説教要旨

1230日 説教―               牧師 松村 誠一

               「日々喜んで歩もう」

旧約聖書“コヘレトの言葉”の著者は進歩的ギリシャ思想を身に着けたユダヤ人で豊かな経験をもった教養の高い知者であり、同時に敬虔な信仰の持ち主であると理解されています。ご承知の通り、この書で著者コヘレトは「なんという空しさ、なんという空しさ、全ては空しい」と嘆いております。この書が書かれた時代ですが、イスラエルの民はギリシャに支配されており、その支配に耐えていかなければならなかったのです。“コヘレトの言葉”はこのような社会の中で果たして生きていくということに意味はあるのか、人間の幸福とは何かを自らが問い、自らが応えていくという形で文章が綴られております。

コヘレトはこのような社会の中で、人間の幸福とは何かが最大の関心事だったのでしょう。著者はまず幸福に暮らすには、この世の知恵を求めることだということで、知恵を求めます。そしてそれを得た時、悩みも多くなることを悟るのです。それなら人生何を求めたら幸福になるか、様々なことを求めるのです。快楽を、富を、財産を求め、それを得るのですが、しかし自分自身の心の内を探ると、ただ空しさだけが心の内を占めていることに気付くのです。

 なぜ、空しい心は癒されないのでしょうか。その答が“コヘレトの言葉”に記されています。「神はすべてを時機にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。

それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。」(311節)人間には神が永遠を思う心を与えて下さり、この永遠を思う心が満たされない時に空しさを覚えるのです。そして空しさは人間に耐えることの出来ない力として働きかけてきます。この空しさは死に至る病であるがゆえに、人間は空しさを覚えることのないように本能的に努力をするのです。この努力はコヘレトの時代だけではなく、いつの時代でも人間は空しさを感じることのないように努力をし続けているのではないでしょうか。

昨年のハロウインの日、渋谷は大変な騒ぎでした。また、ゲームやギャンブルに夢中になっている人たち、朝まで飲み明かしている若者たちを見かけました。このようにこんにちの日本社会は虚無感を感じないようにみんなが努力している姿が、いろいろなかたちで表れてきているのだと思います。人間の虚無、空しさは、人間の努力では癒されるものではありません。コヘレトの著者が述べているように「神を畏れ、その戒めを守る」ことによって人間は空しさから解放され、与えられた人生を受け止めていくことが出来るのです。神を信じ、畏れ、従い、空しさから解放されて、日々喜んで歩んでゆきましょう。

            (コヘレトの言葉121214節)

 

1216日 説教―         牧師 松村 誠一

        「マリアの賛歌」

マリアに受胎が告知されるところが今朝の聖書箇所です。マリアは自分の身を通して神の業が実現することを受け入れ、神の助けを信じて歩み出します。この箇所からまず示されたことは、神の価値観はいつの時代においても、どこでも全く変わらず、貫き通されているということです。神はマリアをイエスの母として選ばれたのです。マリアは身分の低い、一人の女性にすぎませんでした。もう一つ示されたことは、マリアの「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう。」という言葉です。当時ローマ帝国に支配されていたイスラエル、そのイスラエルの中でも小さな村ナザレの出来事。そのナザレの村のいと小さきマリアが、いつの時代においても、幸いな者となど言える状況など、全くありませんでした。そのマリアがこんにち、世界中で、特にカトリックの世界ではイエス様の母マリアとしてあがめられているのではないでしょうか。それは、聖書は神の霊感によって書き記され、神の真実が述べられているからでしょう。神の真実はいつの時代においても真実であり続け、その真実によって歴史が刻まれていくからです。

マリアが主の霊に身を任せ、神の子イエスの、この世の到来について喜びをもって語っております。マリアは「主を崇めます」と語っています。主を崇めるということは自分が小さくなり、神の御前にへりくだるということであります。マリアがそのことを明らかにしております。「身分の低い」とは神との関係において身分の低い、主のはしためだと言っているのです。神によって示される自己認識で、ただの卑下ではありません。49節でありますが、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。」と。神の御前で低い者、はしためでしかない自分が、神に選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神の恵みの御業を担う者とされたのです。マリアはそこに自分の幸いを見ています。このことの故に、「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と言っているのです。この幸いを身に感じマリアは神を崇めているのです。そしてその幸いは、神の憐みによって与えられたもので、その神の憐みは、これまたブレることなく、主を畏れる者にはいつの時代においても、その幸いを神は与えてくださるのだと語っております。

今日、私たちは一つのことに注目をしたいと思います。マリアが自分の身を通して神の業が、御子イエスとして実現することを受け入れていった、そのマリアの決断です。そのマリアの決断によって私たちは救い主イエス様と出会い、そのイエス様によって救いへと招かれている、ということです。それ故に私たちも主を崇め、己を低くし、自分の全存在をもってイエス様が私たちの救い主であることを告白し、証しする者として歩んでいきたいと思います。そのことが私たちを本当に生かす喜びとなるのです。そして私たちも心から主を賛美したいと思います。

     (ルカによる福音書14656節)

 

 

129日 説教―               牧師 松村 誠一

                「メシア来臨の預言」

ミカ書が書かれた時代は、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代です。この時代は政治的にも、道徳・倫理的にも、宗教的にも堕落し、大変混乱した社会が作り出されておりました。

