説教記録

1129日 説教 ―              牧師 松村 誠一

      「神の約束と選びの確かさ」

ダビデが初めて聖書に登場してくるのがサムエル記上16章です。主の言葉を退けたサウル王の代わりを探すためにサムエルはベツレヘムのエッサイのもとに遣わされます。サムエルは主のみ声に従いエッサイの子どもたちに接見することになります。最初は長男でしょう、サムエルはエリアブに接見します。容姿端麗なエリアブを見て、次期の王と思ったのです。しかし、主の答えは「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と語りかけております。外見ではない、心だ。その主の言葉によって、サムエルはエッサイの子ども7人に接見しますが、主のみ心に適う人物は見つかりませんでした。そこでサムエルはエッサイに聞きます。エッサイは末の息子が残っていることを伝えます。その末の息子がダビデなのです。おそらく、父親のエッサイは、末の息子ダビデのことなど、全く念頭になかったのではないでしょうか。ここで重要なのは主の命令の言葉であります。「主は言われた。立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」。この主の命令によってダビデがサウルに変わりイスラエルの王に選ばれることになるのです。ダビデが王となるのは30歳頃と言われております。主の選びはダビデが少年時代です。少年時代から主はダビデをイスラエルを牧する指導者として選び、そしてさらに主はダビデの晩年に次のように語りかけています。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。」(サムエル記下7:12)

この主の約束が、ダビデの時代から1000年後、イエス様の降誕として成就するのです。

 私たちはこの神の歴史をつぶさに見る時に、神に選ばれたダビデがイスラエル王国を築き、神の御心を尋ね求めての振る舞いが、神の民であるイスラエル王国を築き上げていくことになるのです。そしてそのダビデの家系から御子イエス様の誕生となり、神の歴史がイエス様によって紡がれ、そのイエス様によって神の歴史の青写真が明らかにされていくのであります。

この歴史は、単に時間の経過によって紡がれているのではありません。この歴史は神の意志によって紡がれ、神の出来事によって築き上げられているのです。先週もお話しさせていただきましたが、本田哲郎神父が述べておりますように、神の働きは人を通して現わされております。ダビデを通して、私たちは神の働きに触れ、また旧約の民の中から立てられた預言者によって神の働きに触れ、そして私たちイエス様によって、神の思い、意志、神の全てを私たちに示して下さったのであります。

神の約束、選びは、2000年、3000年の歴史の中で確実に、着々と進められ、今日を迎えております。そして神の約束、選びは、イエス様によって確かなものとして私たちに告げ知らされております。それは、イエス様の再臨であり、神の国の実現でしょう。私たちはこのアドベントの時、イエス様の再臨を待ち望みつつ、神の国の到来を促進する者でありたいと思います。

         (サムエル記上16113節)


1122日 説教 ―              牧師 松村 誠一

     「求めなさい。そうすれば、与えられる」

当時のパレスチナでは旅人は日中の熱い日差しを避けて、日没後、旅を続けたそうです。譬え話に登場してくる旅人も夕方から旅に出て、そして夜中に友人宅についたのでしょう。友人は旅人を迎え入れたのですが、突然の訪問でパンもなかったのでしょう。その友人は、旅人の空腹を満たすために、パンを隣の家に借りに行っております。隣の家の人は「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし,子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」と答えております。これは常識的な答えでしょう。しかしイエス様は続いて「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。」と言っております。 

 さて、イエス様が語っておられます通り、私たちはしつように神様に求めるならば、私たちの求めに応えてくださるのでしょうか。求めれば与えられるのでしょうか。求めたけれど、与えられなかった。 しきりに門を叩いたが、門は閉ざされたままだった。このような声が聞こえてきます。そしてこのような声に、「求め方がたりなかったからだ。」という声も聞こえてきます。

イエス様はこの譬え話で、何を言わんとしているのでしょうか。この譬え話は、111節からの祈りについて教えられたあとに、イエス様はこの譬え話をされています。この譬話は「主の祈り」の実践が語られているのです。イエス様は「御名が崇められますように。御国が来ますように。」と教えられました。この祈りを祈る者は自らがその祈りに突き動かされなければならないのです。この祈りの実践は、空腹を覚え、旅して来た友の空腹を満たすことに自らが係わることであると、イエス様は語っているのです。困難を訴え、助けを求めて来る人、そういう人々と連帯しなさい。自分にはパンがない。自分にはその人の困窮を、あるいは悩みを、苦しみを癒してあげる力はない。しかし、そのような友を門前払いし、関係を切ってしまうのではなく、友のところへ、つまりイエス様にその困窮を、悩みをしつように求めなさい、という事が語られているのです。

