説教記録12月

1227日 説 教―             牧師 山中 臨在

「天国の忘年会」ヘブライ人への手紙 10814,23

年の瀬は忘年会のシーズンですが、天国にも忘年会があって、忘れることを喜んでお祝いしているようです。いったい何を忘れて喜ぶのでしょうか。

 礼拝を司る祭司は律法に従い、礼拝の度に罪を贖うためのいけにえとして動物を献げていましたが、そのいけにえは「決して罪を除くことのできない」(11)ものでした。いつしか罪の赦しの単なる手段として動物の犠牲を利用するようになってきたことを、神様は喜ばれなかったのです(6)。毎日毎日動物のいけにえが献げられ、人の罪は神様に毎日思い出されていました。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか」(サムエル記上15:22)と記されているように、神様への従順こそ主が本当に喜ばれる犠牲であると聖書は語ります。その犠牲は御子イエス様ご自身です。イエス様は私たちの罪を赦すためのいけにえとしてご自身の体を十字架上に献げられ、十字架の死に至るまで従順であることを自ら示されました。神様と人間を隔てていた壁が、イエス様の犠牲によって取り除かれ、本来交わることのできなかった聖なる神様と人間が交われるようにしてくださいました。私たちの罪は消えないけれど、その罪を忘れて神様との交わりに導き入れてくださったのです。人間の努力では罪は消えません。しかしイエス様の体が十字架に献げられたことによって、人間の罪を神様は赦す、罪を忘れると言ってくださいます。天国の忘年会は、イエス様によって、人の罪が忘れられることに感謝し喜んで、宴会をするのです。

 神様の御心に完全に従ったイエス様は、完全な犠牲となられました。これはどんな人間にも献げることのできない服従であり完全な犠牲でした。御心にかなう完全な犠牲となるために、イエス様は肉体をとってこの世に降って来られ、ただ一度十字架にその体を献げられました。それまで祭司は、毎日礼拝を献げるために「立って」いけにえを献げていましたが、そのわざは完了することがありません。しかし、一度十字架にご自身を献げられたイエス様は、「永遠に神の右の座に着き」ました。もう毎日立っていけにえを献げる必要はありません。忘年会を座って楽しむのです。

 私たちにとって更なる喜びであり希望であるのは、イエス様の前に、敵が「足台」となることです。敵とは怒り、争い、戦争であり、また病気や貧困、飢え、孤独、絶望であるでしょう。今年は新型コロナのせいで本当に多くの人が「絶望」を味わいました。持って行き場のない怒りや争い、不安や不信感が湧き上がりました。しかし、それらのことはすべて主の前に征服されて消えうせ、私たちには主にある希望が与えられています。完全な犠牲となられたイエス様を通して罪を忘れる「約束をしてくださったのは真実な方なのですから、希望は揺るがない」(23)のです。そのことを信じ、希望を胸に、天国の忘年会を味わいましょう。

 

 

1220日 説教―              牧師 山中 臨在

  「4人目の博士」マタイによる福音書25:3140

赤ちゃんのイエス様に贈り物をした東の国の博士のことが聖書に描かれていますが、今日は4人目の博士(博士4号)の話をします。彼も先を歩く3人の博士のように、イエス様にささげる贈り物を持って歩いていました。国を離れてしばらく歩いていると、途中で道に倒れている人がいました。倒れている人をかわいそうに思いましたが、ユダヤ人の王様に会いに行く途中だから遅れるわけにはいきません。しかし3日間何も食べていないと言うその人に何時間も頼みこまれた博士4号は、イエス様に贈るために持って来た特別上等のご馳走をその人にあげました。その人はとても嬉しそうに博士に感謝をしました。気がつけば他の3人はずっと先に行ってしまっています。何とか追いつこうと道を急いでいたら、また別の人が、お腹が痛くて道に倒れています。博士4号は上等な薬を持っていましたが、イエス様にプレゼントするためだったので、その人にあげるわけにはいきません。しかし痛くて死にそうにしているその人がかわいそうになり、結局その薬をあげました。その薬のおかげで倒れていた人のお腹の痛みが治り、その人は嬉しそうに博士4号に感謝しました。先を急いでいると、今度は通りがかった家が火事で燃えています。博士4号は、さすがに火事は自分の手に負えないから消防の人に任せて先を急ごうと思いましたが、燃える家の中で悲痛な叫び声が助けを求めるのを聞き、力をふりしぼって一所懸命燃える火に水をかけました。何時間も水をかけてやっと火が消えましたが、家は燃えました。途方にくれる家族に博士は、イエス様にあげようと思っていたお金を「家を建て直す足しに」と渡しました。家の人は泣きながら何度も博士4号にお礼を言いました。

 博士4号はこんな予定外の出来事に時間をとられ、結局イエス様に会えませんでした。悲嘆にくれる博士4号にその夜神様が夢で語りかけました。「博士4号、あなたのプレゼント受け取ったよ。ありがとう」博士は「神様、いえそれは何かの間違いです。私はイエス様に会いに行って贈り物をささげようと思っていたのに途中いろんな人たちに会ってしまって時間をとられ、結局イエス様に会えなかったし、渡そうと思っていた贈り物も他の人に渡してしまったのです。ごめんなさい」と謝りました。すると赤ん坊のイエス様が「あなたが旅の途中で出会った人たちにしてくれたのは、みんなわたしにしてくれたことなのですよ。嬉しかったよ、ありがとう」と言われました。

私たちは思いがけず、痛みや苦しみのただ中に置かれている方々と出会います。主は「その小さくされている人たちに目を注ぎ、あなたの持っているほんの一部をその方々に与えて助けなさい。それは皆、わたしにしてくれることなのだよ」とおっしゃいます。神様が私たちに下さったクリスマスのプレゼントであるイエス・キリストの愛を、私たちも他者に分かち合って歩んでいきたいと思います。

