説教題

説教記録11月

1127日 説 教―             牧師 山中 臨在

「私じゃなくてよかった」 使徒言行録13:13

外国に出て行って福音宣教のわざに仕える宣教師たちを見て「ああ、私じゃ なくてよかった」と思うことはないでしょうか。世界宣教を私たちはどれくらい身近に感じているでしょうか。

迫害から逃れてアンティオキアにやって来たクリスチャンたちが集まって 教会ができました。ひっそりと信仰を守りたかったのか、当初彼らはユダヤ人 以外に御言葉を語りませんでした。そこにパウロとバルナバが遣わされて来て、 イエス様の教えを大胆に語りはじめ、信徒は増え教会は成長し、いきいきと礼 拝を捧げていました。そんなある時彼らが礼拝していると、聖霊が彼らに「バ ルナバとパウロを世界宣教に旅立たせなさい」と告げます。よりによってなぜ バルナバとパウロだったのでしょう。アンティオキア教会ができてまだわずか です。これからが本番という時に教会の代表者たち二人共外国に送ってしまったら教会はどうなるでしょう。誰が教会を引っ張ってゆけるというのでしょう か。他の人はいなかったのでしょうか。彼らがどうもがいても「聖霊が告げた」 ことは神様からの召しなのです。聖霊は私たちには見えていないことが見えて います。私たちが行きたくないと思う場所にいる人々も神様が私たちと同じように愛しておられ、イエス・キリストの福音を聞かなければならない人たちと して神様が備えた人たちです。神様が召された事柄に対して「私じゃなくてよかった」とこちらで勝手に線を引いてしまうことはできないのです。「そこに 遣わされるのは私じゃなくてよかった」と私たちが思う所に、誰かが行かなければなりません。

アンティオキア教会の人たちは、この無謀とも言える神様の召しを受け、バルナバとパウロを世界宣教へ送り出しました。教会はこの厳しい召しをどうして決断できたのでしょう。それは祈りです。断食をして祈ったほどに祈りに専 心したのです。泣いた人も怒った人もいたかもしれませんが、彼らはそれぞれ にいろいろな思いを抱きながらも、心を合わせて祈りました。神様の召しを受けいれるためには祈りが必要です。品川教会も神様から召しを受けています。 世界祈祷週間を迎え、世界に遣わされている宣教師の働きを見て「私じゃなくてよかった」と他人事になるのではなく、自分の事柄として祈り支えていきた いのです。

国外伝道に赴いたパウロは、鞭で打たれ石を投げられ、盗賊、海難事故、寒さと飢えなどありとあらゆる困難にぶつかりました。まさに命がけの伝道でし た。「そんな大変な召しを受けるのが私じゃなくてよかった」と他人事のよう に思っていても、主の召しはいつしかその人に訪れるでしょう。「私じゃなくてよかった」が「なぜ私なんですか」に変わる時が来るでしょう。その時、「なぜ私なんですか」ではなく、「あなたは今私に何を求めておられるのですか」と主に問いながら、主の召しを受け入れていく者でありたいと願います。

 

1120日 説 教 ―   リック・プライス宣教師

    「あなたの手にある福音」 

         マタイによる福音書28:1920

ほとんどの方は、自分は平凡な人だと思っているかもしれません。しかし、私たちは神様から一人一人メッセージを手にしている特別な存在です。主は私 たちにそのメッセージを分け与えるようにと命じています。しかしこの日本で 神様からの福音を分かち合うのは難しいと感じる方もいらっしゃるでしょう。しかし、私たちは神様のメッセージを自分自身に留めておくことはできません。それは分け与えられなければならないのです。聖書は、福音は人を救う 唯一のメッセージであり、福音を宣べ伝えることは信じる者の責任であると 言います。福音のメッセージとは、罪のないイエス様が私たちの代わりに苦しみ、十字架で死なれ、3 日目によみがえられたことを信じるならば、その人は 救われるということです。 救われるためには、誰かがメッセージを聞き、それを信じ、自分の罪を悔い改め、主イエスを受け入れなければなりません。 福音は良き知らせという意味ですが、人々が実際にそれを聞かなければそれ は良き知らせとはなりません。

