説教要旨

 

1127日 説教―             牧師 松村 誠一

                「神の義と愛」 

 ルカによる福音書2332節以下にはイエス様が「十字架につけられる」場面が記されています。この時「二人の犯罪人」がイエス様同様に十字架刑に処せられるため引かれていっておりました。この犯罪人は、ローマ帝国から解放を求めて闘っていた熱心党の一員だと推測されています。この熱心党ですが、イスラエルがローマ帝国から解放されるためならば自分の命もいとわず闘いを挑んでいく、というまさに熱心な政治団体です。おそらくローマ帝国に対する反逆が発覚し、捕えられ、そしてイエス様同様に死刑を宣告されたのでしょう。

イエス様、そして二人の犯罪人は十字架に付けられます。この場面に立ち会っていたのが議員のメンバーである祭司長や律法学者たち。また民衆もことの成り行きを見ておりました。そのような中でイエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と神への執り成しの祈り捧げております。彼らとはローマの兵士、議員のメンバーである祭司長や律法学者たち、そして民衆、また二人の犯罪人でしょう。イエス様はその「彼ら」に執り成しの祈りをささげております。私はこのイエス様の執り成しの祈りはイエス様の生涯を通して語られ、教え、そして生き様が集約されての祈りだと思います。救い主イエス様の祈りです。

ローマの兵士、律法学者、祭司長、民衆、そして二人の犯罪人、全てがこのイエス様の執り成しの祈りによって、救いへと招かれているのです。この執り成しの祈りを聞く者はイエス様を救い主と信じ、信仰をもって生きる者へと導かれていくのです。信仰はイエス様との関係に生きることです。すべての者は救いへと招かれているのです。その救いを自ら自覚し、救われた者として生きるにはイエス様を救い主と信じることです。

イエス様を救い主と信じるということはイエス様の教えを受け入れ、イエス様の眼差しを感じつつ日々歩む者とされていくのです。イエス様の眼差しを感じつつ日々歩むことによって本当の自分の姿を知ることができるのです。本当の自分の姿を知る者は、イエス様から無条件に赦されなければ生きていけない自分であることに気付かされるのです。もし、この気付きがなければ、私たちは虚無から解放されないでしょう。もし、この気付きがなければ、この世の苦難、艱難、様々な境遇の中においても、忍耐と練達と希望は与えられないでしょう。それ故に神の義と愛を具体的に示して下さったイエス様の無条件の赦しを頂いて、イエス様を救い主と信じ、信仰に生きる者として歩んでゆきたいと思います。

           (ルカによる福音書233238

 

 

1120日 説教―            牧師 松村 誠一

             「何を見に行ったのか」

 イスラエルの民衆はバプテスマのヨハネを偉大な預言者と思い、彼のもとに集まり、その教えに従いました。しかしその後に登場したイエス様の力ある業、また権威ある教えを聞いた者たちは、今度はイエス様に関心を示し始めたのです。特にファリサイ派の人たちや、律法学者たちは一時的に興味、関心を示したものの、熱が冷めるとゴミのようにはき捨ててしまうことをイエス様は十分に分かっていたのだと思います。群衆は禁欲的な生活をしていたバプテスマのヨハネについて、もうすでに「あれは悪霊に取りつかれている」と言って誹謗し、そしてイエス様ご自身については「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って誹謗すると語りかけています。この「大酒飲みだ」というのはただ単に酒飲みだと言うことではなく、すでにファリサイ派の人々や律法学者たちの思いの中に、イエス様をこの世から抹殺してしまおうという殺意があったことが読み取れるのです。なぜならば、ユダヤの律法においては大酒飲みの放蕩息子は石打の刑に値するからです。(申命記211821

 イエス様は、ついこの間まではバプテスマのヨハネを慕い、荒れ野まで行ったイスラエルの民に向かって、「あなたがたは何を見に荒れ野へ行ったのか、風にそよぐ葦か。では何を見に行ったのか。」と語りかけています。そしてイエス様はバプテスマのヨハネは預言者以上の人物なのだと語り教えています。これはイエス・キリストを指し示す器であることが語られているのです。そのような偉大なヨハネも神の国では最も小さい者なのだ。私は神の国をあなた方に示すためにきたのだと、イエス様は語っているのです。

 イエス様が神の国の良きおとずれを語っても喜びをもって答えようとしないイスラエルの民は丁度町の広場で遊んでいる子供のようだと指摘しています。

さて、私たちは何を見に教会に行ったのでしょうか。私たちは何を見に、何を聞きに教会に来ているのでしょうか。私たちはイエス様との出会いを求めて教会に来たのではないでしょうか。私たちはイエス様と出会い、その愛に触れ、赦しの言葉を頂き、そして自らイエス様の教えに生き、イエス様の愛を分かち合うためにここに集っているのではないでしょうか。

イエス様が笛を吹いてくださるなら、踊ろうではありませんか。イエス様が葬式の歌を歌うなら泣こうではありませんか。イエス様の言葉、ふるまいに私たちの全存在をもって応えていく熱い信仰を持とうではありませんか。神から頂く知恵を身に着け、喜んで教会に集い、主にある交わりを喜び、互いに仕え合い、共にキリストの体なる教会を立て上げて行こうではありませんか。このような教会こそ、この混沌とした時代に立てられた教会としての使命を果たすことが出来るのではないでしょうか。来週からアドベントに入ります。喜びの賛美をイエス様と共に歌い、その喜びを多くの人々に宣べ伝えていきたいと思います。

