説教記録12月

 

1229日説教―                牧師 山中 臨在

「クリスマスの言(ことば) ヨハネによる福音書1:118

今日の箇所にある「ことば」は、「言葉」ではなく、「言」と書かれています。これは原語では「ロゴス」と言って、ヨハネはここで特別な固有名詞として描きます。つまり、一つしかないもので、私たちが普通に考える「言葉」とは同じではないようです。そしてこの「言」がイエス・キリストであるとヨハネは言うのです。イエスは言であった、というこのヨハネの記述からイエスがどのような方であるのかを考えてみましょう。

 まず、イエスは神である、ということです。「初めに言があった。・・・そして万物は言によって成った」(1,3) とあります。普通は、人がいて、その人が使う言語として言葉が出て来ると考えますが、ここでの順序は逆で、まず言があって、全ては言によって創られたと言います。この「言」は、神の本質を持ち、神のみ心を伝える者、すなわちイエス・キリストであるとヨハネは言います。

 またその「神の言」であるイエス・キリストが肉となった(14) と書いてあります。すべての物の創始者である神が被造物である人間となる筈がないのに、しかし神は自ら人間の所に降って来られ肉体となられた。神のみ心・神の愛を十分に伝えるために人の所に来られた。それがイエス・キリストであるのだ、と言うのです。

 そしてもう一つ大切な事は、この「言」であるイエスは、暗闇の中で輝く光だということです(5)。私たちの闇は何でしょうか。お金の不安、出世に関する不安、受験の不安、人間関係のいざこざ、恋愛の問題、病気、高齢者の介護・・・。もしそれらが闇だとしたら、その闇の中に光は輝いていますか? どうやって光を見つけますか?

私たちが闇の中にいる時、様々な人の声が入ります、私たちを落としめる声、悩ます声、或いは励ます声。でもそれらは根本的には私達を闇から救い出すことはできません。しかし神の言は暗闇から私たちを照らしてくれるのです。万物の根源であるこの言であるから、私たちを照らして私たちが生きる道を示してくれるのです。人の言葉でも希望の光を与えてくれるじゃないか、見えない神なんかより見える人の言葉のほうがよっぽど力になる、そう思われるかもしれません。確かに人の優しい言葉に励まされることはあります。でも人の言葉には限りがあります。闇を完全に打ち負かす力はありません。励まそうと思っている言葉なのに受け取るほうはそれによって全く励まされないこともあります。しかし神の言は暗闇を打ち負かす力なのです。

 

 

1224日 イブ礼拝メッセージ―    牧師 山中 臨在

「世界で初めてのクリスマス」 ルカによる福音書2:124

 

聖書は、世界で初めのクリスマスの情景が描かれています。ヨセフは故郷に来たのに、泊まる宿がありませんでした。彼らは人々から歓迎されず、盛大なパーティーもごちそうもプレゼントもありません。しかし賛美はありました。礼拝があったのです。天使たちは神を賛美し、イエスの誕生を告げ知らされた羊飼いたちは「急いで」イエスに会いに行きました。彼らは見聞きしたことについて神をあがめ、そして彼らも賛美をしたのです。羊飼いたちはただイエスに会いに行き、そしてただイエスを賛美して帰りました。あれをしてほしい、これをしてほしいと頼んだのではないのです。ここに礼拝とは何であるかが語られているように思います。礼拝とは本質的に、ただ主に会い、主をほめたたえる、ということなのではないでしょうか? 最初のクリスマスと2000年以上たった現代のクリスマス、華やかさの違いこそあれ、共通していることは、そこにイエスキリストを礼拝することがあるということです。