1 世紀の終わり頃、アンティオキア、アレクサンドリア、ローマに伝道の 核となる 3つの教会がありました。使徒でなくても、聖霊に導かれ、驚くべき メッセージを手の中にしっかりと握り、主に従順に歩む信者の方々が集まっている教会でした。彼らはいつしか、1 世紀最大の福音宣教活動を支える教会となり、人々の間に出て行ってみことばを語り続けました。これは、マタイ 281920節に語られている福音宣教のご命令に従順に生きた教会の群れが、 いかに教会の周りの地域、都市、または国全体を変えることができるかの例です。

神様があなたのことをどう思っているか考えたことはありますか。ルカ 15 章でイエス様は3つのたとえ話を語っていますが、神様から離れ神様に背いて 歩んでいる人々を神様がどれほど気にかけ、愛しておられるかが示されています。神様は、神様の存在を知らない人、イエス・キリストの救いをまだ信じていない人たちを尊び、その人たちが神様から離れたままでいることを喜ばれません。その方々は神様にとって大切な存在なのです。

自分には伝道する能力がない、あるいは資格がないと思わないでください。 神様はあなたに聖霊を与え、あなたはキリストの力強い証人になることができます。あなたはキリストの弟子であり、福音を宣べ伝える場所はあなたの周りにあります。弟子とは、礼拝者であり、何よりも神様を求め、神様を愛し、神様に従おうとする者です。弟子とは証し人であり、言葉と行いでキリストを宣べ伝えます。弟子としての私たちの責任は、イエス様のために弟子をつくることです。

福音宣教は牧師や宣教師の仕事であり、「平凡なクリスチャン」たちのすることではないと考える方もおられるかもしれませんが、すべての人が福音宣教に召されています。神様からいただいた福音のメッセージを人々に分け与えるようにと、イエス様は命じておられます。

 

1113日 説 教-        牧師 山中 臨在

0.5ミリのからし種

マルコによる福音書4:2632

からし種は、最も小さいものの象徴です。小さい種だと 0.5 ミリほどだそうです。聖書は、神の国はこのからし種のようなものである、と言います。この ことを「神様を信じる者は最初はほんのわずかかもしれないけれど、その後爆 発的に増えて世界中に福音が広がる」というふうに理解するなら、今の現実は 厳しいですね。イエス様を信じる人は増えるどころか、減っている傾向にあるようです。

ところで日本におけるクリスチャン人口の割合は、今は 0.5%位だと言われます。0.5 ミリのからし種が人に気づかれないような存在であるのと同じよう に、日本においてキリスト者は人から気づかれないような存在かもしれません。 しかしとても大切な存在です。人に気づかれないようなからし種が大切なよう に。なぜ尊いかというと、それは命があるからです。人に気づかれないようなものも神様が命を与えてくださったもので、神様がその命を尊び成長させてくださるのです。私たちは目に見える大小で物の価値や成長をはかろうとします が、神様は違うようです。

私は身長(179 センチ)の点では大きいと言われることが多いのですが、ヒ ョロリとしていて頼りないとよく言われます。0.5 ミリのからし種はやがて成長して大きくなると書かれていますが、何か太い幹に支えられた立派な木になるのではなく、幹なのか枝なのかよく区別がつかずに細い枝が折れ曲りながら伸びていくような、私のようにヒョロリとして風が吹けば飛ばされたり枝が 折れそうな存在です。それが神の国のたとえに用いられているのです。神の国 というのはもっとどっしりとして頼もしいものだと思うかもしれませんが、神の国に招かれている私たち一人一人は、人生の嵐が吹けば心が折れて倒れ込んでしまうような頼りない存在です。しかし、そんな私たちには力があります。 からし種に力があるように。神様から命を与えられているからです。吹けば飛ぶような私たち、誰からも気づかれないような小さな私たち一人一人の命を神 様が尊び、御言葉を通して神様の力を与えて私たちを成長させてくださるので す。成長は人間のわざではありません。

