説教記録12月

1226日 説 教―               牧師 山中 臨在

     「平和の君」 イザヤ書956

主イエス様は平和の君である、と聖書は語ります。どのようなメッセージを私たちは聞き取っていけばよいでしょうか。

平和は争いがない状態ですが、ある人が「戦争は憎しみから始まるのではない。相手を知らない(知ろうとしない)から起こることだ」としてもっとお互いを知り尊重し合おう、と言いました。他者を知ることが平和につながるというのです。マザーテレサは「愛の反対は無関心だ」と言いましたが、救い主が「平和の君」であるというメッセージは、まさにこのことを伝えていると思うのです。イエス様が赤ちゃんとして生まれたのは、王として上から目線で私たちを支配するのではなく、私たちと目線を合わせてくださるためです。私たちが何を見ていて何を思い、何を喜び何に苦しんでいるかを知ってくださったのです。この「平和の君」はまたの名を「驚くべき指導者」と言うようですが、指導者と訳されている言葉は別の訳では「助言者」となっています。他者のことを知ろうとしない私たちに、知る努力をすることを助言してくださる方なのです。イエス様は私たちが平和を作り出すためのモデルとなる方です。だから私たちはこの平和の君を真の主としてその助言を仰がなければなりません。

さて、聖書が語る平和(シャローム)を考える時、争いがないことの他に大切なことがあります。シャロームは、神と人との和解が根底にあります。神様と人との間に平和が与えられて初めて、人と人との間に平和が与えられます。神と人との和解という、私たちが本来あるべき状態に回復していただくためには、神様による私たちの罪の赦しがなければなりません。罪ある私たちがどんなに頑張っても、自分の罪が赦されることはありません。平和の君であるイエス様は、自ら十字架に進んで命を捨てて私たちの罪を赦されました。それほどまでに神様は罪深い私たちを愛してくださいました。なんという恵みでしょう。それほどの「万軍の主の熱意」(6)が注がれたゆえに、私たちは赦しの道、平和の道を与えられました。真の平和がなるために、私たちが努力することは尊いことですが、しかし人間の力には限界があります。真の平和は、熱しやすく冷めやすい人間の力ではなく、主の情熱や愛によって一方的に与えられるものであること、だからこそその「平和は絶えることがない」(6)、人が阻止することができないものであるというメッセージを聖書は語っています。

教会を表すギリシャ語「エクレシア」は、礼拝するために召し出された「人々」という意味です。「あの方」や「この方」と共なる信仰共同体です。まず教会である私たちが、主の平和を世の人々に示していかなければなりません。そのために教会にいる「あの方」や「この方」のことを知り、互いに祈り合いましょう。また教会は、罪赦された罪人の共同体です。あの方のためにもこの方のためにも救い主が生まれてくださり、あの方やこの方も「私」と同じように罪を赦された人であることを喜び、主に感謝して歩みたいと願います。

 

- 1219日 説 教-      牧師 山中 臨在

インマヌエル」マタイ11823 ルカ217

ヨセフのいい名づけであったマリアは二人が結婚する前に、聖霊によって身ごもったのですが、ヨセフもマリアも大変戸惑いました。正しい人であったヨセフはひそかにマリアと縁を切ろうと決めました。そうしなければ、マリアは石打の死刑にあってしまうのです。愛する女性をそんな目に遭わすことはできません。ヨセフは、マリアと共に生きることを諦めました。

そんなヨセフに神様は、インマヌエルという希望のメッセージを送ります。「あなたはマリアと共にいることに苦しみを覚え、マリアと共にいることをあきらめようとしているね。でも私はあなたたちと共にいるよ。一人でマリアとの関係に悩む必要はないのだ。」まさにマリアとの関係に悩んでいたヨセフにとっては暗闇の中に輝く希望のメッセージでした。

