説教記録11月

1126日 説 教―             牧師 松村 誠一

    「すべての民をわたしの弟子にしなさい」

福音書はイエス様の伝記が記されている書ではありません。福音書の記者がイエス様の生涯を語ることにより、イエスが神の子キリストであることを証言している書です。そこには奇跡物語も記されていますが、イエスの人格に触れることなしに奇跡物語を読んでも、それは単なるファンタジー(空想)になってします。福音書はイエスの人格に接しながら読まなければ、福音書が語っていることは伝わってきません。

 さて、今朝の聖書箇所ですが、イエス様は死より甦らされ、弟子たちにガリラヤで会われました。復活されたイエス様がガリラヤで弟子たちに会われた、ここにマタイが語ろうとしているその深い思いがあるのではないでしょうか。ガリラヤとはイエス様と弟子たちが毎日過ごしていた地です。彼らを弟子に招き、食事を共にした地です。イエス様は弟子たちと共に病人や社会からはじき出された人、差別を受けている人、孤独な人の隣人となり、神の愛を示し、救い主としての働きをされた地,場所です。

弟子たちに復活のイエス様が突然ご自分を現わし、そしてただ命令したなら、弟子たちにとっては、幽霊が幻かを見た、ということで終わってしまった出来事ではないでしょうか。しかし、復活されたイエス様が、ガリラヤで、弟子たちに現われて下さった。弟子たちにとっては生前のイエス様が、あの時、ああゆうことをされた、ああいうことを語られた、そのイエス様との人格的な交わりの中でイエス様の命令を聞くことになるのです。生前のイエス様と復活されたイエス様を同一人物として出会った弟子たちはイエス様が話されたことをしっかりと受けとめ、このイエス様の命令に聞き従い、その後の人生を、イエス様は神の子救い主であることを出て行って宣べ伝えたのです。

 このマタイによる福音書が書かれたのは、紀元70年代、80年頃だと言われております。当時のキリスト教はローマ帝国による迫害、またユダヤ教による迫害に遭い非常に苦しい状況におかれていました。しかしそのような状況をのり越え、イエス様のこの大宣教命令に弟子たちが忠実に従ったがゆえにイエス様の十字架と復活の出来事は、キリスト者に信じる信仰を与え、教会をたてていく力となっていくのです。そしてイスラエルという民族を超えて、全世界へと福音は伝えられていくのです。

 マタイによる福音書には弟子、という言葉は82回出てきますが、使徒という言葉は1回しか使われていません。その1回使われている聖書箇所は10章の12人を選ぶ箇所です。イエス様はこの弟子を使徒としての職務をお与えになったのですが、弟子たちは、その職務を果たすことになるのは、復活のイエス様の出て行けという派遣の命令によってです。ここで弟子たちは初めて、使徒としての職務を果たしていくことになるのです。弟子たちにいつも復活のイエス様が共にいてくださったからなのです。私たちも復活のイエス様が共にいてくださるのですから、イエス様の言葉に聞き従う者として日々過ごしてまいりましょう。

              (マタイによる福音書281620節)

 

 

- 1119日 説 教 -      金丸 真 牧師

                                    (仙台長命ケ丘キリスト教会)

 

         「投げ捨てられた塩」

1118日、19日と2日間、金丸真先生をお迎えして、東日本大震災の現場でお働きになっている中での数々の困難、苦悩、悲しみ、また喜びなど、心に迫るお話をうかがい、その中から与えられたイエス様のみことばを共にお聞きしました。金丸先生は、福岡有田教会で6年間牧会をされた後、2011年4月から仙台長命ヶ丘キリスト教会で牧師としてお働きになっていらっしゃいます。

  震災から6年8カ月がたち、現在、先生たちの現地支援委員会は、岩手県大槌町、宮城県牡鹿半島の3カ所と亘町、福島県郡山の緑町という所の仮設住宅や、仮設住宅を出て新しい住宅へ移られた被災者の方々の支援を行っていらっしゃいます。

主日礼拝では、「投げ捨てられた塩」と題して、ルカによる福音書14:3435からメッセージをいただきました。「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味がつけられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。」「聞く耳のある者は聞きなさい。投げ捨てられた塩の叫びを!」とイエス様は言います。私たちは塩の存在を喜んでいるのではなく、“塩気”という“塩の能力”を喜んでいます。このことは、わたしたちが生きている日常、世の中の出来事にも当てはまります。役に立たなくなれば捨てられるという世の中の問題性、悲しみにイエス様は目を向けておられます。イエス様の元に徴税人や罪人と呼ばれる人たち(世の中で投げ捨てられている人たち)がお話を聞くために集まって来ますが、それをファリサイ派の人々は咎めます。ファリサイ派の人々に、イエス様は「投げ捨てられた人々の痛み」を知ってもらいたいと思い、3つのたとえ話を用いてお話します。①見失った羊のたとえ ②無くした銀貨のたとえ ③放蕩息子のたとえ 「人々が、要らない、取るに足らないと言っている者を、神は探し、拾い、救い給う」と。しかし、ファリサイ派の人々はイエス様の話が理解できませんでした。聞く耳を持っていなかったからです。