 

 

1213日 説 教―      鶴ケ谷芳昭 神学生

 「神様のくださるもの」 イザヤ書11:15

「新生讃美歌153番に「エッサイの根より生い出でたる」と言う賛美歌があります。クリスマスの有名な賛美歌です。預言にあるように、マリアから生まれ、闇をはらい、罪と死より私たちを救うために生まれるイエス様を預言し、誕生を賛美する曲です。この詞における預言は紀元前700年頃のことです。預言者イザヤは軍事力による平和とは全く異なり、創造主である神様に源をもつ平和について預言を行いました。

エッサイはダビデのお父さんです。預言者サムエルは神様からエッサイのもとに行き、王となるべき者をさがし、油を注げと言われました。サムエルはエッサイとその息子たちに会いました。7人の子供たちに会いましたが、神様は認めませんでした。そして、羊飼いに出ていた末の子、ダビデが連れてこられて、油が注がれます。サムエルにとっても、エッサイにとっても、ダビデに油が注がれるとは思ってもいなかったと思います。

ダビデの王朝は永遠に神様に祝福されると約束されていました。ところが、その木にたとえられた王朝は神様の裁きによって切り倒されてしまいました。でも、イザヤはエッサイの切り株から新しい芽が出てくると預言します。そして、新しい芽、新しく立てられるメシアの上に、神様から知恵と識別の霊が送られると預言します。エッサイの根は、ユダ王国のダビデ王朝の源と言う意味ではなく、ダビデに油を注いだ神様の選びの力を意味しています。イザヤは召命の時にすでに神の栄光が全世界を覆うのを幻に見ていました。

神様は平和の王として、エッサイの切り株から出た芽、イエス様を私たちのためにくださいました。そして、神様はイエス様を通していつも私たちを見守っていてくださっています。そのイエス様が私たちを支え、導いていてくださっています。でも、なかなかそれを感じることができない私たちです。それはなぜでしょう。

 ルカによる福音書にエマオに向かっている二人の弟子の記述があります。イエス様をよく知っていたはずの弟子でした。ところが道すがら、イエス様が色々な話をしてもイエス様に気づきません。宿に入り、パンを裂く姿をみて、イエス様にやっと気付きました。弟子さえもです。

 私たちも同じでイエス様の恵みに気が付いているのでしょうか。その恵みが違っていると思うかもしれません。でも、恵みに気が付いて、感謝し、行動すること、それが大切であると思います。神様は、神様が善しとされた恵み、救いを与えて下さいます。その人にはそれで十分なのです。どんな小さなことでも、イエス様に気が付いて、感動し、その感動を皆に伝えていくこと、私たちは大切にしなければなりません。

イエス様の誕生、お待ちしましょう。

 

126日 説 教― 牧師 山中 臨在

  「神様との三角関係」コヘレトの言葉11:16

 「コヘレトの言葉」の89章では、パンは人間の労苦に対して神様がくださる祝福であるからそれを食べることを楽しみなさい、と教えていますが、今日の箇所では、あなたが楽しむべきパンを水に浮かべて流しなさい、と言っています。ここでは、無条件に人にパンを送りなさい、という意味に捉えることができると思います。更にそれを7人にも8人にも分かち合いなさいとコヘレトは言います。水に流したパンを誰かが受け取る保証はありませんが良いのでしょうか。

3節以降は、種蒔きについて書かれています。予期せぬ雨が降り、風もいつどこから吹くかわからないが、それを気にしていたら種は蒔けないのだから、ひたすら種を蒔き続けなさい、と言うのです。そのやり方は効率があまり良くなさそうです。

しかし人間の体を作り、自然界のすべてを治めるのは神様です。誰がどこで流れてきたパンを拾うか、どの種がいつ実を結ぶかは自然を支配する神様にしかわからないのだから、人間はただひたすら朝も夜も種を蒔きなさい、と聖書は語ります。すべては神様が御心によって成し遂げてくださるのだから、神様にすべてゆだねて生きよ、と教えているのです。これは、福音の種を、朝も晩も、時が良く思えても悪く思えても、蒔き続けなさい、というメッセージです。パンを水に流すことや種を始終蒔き続けることは、一見無駄なことのように思えても、やがて月日がたってからその実を「見いだす」(1)のです。アメリカの南部バプテスト外国伝道局は日本に派遣する宣教師の数を減らしています。他のアジアの国々に比べ「効率」(クリスチャンになる数)が少ないからです。しかしそれでもプライス宣教師夫妻は日本に福音のパンを分かち合い、福音の種を蒔くために来られました。コロナのことで更に状況は悪いように見えますが、神様の時を待ち望みつつ福音の種蒔きを続けておられます。私たちにも、福音を伝えたい、神様の恵みを分かち合いたい他者(隣人)がいるはずです。

私の親友の一人が離婚を経験して憔悴し切っていた時、「自分のために祈ってくれ」と言いました。彼はクリスチャンではなく信仰を持とうと思っているわけでもないのですが、私に祈ってほしいと懇願しました。彼は神様を信じていないけれど、神様を信じている私につながることで、彼も神様につながっていて、私を介して神様はこの友人に関わってくださるのだと思います。私はこれを神様との三角関係と呼んで、とても大切にしています。友人はいまだにクリスチャンにはなっていませんが、確実に彼の魂のどこかに福音の種は蒔かれたと思います。それがいつ実を結ぶかは神様に委ねています。

世界中に福音の種を必要としている人がいます。ならば、私たちはそれがいつどのように実を結ぶか、効率を気にするのではなく、与えられた福音のパンを、福音の種を蒔き続けましょう。神様が豊かな実を結ばせてくださるように、祈り続けましょう。