 さて、私たちはどうでしょうか。私たちは友を助ける愛、力を持ち合わせているでしょうか。残念ながら持ち合わせていないのではないでしょうか。しかし、そのような者でございます、と開き直るのではなく、なおしつように求めてゆくならば、イエス様は必ず与えられるであろうと約束されているのです。何を与えてくださるのでしょうか。求める者にイエス様は聖霊を与えて下さるのです。聖霊はイエス様の霊であり、私たちの魂に働きかけ、イエス様の思いをはっきりと心の内に示して下さり、また示して下さったその思いを実践する力をも与えてくださいます。友を助けたい。そのことを神に願うなら、私たちが助けられるように具体的な知恵、方法、力、勇気を与えてくださるのです。

           (ルカによる福音書11513節)


1115日 説教―               牧師 松村誠一

「全ての人の救い」

 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。」(フィリピの信徒への手紙312節)

「既にそれを得たというわけではなく」の“それ”とはこの世の終末に訪れる、神によって再創造される世界で、キリスト者の最終目標であるキリストの復活の命に与ることです。パウロがこのことを告げ知らせているのはフィリピの教会に侵入してきたパウロとは異なった教えを説く人たちへ、であり、また教会員に対する注意を促すためです。

 異なった教えを説く人たちは「自分たちはキリストの復活の命にすでに与ってしまっている」「自分たちは救われてしまった」と理解する人々のことです。彼らはグノーシス主義の影響により信仰を知的に理解しようとしていた人々で、密儀宗教の影響も受けておりました。そして宗教儀式によって、霊的な興奮状態を経験した彼らは、自分たちは完成に到達した、と自分たちを見なしていたのです。彼らの信仰は自らがイエス・キリストを捕えることにより、信仰が成立し、自らの思いを満足するための宗教的行為を行っていたのです。パウロは、そうではない。信仰とはイエス様が捕えてくださった。そこに信じる信仰が与えられ、その信仰が与えられるからこそ、求める思いに導かれ、その思いの中で日々過ごしていくことであると教えております。そうではないでしょうか。私たちは教会へと導かれ、そして聖書の言葉と聖霊の働きによって信仰へと導かれたのではないでしょうか。その背景にはすでにイエス様が捕えて下さったからでしょう。

 パウロもイエス様によって捕えられ、イエス様によって使徒とされ、この体験のうえで語っているのです。信仰とは、信じたら、それでいい、というものではありません。信じる信仰を頂いた者の目標は、主イエス様のよみがえりの命に与ることではないでしょうか。そして目標を目指して歩んでいくことが、私たち信仰者の日々の生活ではないでしょうか。その信仰生活をパウロは当時のマラソン競技にたとえ、その信仰の完成を目指してひたすら走ることだと語っています。そしてパウロはそのゴールを“この世の終末に神によって完成させられる神の国」”招き入れられる、ことであると理解し語っています。

 今日は“召天者記念礼拝”です。すでに主のみもとに召されました兄弟姉妹は、パウロが語っている通り、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走り」神の国へと凱旋していかれました。私たちも、先達の信仰を見倣い、主イエス様の復活の命に与るという目標を目指してひたすら走るものでありたいと思います。

       (フィリピの信徒への手紙31216節)


―11月8日 説教 ―          牧師 松村 誠一

          「若い日に造り主を覚えよ」

「コヘレトの言葉」の書ですが、11節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」と記されており、新共同訳聖書はこの「コヘレトの言葉」をそのまま書名に用いておりますが、年代はバビロン捕囚後の特徴を表す言葉が数多く出て来ることから、ネヘミヤ時代、つまり紀元前400年以降に記されたものであろうと言われております。しかし紀元前100年頃という説もあります。年代においても諸説あるように、内容についても、作者についても諸説あります。作者は一人ではなく、何人かの人によって綴られたものであるとか、教師と弟子たちとの問答集であるとかいろいろありますが、いずれにしましても、ここに記さている内容は、人生の虚無を痛いほど身に感じ、そして神を信じる信仰によって虚無から解放され者が、人生の本当の意義は神を畏れることであるという結論を得て、そのことを広く伝えるために記された書であると言えます。