役に立つかどうかと言うことが一番大事になってしまうと、役に立たないことが、人間の存在、人間の価値を脅かしてしまいます。十字架のできごとはこの事の現れでした。人々は、「あのイエスはまったく役に立たない。救い主と言っているが、救いなど起きていないではないか。」と、イエス様を十字架に付けて殺してしまいました。まさに、「投げ捨てられた塩」とは、イエス様ご自身だったのです。しかし、十字架上で殺されたイエス様は、そのままでは終わらず、神様が拾ってくださり、復活させてくださいました。投げ捨てられたイエス様は、神様によって拾われ、起こされ、復活して、命を持ってわたしたちのところに来てくださいました。「『投げ捨てられた者は必ず拾われる』とイエス様が言っていたことは本当だ!」と、弟子たちの心が開かれ、福音を伝え、今のわたしたちの教会が立てられました。わたしたちもその事を信じて教会に集っています。 わたしたちは役に立たないと言われようが、また自分で思い込もうが、そんなことは関係ありません。人の価値はそんなことでは決まりません。イエス様は、その命と向き合ってくださり、本当の命を輝かせてくださり、わたしたちの手を取って起こしてくださいます。「共に生きよう!」と。そして、神様の価値観の中で人と共に生きることができるように、今日も導いてくださっています。                  (要約 岸本敬子)

 

 

 

1112日 説教―           牧師 松村 誠一

           「死者の主でもあるキリスト」

今朝は箇所はローマの信徒の手紙14章の小見出し「兄弟を裁いてはならない」というパウロの教えの根拠の部分です。ローマの教会には信仰の強い人と信仰の弱い人がいたようです。また、ある特定の日を重んじる人もいたようです。パウロはなぜお互いに裁き合っているのか、食べ物、飲み物のことで裁き合うのはやめるように指導しなさいと命じております。なぜでしょうか。それは7節以降で語られています。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(78節)

この箇所の理解を助けるために加賀乙彦氏のことを今日も紹介したいと思います。加賀乙彦氏は19885月、東京カテドラルで「キリスト教への道」と題した講演で次のようなことを話されています。

たまたま子ども時代に天体に興味を持ち、無限の宇宙の偉大さに驚き、また人間が有限であることにも興味を持つようになった。そして医学を勉強して、有限の人間にも無限の世界があることに気付かされた。顕微鏡で人間の体内を見ると小さな器官に広がる無限の世界。何十億という細胞が生まれ、死んで行く人間。「すると、小さい時に考えた無限ということの意味が、だんだん分かって来た、というとおこがましいのですけれど、要するに、無限ということの中で、有限な人間というものを、だれかが作らなければ、だれかがそこで操作しなければ、そこに存在しえないはずのものなんです。私たちが、現在ここにいるということは、とても自分の力ではない、不思議な力で存在しているのです。」と語っております。

不思議な力とは神の力であり、その神によって生かされているのだということであります。そのことを知った者は、自分のために生きる、自分のために死ぬ、など言えないのではないでしょうか。そして更にその根拠をパウロは次の言葉で明らかにしております。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(9) これはイエス様の十字架の死と復活の出来事を語っているのです。イエス様の十字架の死は、ある特定の人々のためだけではなく、死んだ人にも、ましてや今生きている人にもであり、全ての人のために死に、全ての人の主になられたではないか、と訴えているのです。

イエス様はすでに主のみもとに召された方々の主であられ、召された方々は主が与えて下さっている命へと生かされているのです。だからあなた方は自分の思いや考えで、人を裁くのはやめなさい、と忠告を与えているのです。

今日は「召天者記念礼拝」です。イエス様はすでに主のみもとに召された方々の主であり、すでに召された方々は主イエス様と共に復活の命に与っているのです。私たちも私たちの主であるイエス様を心から信じ、復活の命を頂いて日々歩んでまいりましょう。

          (ローマの信徒への手紙14712節)

 

 

115日 説教―            牧師 松村 誠一

            「神に望みをおいて」

 このテモテの手紙は伝統的には、パウロがエフェソ滞在中のテモテへ送った手紙だとされています。この手紙はエフェソに派遣したテモテに牧会上のアドバイス、そして励ましで綴られています。今日の聖書箇所ですが、「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(617節)と記されています。

エフェソの町はパウロの時代も宗教的、文化的、政治的にも栄えた町で、小アジアの銀行と呼ばれていました。そこに立てられた教会も、裕福な人々がたくさん集っていたのではないでしょうか。その裕福な人たちに対して富のゆえに高慢にならないようにという忠告です。他の人よりも富をたくさん持っているというだけで、自分を何か優れた人間であるかのように考え、振る舞ってしまうことがあるのではないでしょうか。次の忠告も当たり前のことですが、不確かな富に望みを置くのではなく、神に望みを置くようにという忠告です。神様は、私たちに難行、苦行を強いて、禁欲的な生活をするようにとは命じておりません。使徒言行録1417節に「しかし、神はご自分のことを証しないでおられたわけではありません。恵みを下さり、天からの雨を降らせて、実りの季節を与え、食物を施して、あなた方の心を喜びで満たして下さっているのです。」と記されておりますように、神様の恵みの中で、神様が与えて下さる豊かさの中で、私たちの日常生活が成り立っているのではないでしょうか。

18節では、4つの具体的な忠告が述べられています。「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」。悪事によって富を手にいれることのないようにとの忠告でしょう。富んでいる者は良い行いにも富むべきであることが指摘されています。そしてさらに、富んでいる者は、その富を惜しまず,人々に喜んで施すことが求められております。

富んでいる者に問われているのは、その富をどのように用いていくかなのです。そしてその問いはこんにちの私たち一人一人にも問われているのです。私たちも、善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えていくことが望まれているのではないでしょうか。

私たちの持っている者は、全て神様から預かり頂いたものです。その預かり頂いたもの、富も、能力も、才能も、持ち物も他者のために何かをする。そのことが、その人に幸福感を与え、喜びの人生となっていくのです。自分のものを他者に与えていくことがなぜ、喜びとなり、その人を生かす力となっていくのでしょうか。それは神様の思いを自らの思いとしていくからです。そのことによって神からの命を頂くからです。神様が喜ばれることは、自分自身の喜びとなっていくのです。 

              (テモテへの手紙一 61719節)