このような時代にミカは預言者として立てられるわけであります。預言者ミカは1章1節に記されておりますように、モレシュトの人、ミカと紹介されています。モレシュトとは、エルサレムの南西、ユダの丘陵地にある小さな農村です。ミカの研究者によりますよ、ミカは抑圧された農民の一人で、預言者として立てられると抑圧されている同胞のために、利益の追求を求める当時の支配者階級に対して恐れることなく、大胆に不正、悪を指摘し、神の言葉を語り続けた預言者だと紹介されています。51節から神からの語りかけ、という形をとって神の意志、計画が明らかにされています。

 今、イスラエルは大変な状況にある。氏族は離散し、あるいは捕えられ異国の地に連れていかれ苦しみの中にある。アッシリヤはますますイスラエルを痛めつけるであろう。そのような状況の中で、イスラエルを治める者が出る、いと小さきベツレヘムから治める者が出る。神がその者の出現を準備しているというのであります。イスラエルを治める者が出現する時について、ミカは次のように語り伝えております。「まことに、主は彼らを捨ておかれる。産婦が子を産むときまで。」であります。つまり、神はイスラエルの民を産婦が子を産む時まで、アッシリアの支配のもとに渡しておかれるというのです。メシアは時満ちて現れるのだ、と言っているのでありますが、比喩的に取らず、産婦とはマリアを指しているのだと理解することも出来るでしょう。神は必ずメシアを送り、イスラエルを救われる。しかしその時まではメシアの到来を待たなければならないのだと語りかけております。預言者ミカが語り伝えているメシアですが、権力、武力をもってイスラエルを治めるのではなく、羊の群れを養う羊飼いのような者であり、その働きは平和の実現であります。

これはイエス様が到来する750年前にミカによって語られものです。このメシア預言を聞いたイスラエルの民は、産婦が子を産むときまで、待つことになるわけであります。この間、イスラエルの民は、ただ黙って待っていたわけではありません。たとえば詩編884,5節ですが、「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは、御前に向かいます。主よ、なぜ私の魂を突き放し、なぜ御顔を私に隠しておられるのですか。」と。早く来て、助けてくださいとの叫び、祈りです。イスラエルの民は神がメシアを送ってくださる、という約束を預言者から聞き、その約束を信じ、メシアが到来することを祈り、叫び、待ち続けたのです。そして時満るに及んでイエス様がお生まれになったのです。待降節は、主の再臨を覚え、待ち望む時であります。私たちも時満に及びイエス様が再臨されるその時を“来たりませ主よ”と祈り願い待ち望みつつ、信仰生活を共にしてまいりましょう。 

              (ミカ書515節)

 

 

122日 説教―                 牧師 松村 誠一

            「目を覚ましていなさい」

 マタイ教団においてもイエス様が再び来られるのを今か、今かと待ち望んで過ごしていた人々がいたのでしょう。しかしイエス様は未だに来られない、という不安が押し寄せてきていたのでしょう。そこでマタイはイエス様が語られた十人のおとめのたとえ話をマタイ教団の人々に教えるために記しています。

 この十人のおとめのたとえ話ですが、花婿の到着が遅れたことが原因で、話しが展開されていることに注目しなければなりません。花婿とはイエス様のことです。イエス様の再臨の遅れによって起こってくる問題が指摘されています。10人のおとめたちは花嫁の友達でしょう。これから祝宴が始まる。花婿花嫁を囲みながら祝宴は一週間続くこともあるそうです。普段の生活から解放され祝宴に与ることが出来る、これは大きな喜びであるに違いありません。しかし花婿の到着が遅くなり、みんな眠り込んでしまっております。そして真夜中に花婿が到着したという知らせで皆、目を覚ますのですが、愚かな5人のおとめたちは、油を用意していなかったのです。油がなければ、ともしびには火は付かず、暗い道を歩いて祝宴会場までは行くことができません。ですから愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに、「油を分けてください」と頼むのですが、分けてもらえません。愚かなおとめたちは、油を買いにいかなくてはならず、その買いにいっている間に祝宴の扉は閉じられてしまい、祝宴会場には入ることが出来なくなってしまったというたとえ話です。

 さて油とはなんでしょうか。信仰と理解していいでしょう。イエス様の再臨を待っている、そのようなマタイ教団においては間もなく実現する神の国の到来を夢見て、希望に満ちた日々を過ごしていたのではないでしょうか。しかし、今日か、明日か、という緊張に満ちた日々が続く中で、待つことに疲れを覚えてしまった人もいたのでしょう。

 信仰とは、勿論イエス・キリストを救い主と信じることです。その信仰を頂くことにより、ヘブライ人の手紙11章に記されております通り、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。信仰とは神の命を頂き、イエス様が来てくださる、そして神の国が実現する。その希望を信仰の故に確信することが出来るのです。

イエス様の再臨を待ち望みつつ日々過ごすことによってその人の人生に意味が与えられ、使命が与えられ、希望が与えられるのです。たとえ話の愚かなおとめたちは賢いおとめたちから油を分けて貰えず、宴会場には入れませんでした。信仰は代理が効かないのです。私たちもそのことをしっかりと受け止め、目を覚ましていなければならないのです。目を覚ましていなさい、とはいつも緊張をもつて再臨をまだかと待ち望むのではなく、いつその時が来も、たとえ、その時が自分のこの世の命の終わり時であっても、感謝して受け入れていくいき方でしょう。

             (マタイによる福音書25113節)