その後ヨセフとマリアは住民登録のためにヨセフの故郷であるベツレヘムにやってきましたが、臨月を迎えたマリアを泊めてくれる人がおらず、出産する場所がありません。ヨセフもマリアも、怒りや惨めさ、或いは絶望を覚えたのではないでしょうか。しかしここでも神様は「あなたたちは、助けてくれない人々と共にいることをあきらめようとしているかもしれない。でも大丈夫、私はそんな世の中にいるあなたたちと共にいるよ。」とインマヌエルのメッセージを送られました。飼い葉桶ではあったけれど、場所を提供してくれた人がいたのです。ヨセフとマリアはその後世の中で生きていくことができました。

人は一人では生きていけません。他者と関わっていかなければなりません。それが喜びや希望にもなりますが、一方でそれが痛みや悲しみをもたらすこともあります。そして人間関係に傷つき悩むことは多く、時として思ってもみないような深い闇に陥ることもあるようです。「あなたと私」で乗り越えなければならないことがしんどくなり、共に歩むことを放棄したくなる時には、「私だけ」や「あなただけ」に助け手がいてもそれは解決にはなりません。「私たち」と共にいてくださる助け手が必要です。その助け手がおられます。「あなた」と「私」で解決できない問題に直面した時、「自分の知識や力で解決しようと、これ以上無理しなくていいよ、私に任せなさい。だって私はあなたたちと共にいる主だから」とインマヌエルの主は語りかけてくださいます。

私たちは他者と生きる中でどんな喜びがあり、どんな苦しみがあるでしょうか。喜びがある時はいいけれど、それが一旦苦しみに変わると、その人(たち)との関わりを放棄したくなります。でもインマヌエルの神様は、人との関りを放棄したくなったヨセフやマリアを放っておかなかったように、私たちをもそのまま捨てておかれないのです。マリアとの関係を断とうと思っていたヨセフに神様は「恐れず妻マリアを迎えなさい」と言いました。そして今私たちにも「恐れずに私に祈りなさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。

 

 

1212日 説 教―              牧師 山中臨在

    「救いを見た」ルカによる福音書2: 2532

  シメオンは生まれたばかりのイエス様に出会い「わたしはこの目であなたの救いを見たから、今こそ自分を安らかに去らせてくださいます」と神様を賛美しています。シメオンが言った「救いを見た」とはどういうことなのでしょう。

  救いとは、あるべき姿、即ち神様と親しい交わりの中にある状態に回復していただくことです。人間は本来神様と親しい交わりをしていて、神様のお守りのもと、平和に過ごしていましたが、やがて神様に背き、本来あるべき神様との親しい交わりを自ら崩してしまいました。しかし神様は私たちを憐れんでくださって、神様との親しい交わりを回復する道を私たちに与えてくださいました。それが神様の与えてくださる救いです。この救いが与えられると、私たちは永遠に安らかに平安でいることができるのです。

  その神様の救いを「見た」ということは、救いが何か観念的なものや妄想ではなく、救いの道が確かに存在することが証しされたのです。肉に生きている限り、私たちには不安や苦難がありますが、救いを見ると苦難から解き放たれ、いつまでも絶えることのない平安が与えられます。   「あなたがたには世で苦難がある。しかしあなたがたはわたしによって平和を得る」(ヨハネ1633)と聖書は言うのです。救いを見たら、もう死の恐れはない、いや、恐れることなく安心して生きていける。これがシメオンの賛歌が示す証しであり、クリスマスの意味(恵み)です。

 ではどうやって救いを「見る」ことができるのでしょう?シメオンはイエス様の説教を聞いたこともなく、十字架と復活を見たわけでもありません。一人の貧しい赤ちゃんが救い主であると彼がわかったのは、聖霊の働きによります。信仰のあつかったシメオンが聖霊の導きを祈り求めていたように、私たちも聖霊の導きを求めて祈りましょう。聖霊の働きがなければ、救いが自分に与えられているのにそれを見ることはできません。