街に輝くクリスマスイルミネーションはきれいでまぶしいですが、イルミネーションがあなたを照らす時、あなたは見えるべきものが一瞬見えなくなります。光を浴びると人は周りが見えなくなるのです。もしクリスマスイルミネーションの華やかさに照らされてイエス・キリストがあなたに見えなくなっているとしたら、ちょっとイルミネーションから離れて、少し暗いところで、落ち着いてイエス・キリストを探してみましょう。そしてあなたの心にイエスキリストがいることを確かめてみましょう。あるいはまたイルミネーションに照らされて見えなかったけれど、よく見てみるとあなたの周りの華やかさの輪の中にいない人、そこに入れないでもがいている人がいるかもしれません。そのような人に、私たち人間の言葉は無力ですが、神の言葉には力があります。もがく人のためにもイエス・キリストが生まれたことを聖書は力強く語ります。 イエスが生まれたことは「すべての人に与えられた喜びだ」と10節に書かれているのです。事実、イエスが生まれた知らせは当時世間から軽蔑されつまはじきされ苦悩していた羊飼いたちにまず届けられました。イエス自身、飼い葉桶の中で、低い者として生まれました。それがクリスマスの意義であり、クリスマスの喜びではないでしょうか。

私たちも、世界で初めのクリスマスの時と同じように、イエス・キリストを見つめて賛美をしましょう。イエス・キリストを礼拝しましょう。クリスマスイルミネーションではなく、イエスキリストの光に照らされて、喜びましょう、イエス・キリストは他の誰でもない、「あなたの」ために生まれてきて下さったのですから。

 

 

―1222日 説教          牧師 山中 臨在

「天使のクリスマス」    ルカによる福音書2:820

情報があふれる時代ですが、最も大切な情報は何かを聖書は語ります。イエス・キリストが生まれた夜、羊飼いたちはいつものように野宿をしながら夜通し羊の番をしていました。社会の最下層の者とされていた彼らに、突然天使が現れ、「あなたたちにビッグニュースを教えましょう。これは喜びの情報ですよ」と救い主の誕生を告げたのです。それまで大切な情報は身分の高い人のところに行き、自分たちにその情報が届くことなどほとんどなかった彼らは、まさか救い主の誕生の知らせが自分たちに与えられるとは思ってもみなかったことでしょう。しかし天使の聖歌隊がそう告げるのですから、これは本当に違いありません。「今すぐ会いに行こう」と急いで出かけました。「あなたがたのために救い主が生まれた」これが受け取るべき大切な情報でした。そしてその情報は、お偉いさんではなく、人々からは見向きもされないような人たちのところにまず伝えられました。天使が「民全体に与えられる大きな喜び」と言っている民全体の中に、羊飼いは今まで入れられていなかったのです。でもこの嬉しいニュースは、羊飼いにも忘れられることなく届けられました。そして彼らはしっかりと救い主に会い、すべて天使が話したとおりであることに喜び、神を賛美しました。

ここに礼拝とは何かというメッセージがあります。私たちが聞かなければならない重要な情報(福音)は、神様から与えられること、それは「すべての」人に与えられるということです。一人の漏れもありません。偉い人や能力がある人だけが特権的にもらえるものではないのです。あなたは忘れられていないのです。

神様からの嬉しい知らせを受けた羊飼いはその知らせに応答して、イエスに会いに行き礼拝をしました。そして礼拝した彼らは、これらのできごとを人々に知らせたと書いてあります。最下層だと見なされていた彼らの言うことなど通常誰も耳を傾けてくれないのです。でも羊飼いたちは、たとえ人が耳を傾けようと傾けまいと、語らずにはいられませんでした。私たちが神様から頂く大切な情報(福音)は、それほど喜びを伴うものです。神様の招きに応答し礼拝し語る人が「御心に適う人」(14)なのだと思います。

天使というのは、神様のメッセンジャーですが、礼拝してそれを人に伝える者になるということは、私たちも或る意味、天使として神様のメッセンジャーの働きを担っているのではないでしょうか。だから私たちは天使のクリスマスを過ごすように神様から召されています。イエスを礼拝した羊飼いのように、たとえ人が自分の言うことに耳を貸さなくても、それを伝えたいのです。「私のような者を神様は愛してくださってる! 私は忘れられていなかった。同じようにあなたも神様に愛されていますよ」そのメッセージを届ける者になりましょう。

 

 

 

