそうです。二羽のすずめも非常に価値が低かったのですが、そうすると一羽のすずめというのは、人の感覚からすると全く価値がない存在です。けれどそんな一羽のすずめさえ神様は目を注ぎ成長させその命を守られるのです。それ程までに一羽のすずめを神様は大切な存在として愛して下さる方です。同様に、いやそれ以上に、神様は私たち一人一人を必要とし、愛を注いで下さっています。だからこそ神様はひとり子イエス・キリストを世に送り、イエスは十字架にかかって私たちを罪の束縛から助け出すためにその命を投げ出されました。

 成長の源である神様があなたに与えられた役割は何でしょうか? それは聖書に聞き、祈らなければ、わかりません。共に礼拝しみことばに聞き、祈り合いましょう。

 

 

1110日 説教―                牧師 山中 臨在

  「生きるにしても、死ぬにしても」 ローマ14:79  

私たちは召天者の冥福を祈るために召天者記念礼拝をしているのではなく、召天者の方々がイエス・キリストとの出会いに導かれ、信仰に導かれ、主のものとされた、その恵みに感謝して、主をほめたたえるために礼拝しています。そしてその恵みが今ここにいる私たちにも注がれ、私たちも主のものとされていることを覚えて共に感謝をささげるための礼拝でもあります。

「キリストが死に、そして生きた」と9節にあります。これが主の恵みの根拠です。死んだ者にも生きている者にも主が関わり続けてくださり、すべての者の主となってくださっているのです。私たち人間は「生きて、そして死ぬ」歩みをします。ところがイエス・キリストは「死んで、生きた」のです。これはイエス様の十字架の死とそして復活を指しています。復活して生き、生き続けてくださるイエス様は、私たちが地上に生きている時だけでなく、地上の生涯を終えたあとも共にいてくださる、関わり続けてくださる方であるのです。それが「死んだ人にも生きている人にも主となられる」(9)ということです。イエス様の十字架と復活はすべての人のものです。そしてそれは今から二千年前の単なる過去の出来事ではなく、今も続いている私たちに関わる、私たちがその恵みに与るできごとであります。そしてこの恵みは私たちが生きている間だけではなく、召された後も続いていく出来事であることを覚えておきたいのです。

「わたしたちは・・・主のために生き・・・主のために死ぬ」(8)という言葉が与えられています。神様を信じていない人にとっては「主のために生きる」ことはできないと思うし、信仰を持っている私たちでさえ、「主のために生きる」生き方は易しいことではないかもしれません。「主のために」と訳されている言葉は、原文を直訳すれば「主に向かって」ということになります。従ってこの部分は、「私たちはどこに向かって生き、どこに向かって死ぬのか」を私たちに問うています。そしてイエス・キリストは徹底的に私たちに向いて私たちに関わって死に、復活して生きて今も私たちと関わり続けてくださっている、そんなイエス・キリストの愛に応答して、私たちも主に「向かって」生き、主に向かって死になさい、というメッセージを送っているのです。その生き方やその死に方には主が共にいて下さるから、間違いがありません。「生きるにも死ぬにも、わたしが共にいるから大丈夫」と主は語りかけます。

生きる時も死んで後も私たちと共にいて私たちを守るという約束をくださる主イエス・キリストを信じるか信じないか、選択肢は二つです。信じて歩む人生を送りたいと祈ります。

 

 

113日 説教―               牧師 山中 臨在

   「十分の一とささげもの」    マラキ書3:618

新共同訳聖書で「十分の一の献げ物と献納物」を主に携えるようにと記されていますが、原語に忠実に言うと「十分の一献納物」を主に献げよ、という意味になりますが、これはどういうことでしょう。3つの点を分かち合いたいと思います。

まず、「十分の一は主のものである」ということです。「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なるものである」(口語訳レビ27:30)、即ち、十分の一をささげる、のではなく、もともと神様のものである十分の一を神様にお返しする、ということです。8節は「十分の一を神様にお返ししないということは神様のものを奪っていることだ」という意味で、民が神様に忠実でない様子に「神に立ち返れ」(7)と訓戒を与えています。神の物である十分の一を神に返し、プラス神様への献げ物をしなさい、ということになります。

 2つ目のことは、十分の一と献げ物は、祝福される、ということです。収入の十分の一していないと天罰がくだる、とか逆に十分の一をしてさえいれば神様への義務を果たした、と単純に考えるべきではないでしょう。クリスチャンの信仰は、神様と「私」との個人的な関係に基づくもので、そのことに他者は介入しません。しかしその神様との関係の中で、「十分の一と献げ物を主に携えると、神様の祝福が限りなく注がれる」(10)と神様は約束されていることは大切なことです。そしてそれは私たちにとっての喜びとなるのです。十分の一と献げ物は、私たちの生活においては大きなチャレンジかもしれませんが、神様の約束は間違いないということを心に刻みたいと思います。

 3つ目は、十分の一と献げ物は礼拝である、ということです。礼拝であるから、義務感からではなく、感謝と喜びをもってしたいのです。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(2コリント9:7)と聖書は教えています。私と神様との個人的な関係の中で示されたとおりにするということで、それを喜ぶ人のことを神様も喜び祝福を与えてくださいます。また、十分の一と献げ物は、礼拝ですから、最善を献げましょう。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)と聖書は語ります。十分の一と献げ物は、実はお金の問題ではなく、私たちの心(信仰)の事柄です。献げることはお金に限りません。私の時間、私の賜物、私の労力、そして私自身を献げることが礼拝です。

 先述のローマ書によれば、十分の一と献げ物は、いけにえだから最善のものでなければなりませんし、いけにえだから痛みが伴います。しかし私たちの十分の一と献げ物を通して主は、あなたを困窮させるのではなく、むしろ天の窓を開いて(10)、私たちの想像を超えるほど祝福を限りなく与えてくださると約束されています。その恵みの主を信じて献げる礼拝をしましょう。