  また、救いを見る必要と共に、救いを見せる(伝える)役目もあるのではないでしょうか。救いを見た人が平安の内に死んでいったとしても、その死に際しては残された方の悲しみや淋しさ、痛みを忘れることはできません。残された方にも平安が必要です。救いを見たなら、自分が見た救いを他者にも見せ、主の平安は揺るぎないことを伝えたいのです。どんなに痛み悲しみ苦しんでも主が離れずに共におられるから安心して生きなさい、という神様のメッセージを携えて生きる人生はどんなに素晴らしいことでしょう。

  シメオンの賛歌は詩になっています。彼は自分が安心して死んでいけることを歌ったのです。そこには大きな喜びや感動があったのでしょう。神様による平安がある人生は歌いたくなるほどの喜びがあるのです。神様が確かに与えてくださった「救い」というクリスマスプレゼントを「見る」ことのできるよう、聖霊の働きを求めて祈りましょう。

 

 

125日説 教―                 牧師 山中 臨在

「伝える人」

ローマの信徒への手紙10: 1415

全世界に福音を宣べ伝えよと主は私たちに命じておられます。イエス様のお命じになることには従わなければなりません。伝道は私たちの使命です。でも実際聖書のことを人に伝えるのは難しいと感じる人は少なくないのではないでしょうか。家族、友人、会社の同僚、身近な人にこそ福音を伝えたいけれど、それによって人間関係にひずみが生じるかもしれないと思うと恐れや不安を感じる人は多いのです。「すべてを捨てて従え」とイエス様は言うけれど、ではすべてを捨てきれない自分はクリスチャン失格なのだろうか、神の国には入れてもらえないのだろうか。そんな問いが聞こえます。

聖書は「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」と、福音を宣べ伝える人が必要であることを語ります。「だからそのために牧師や宣教師がいるのだ」と言う人もいるかもしれません。しかし「イエスは主であると公に言い表すことが信仰である」(109)と書かれていますから、伝えることは一部の人だけが行えばいいことではないのです。

福音を伝える人の本質を三つ考えましょう。まず「喜び」です。神様の愛を素直に受けてそれに感動して喜んでいること。その結果、その喜びを伝えずにはいられなくなるのでしょう。伝道するのはハードルが高いとか自分は口下手だから難しい、と思う必要がないのです。ただ素直に福音を信じているなら、喜びがにじみ出てくることでしょう。

二つ目は他者を思う祈りです。主から与えられた喜びを他者にも喜んでもらおうという思いがあると、それは他者の心にも伝わることでしょう。聖書は「福音を伝える者の足は美しい」(イザヤ527)と言います。福音を伝える相手のことを思い祈り愛する心を持っている、それを主が尊び、「美しい」と表現しているのではないでしょうか。祈りがなければ他者のことを愛する思いは与えられません。祈りの中で相手の具体的な課題やその方への思いが増していきます。そしてその祈りは相手に届くのです。

そして三つ目は、「遣わされる」ことです。主に遣わされなければ福音を伝えることができません(15)。伝道するには口下手だとか人間関係にひずみが出るのはいやだと私たちは恐れますが、自分の力で伝道するのではないのだから、神様の力をいただいてあとは神様にお任せすればいいのです。そのためにもやはり主の派遣を求めて祈らなければなりません。そして主の派遣は礼拝においてなされます。祝祷というのは、単に主の祝福をいただいてよかった!という祈りではありません。礼拝において主との対話の中で祝福をいただいた私たちは、その祝福を携えて主から世に遣わされていく、その派遣の祈りなのです。だから私たちは礼拝をするのです。だから礼拝が必要なのです。礼拝なくして伝える人になることはできません。

神様の愛をただ素直に喜んで受け止め、他者を愛してその喜びを分かち合えるよう、そして福音を伝える人として主に派遣していただくよう、心から祈りましょう。