1215日 説 教―       協力牧師 松村 誠一

      「恐れるな」ルカによる福音書2:820

ルカによる福音書の記者ルカはイエス降誕のニュースが最初に告知されたのは羊飼いたちであることを紹介しております。

 羊飼い、当時のイスラエルでは社会的地位もない、自分たちの定住の住まいもない。そういう羊飼いたちに、神様はあなた方のために救い主がお生まれになった、ということを告げたのです。羊飼いこそ、救い主イエス様を一番必要としていた人々だったのです。神様はその羊飼いたちを一方的に、御子イエス様の降誕の場へと導き、祝福して下さったのです。イエス様のご生涯は、まさにこの世から疎外されている人々、病人、障害をもっている人々の友となり、そういう人々を癒し、救われておられます。ルカはイエス様の降誕から、そのような方として紹介しているのです。

 今日は天使が羊飼いに語りかけた「恐れるな」という言葉について考えてみたいと思います。羊飼いは、「主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」のです。羊飼いたちは活ける神の栄光(現臨)に触れたからでしょう。神の現臨に触れる時、人間の根源的な生き方、人間の本当の姿、人間の実存が問われるからです。

 あるアメリカの牧師が語っていたことですが、科学が発展するにつれて、人間は人間の限界を忘れてしまい、与えられた技術によって自分たちは神々であると思い込んでしまった。小賢しい知恵をもって、本当の恐れを知らず、次から次へと現れる様々な出来事におびえながら日々過ごしているのではないか、と。このような恐怖は、単なる怯え、動揺で、本当の恐怖ではないというのです。本当の恐怖とは、「主の栄光が周りを照らした時」に羊飼いたちが体験した恐怖です。しかしこの恐怖は、恐怖では終わらないのです。恐れている羊飼いたちに天使は「恐れるな。わたしは民全体に大きな喜びを告げる」と語りかけています。神の現臨に触れた時に、人間は恐れを抱くのです。そしてその恐れとは、喜びへと変えられていくのです。つまり滅びゆく人間全体が、神によって受け入れられ、真に生きる存在へと変えられていくからです。

 さて、非常に恐れた羊飼いたちは、その恐れからどのように開放され、恐れが喜びに変えられていったのでしょうか。それは彼らがベツレヘムへ行き、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てて礼拝することによってです。羊飼いたちがその行動を通してイエス様を拝したように、私たちも、共に聖書に聞き、霊なるお方であるイエス様と出会ってゆきましょう。イエス様は私たちに「恐れるな」と語りかけて下さり、恐れを喜びの出来事、すなわち滅びに至るこの命に新たな命、神によって与えられる永遠の命へと招いて下さるのです。

 

 

128日 説 教―             牧師 山中 臨在   

「ヨセフのクリスマス」マタイによる福音書1:1825                                                               

マリアと婚約中のヨセフは結婚に向けて期待を膨らませつつ暮らしていたところ、突然マリアが身ごもっていることが明らかになりました(18)。自分には身に覚えがないから明らかに自分の子ではありません。ヨセフは悩んだことでしょう。法律通りにすれば、婚約者以外の男の子どもを身ごもる女は死刑になりますが、マリアをそんな目に遭わすことはできません。結局、「正しい人」ヨセフがくだした決断は、マリアと密かに離縁するということでした。そうすれば、マリアとお腹の子どもの命は守られます。

苦しみを負うヨセフを神様は放っておかれませんでした。主の天使がヨセフに、マリアは聖霊によって身ごもっていること、その子は救い主インマヌエルであることを告げました。マリアが話していたことと同じです。ヨセフにはにわかには信じがたいことだったでしょうが、さんざん悩んだ挙句に彼は、「主が共におられるのだから」というメッセージをもらい、このお告げを受け入れる思いに導かれていきました。こうしてヨセフのクリスマスは始まりました。