      (ルカによる福音書72435節)

 

 

 

-     1113日 説教 -                牧師 松村 誠一

        「私たちは日々新たにされていく」

コリントの信徒の手紙二、この手紙はパウロ第3回伝道旅行中、紀元の53年から55年の約3年間エフェソ滞在中に書かれた手紙だとされています。

エフェソでの出来事がコリントの信徒の手紙一15章に記されています。「単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようじゃないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(32節)野獣とはエフェソの群衆でしょう。その群衆が野獣のようにパウロに襲いかかってきたのでしょう。そのような目に遭いながらもパウロは、イエス・キリストの十字架による救いの出来事を語り伝えることをやめませんでした。それは「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」(第二コリント414)と語っている通りこのことがイエス様によって知らされたがゆえに、パウロはこの世の全てのものから解放され、すべての権力、襲いかかってくる迫害にひるむことなく、イエス・キリストによる救いを宣べ伝えることをやめなかったのです。パウロはやがて死ぬべき肉体、すなわち外なる人、それに対して、イエスと共に復活の命に与る、内なる人、また新しい人と比較しながら、内なる人は、日々新たにされて、そして復活の命に与るのだから、今という時を希望を持って生きるのだと語っております。そして見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ、と語っております。この見えないものに目を注ぐとは具体的には、救いの完成、復活の命に生きることでしょう。

 今日は召天者記念礼拝です。先に召され兄弟姉妹たちは信仰をもって生涯を生き抜かれました。私たちはそのことを思い起こし、兄弟姉妹にならい私たちも信仰をもって生き抜くことを再度確認する時であります。先に召された兄弟姉妹で一番最近、主のみもとに召されましたのは日隈愛子姉であります。日隈愛子姉は皆様ご存知の通り多くの方々に尽くされての生涯でした。その愛子姉妹の「外なる人」はやがて死ぬ体であり、そしてこの世のさまざまな労苦や困難もあったでしょう。しかし愛子姉はパウロ同様に、この世の苦難や困難、艱難は一時な軽いものだったのではないでしょうか。17節ですが、「わたしたちの一時の軽い艱難は,比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」とパウロが語っておりますように、この世の苦難、艱難は愛子姉が既に得ている復活の命のことを考えれば、取るに足りないものだったのではないでしょうか。

 私たちがこの世で生きていくには、様々な労苦があります。問題も苦しみもあります。しかし、その労苦や問題、たとえその問題がどんなに深刻な問題であったとしても、主イエス様によって比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれるのですから、私たちも先に召された兄弟姉妹同様、主イエス様によって日々新たにされながら歩んでゆきたいと思います。

   (コリントの信徒への手紙二 41618節)

 

 

116日 説教-              牧師 松村 誠一  

      「今はどのような時代か」                                                            「主の言葉がわたしに臨んだ。『エレミヤよ、何が見えるか。』エレミヤは答えた。『アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。』主はわたしに言われた。『あなたの見る通りだ。わたしは、わたしの言葉をなし遂げようと見張っている(ショーケード)。』(エレミヤ書11112節)             エレミヤは神からの召しを受けました。預言者として立て、そして与えられた神の言葉を語れと。エレミヤは神の召しに応えらえるか悩みの中にいたのではないでしょうか。そのような悩みの中にいるエレミヤがアーモンドの枝を見た時に、私を通して神の言葉が語られるかどうか神ご自身が「見張っておられる」ということを感じとったのでしょう。そしてエレミヤは神ご自身が、この私を通して語るのだということをアーモンドの枝を見て悟るのです。13節はエレミヤが見た第二の幻です。この幻は、おそらくエレミヤが土鍋の前で、思いにふけていたのでしょう。その鍋の表面は北からエレミヤの方へ傾いていて、中身がこぼれそうになっていたのでしょう。エレミヤはこのような日常生活の中から、神からの啓示が与えられたのです。思いにふけるエレミヤに神は語りかけます。「北から災いが襲いかかる この地に住む者すべてに」(14節)と。つまり北からの災いがユダの民の上に降りかかるという幻です。北から災いが襲いかかる、それはなぜか、それはユダの民は「わたしを捨てて、他の神々に香をたき、手で造ったものの前にひれ伏した。」からであると神はさらにエレミヤに語り告げております。これは契約違反であります。契約違反には審判が伴います。神は神であるが故に契約違反に対しては契約違反として断罪されるのです。そしてそのことをエレミヤに語り伝えよと命じています。                                            今日、私たちはエレミヤに示された神の啓示に注目をしなければならないのであります。「エレミヤよ、何が見えるか」との問いは、普段の生活の中で何が見えるかを問うております。今、私たちは何が見えるのでしょうか。今、私たちはどのような時を過ごしているのでしょうか。今の時代はどのような時代なのでしょうか。「神は、かつては預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によって私たちに語られました。」(ヘブライ人への手紙112節)と記されています。私たちの時代は「終わりの時代」です。この「終わりの時代」とは、救い主がイエス様としてこの世に到来した時代のことです。神の御計画、神の思いはすでにイエス様によって明らかにしてくださいました。私たちはエレミヤが幻をみるよりも、もっと明らかに神の思い、神ご自身について知らされるのです。ですからそのイエス様との関係の中で、神のからの語りかけを聞き、その語りかけに応答していくことが望まれているのです。日々の生活の中で神の語りかけを聞き、応答していきましょう。私たちが神に応答して行く時に、必ず神の出来事が起こされていくのです。

              (エレミヤ書11119節)