ところで、0.5 ミリのからし種は成長すると、鳥が巣を作るようになると書 かれています。これは私たちのことです。頼りない私たちですが、そんな私たちを神様は必要とされているのです。頼りない私たちに、他者を助け他者に主 の平安を伝え分かち合う役割をくださっているから、私たちに命を与え成長させてくださるのです。自分のことで精一杯で他人のことなどかまっていられないと思っていても、神様は、あなたの命はあなたのためだけでなく、他者を生 かし励ます尊いものとしてあなたを成長させてくださるのです。あなたにしかできない神様からの役割があります。それは何かを知るためには御言葉に聞かなければなりません。それを求めて祈らなければなりません。成長させてくださる神様に聞き祈りながら、今週も歩んでいきましょう。

 

116日説 教―             牧師 山中 臨在

  「心配ない!

コリントの信徒への手紙()15:5058

死の恐怖は常に人を悩ましてきたことと思いますが、人はなぜ死を恐れるの でしょう。何が死を不安にさせているのでしょうか。聖書は、死を恐れなくて よい秘密を語っています。それは、朽ちるべきものが朽ちないものを着、そして私たちは死んでも復活して朽ちない者となるということです。天国の希望を 語る時、私たちは、天国ははるか彼方の未知の世界、という風に考えていない でしょうか。しかし聖書は、私たちのこの肉の体は罪を犯し、神の国に入ることのできない朽ちる存在だが、朽ちないものを着ることが許されていて、朽ち ないものに着替えて神の国に入ることができるのだ、だから私たちの人生と天 国は切り離されていない、むしろ繋がっているものだという希望を語ります。

人生というドラマを歩む中で、1 幕がドラマの最後(肉体の死)だと思って 2 幕を見ないならば、2 幕に用意されている神様の希望の秘密を味わうことが できません。神様の 2 幕を味わうと、1 幕と 2 幕は繋がっていて、1 幕で肉体 の死を経験しても、その先に続きがあって「死者は復活する」という希望にあずかるのです。罪ある朽ちる私たちに、罪のない朽ちないものを着せるために、 イエス・キリストは十字架にかかって罪を滅ぼし、私たちに先がけて復活し、 永遠の命の希望を与えてくださいました。それを示す 2 幕をしっかり味わうな らば、死の心配から解放されるのではないでしょうか。死は 1 幕の終わりかも しれませんが、ドラマの終わりではなく、希望の 2 幕への始まりです。

死に関するもう一つの恐れは、自分の愛する者の死を体験することにあるの ではないでしょうか。愛する者との別れは身を引き裂かれるような痛みがある ことでしょう。しかし聖書は、本来朽ちるべき者(神の国に入れない者)が朽ちないものを着て、神の国に入ると言います。つまり、神のものとされるということです。先に召された者とこの世にまだ生きている私たちとの間に分離や 分断があるのではなく、救い主イエス・キリストによって共に神のものとされるという繋がりを得られます。だから心配はいらないのです。

品川教会に連なる、先に召された先輩方との別れのつらさをご親族や教会の 友として味わったことでしょう。しかし主イエス・キリストによって私たちは 繋がっていることを忘れないでください。まだ神様の 2 幕を味わっていない方、 2 幕を見る必要がないと思っておられる方、2 幕の存在を知らない方は、ぜひ 救い主が与えてくださっている 2 幕を味わい、2 幕に与えられる神様の希望の 秘密を味わっていただきたいと思います。信仰を持っていても死の不安や心配 が襲ってくるキリスト者には「(心配に)動かされないようにしっかり立ち、 主の業に常に励みなさい」(58)という言葉が与えられています。ですから私 たちの不安も心配も恐れも主にゆだね、主が与えて下さっている希望に目を向けて死の心配から解放されて頂きたいと願います。