 今日の箇所ですが、「若者よ、お前の若さを喜ぶがよい。青年時代を楽しく過ごせ。心にかなう道を、目に映るところに従って行け。知っておくがよい 神はそれらすべてについて お前を裁きの座に連れて行かれると」(119節)と語り伝えています。 コヘレトは、若い、という時代も神様からのプレゼントである。若いということを利用して青春を楽しみなさい、と語りかけています。この語りかけの前提は、神に受け入れられていることを知っている者への語りかけであります。ですから無軌道に青春を過ごせ、と勧めているわけではありません。

「神はそれらをすべてについて 裁きの座に連れて行かれると」と記されていますが、裁きとは罰を与えることではありません。すべてをちゃんと見ておられる神の前に立つ時が備えられているのだからという意味でしょう。そして121節です、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と語りかけております。これは人生を深く考え、自分の人生を省み、そこから人生の本当の意義は、神を畏れることであると結論に達した著者の若者への贈り物の言葉であると思います。年を取って、「私には何の楽しみもない」と言うようにならない前に、若い時に、造り主を覚えることだ、と語り告げているのであります。この書は間違いなく紀元前に記されたものです。しかしここで語られていることは今日の私たちにも語りかけかられているのではないでしょうか。そしてこの語りかけは真実ではないでしょうか。

 どんなに年を重ねても、そして主のみもとに帰るまで、私たちの創り主である神を覚え、神に従う生活は、希望と喜びの日々です。私たちは、与えられている人生がいつの年代でも、どのような状況でも、希望と喜びが与えられていることを感謝し、そしてこのことを若者に伝えてゆきたいと思います。

               (コヘレトの言葉119122節)


―11月1日 説教 ―       牧師 松村誠一

 

      「愛による強制」

 

 ヨハネの手紙一は紀元100年頃に記された手紙とされています。この時代長老ヨハネが牧会していた教団は当時のグノーシス主義の影響を受け、教団内に大変な混乱が生じておりました。グノーシス主義に影響されたキリスト者は神を知識で理解しようとしておりました。そして彼らは神を知っていると言いながら、日常生活では教団内の交わりを破壊し、兄弟を憎み、争いが絶えませんでした。長老ヨハネはその信仰者の群れに「私の子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」と呼びかけ、愛溢れる忠告をしています。

ヨハネはまず彼らにイエス・キリストについて確認をしてから忠告へと話を進めています。22節ですが「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」と確認をしています。罪ある人間は義なる神の前には裁かれる存在なのです。神は全ての人間を罪ゆえに裁かれるのです。神は義なる神であるがゆえに、罪ある人間を見過ごすことは出来ないのです。

しかし、もう一方では、その義なる神が、罪ある人間を裁かずに、その人間を赦す、というのです。矛盾であります。その矛盾が矛盾とならないために、神は御子イエス様を私たちの罪を償ういけにえとして捧げて下さったのです。イエス・キリストにおいて人間が受けなければならない裁きを神ご自身で受けて下さった。それ故に私たちは罪赦された者として、神に受け入れられている存在なのです。ヨハネはこの事実にたって、あなたがたに忠告をするのだ、と言うのです。この忠告とは「神の掟を守れ」という忠告です。神の掟とは7節に記されている通り、旧約の時代から語られている掟であす。そしてこの掟をイエス様は“新しい掟”として守るようにと教えています。すなわち「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書1334)です。

イエス様は「してはならない」という“掟”を愛のゆえに「せざるを得ない」“掟”に御自分の生涯を通して示してくださったのです。長老ヨハネは、神が御子イエス・キリストを犠牲にしてまで我々を愛してくださっているその愛を告げ知らせ、その愛に応えずにいられない「信仰者の歩み」について語っているのです。

 私たちもイエス様の愛をいただき、“しなければならない守らなくてはならない”という信仰から“せざるを得い”信仰者でありたいと思います。それにはいつも「このような者がイエス様によって赦され受け入れられている」ことを感謝し、日々過ごすことでしょう。その感謝の思いをもって信仰生活を送ることでしょう。

         (ヨハネの手紙一 2111節)