 ヨセフのクリスマスは、主に従い主の福音宣教の使命を担う道へと導かれた、彼の人生にとって大切な出来事でした。そしてここにクリスマスの意義があります。クリスマスは神様からあなたへの使命が改めて語りかけられそれを改めて確認する時であります。神様は、私たちを必要とされています。神様は御自分の計画を、自分勝手にどんどん進める方ではなく、救い主をこの世に送るという神様にとっても大きな決心を、ヨセフの手に託したのです。ヨセフが神様からの召しを受け入れなければ、この救いの計画は前進しませんでした。そして神様はヨセフだけではなく、あなたにも福音宣教を担ってほしいと願っておられます。主が共におられる、ということは、私の人生に神がいつも共にいてくれるから安心だ、ということの他に、主が共にいるから主のわざをあなたも担ってくれ、というもっと強い意味があることを私たちは忘れてはなりません。私たちはもしかしたら、主のわざを担うなんて、自分には無理だと思うかもしれません。ある時は謙遜からそう思うかもしれないし、ある時はやりたくないからそう思うかもしれないし、またある時は自分には理解できないことだからそう思うかもしれません。しかしあなたがどんな人であっても神様は「その」あなたを必要としておられます。ヨセフもマリアもいわばごく普通の人で、とてもこんなややこしく苦しい召しを受けられるとは自他共に思っていなかったことでしょう、しかし神様はそんな彼らに神様のご用を託されたのです。

ヨセフのクリスマスは、主に従い主のわざを担う決心に導かれた時でした。あなたは何を担いますか。主はあなたに何を期待されているでしょうか。みことばに聞き祈りながら主の語りかけに聞いていきましょう。インマヌエルの主はあなたを決して一人ぼっちに放っておかれません。

 

 

121日 説教 ―        牧師 山中 臨在

「マリアのクリスマス」  ルカによる福音1:2638

神様との出会いは「私の」思いや、「私の」握り締めているものを手放すようにと迫られることでもあります。そしてそれは当座は喜ばしいことと思われず、私たちは悩みます。しかしその時に、私たちはどうするか、何を自分の頼りとするか、と聖書は問うています。ルカ書が描く、天使に会った二人の人物、ザカリアとマリアの姿勢は対照的です。子供のいない老夫婦のザカリアとエリサベト夫婦に天使が「あなたがたに男の子が生まれる」と告げました。マリアは、婚約中でまだ結婚していない処女でしたが、天使は彼女に「あなたは聖霊によって身ごもって男の子を生む」と告げました。どちらも、人間の常識ではありえないことでした。マリアにとっては、婚約者ヨセフの子ではない子どもを身ごもることは、法律によって石打ちの刑にあうことを意味します。とても喜んで受け入れる状況ではありません。驚くべき告知を受けた彼らの応答はどうだったでしょうか。ザカリアは即座に「とても信じられないから、それが本当だという証拠を見せてほしい」と応答し、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」(34)と応答しました。マリアの応答は、戸惑う中にも、主の計画にゆだね、その計画がどのように進んでいくのかどこか期待していることでもあります。

 私たちは、にわかに信じることの出来ない神様からの知らせをどのように受け止めているでしょう。ザカリアのように、自分が理解できるように説明を求めるでしょうか、それともマリアのように、わからないけれど、神様が自分に何をなさろうとしているのか、委ねていこうとしているでしょうか。

 ザカリアは天使のお告げに対してすぐに口答えしましたが、マリアは「いったいこの挨拶は何のことかと考え込み」(29)ました。私たちは主の語りかけにすぐに自分の思いで口答えするのではなく、みことばをしばらく受け止めて思いをめぐらせなさい、と聖書が語っているのだと思います。マリアは神の言葉にゆだねたら恐れは喜びに変えられ、「神にできないことは何一つない」(37)ことを神様は示されました。

 ここに恵みとは何か、ということを知ることができます。恵みとは、それを受ける資格のない者に与えられるから恵みなのです。神様の救いの恵みは、自分の努力や修行によって勝ち取るのではなく、信じて受け入れる者に一方的に与えられるものです。恵みはマリアにもザカリアにも、人間側の条件に関係なく、神様から一方的に与えられました。それは「主があなたと共におられる」(28)から、希望を与える最善の道であり、間違いのない道であり、救いの道であることが約束されています。

私たちは主から、その恵みを分かち合う者としてのチャレンジが与えられています。神様のお告げをどう受け止めますか。神様は「私にできないことは何一つない」と今もあなたに語っているのではないでしょうか。