説教記録12月

1231日 説 教―                  村中 範光 師

               「思い悩むな」

今年2017年を振り返ってみると、衆院選での自民党の圧勝、政治家の不祥事、アメリカトランプ大統領当選、人命を軽んじる殺人事件等悩みの種となる要素が多くありました。明るい話題といえば、個人的にはカズオ・イシグロ氏のノーベル文学賞受賞がありましたが。さて、教会では、クリスマスでの堀口貴久江さんのバプテスマ、朝長さゆみさんの結婚式、二人の女児誕生、3つの特別伝道集会(テキサス伝道隊、加藤英明恵泉中高校校長、金丸真牧師をお迎えして)、新しい椅子の導入と嬉しい出来事が続きました。

明日から始まる新しい年を迎えるにあたってどうしても将来への悩みの種のことを思ってしまい、日々「思い悩む」ことが多くなるでしょう。「思い悩む」ことについて今日の聖書の個所で、イエス様がお語りになっています。とても興味深いのはイエス様の時代にも現代の私達と同じような「何を食べようか」「何を着ようか」「何を飲もうか」といった「思い悩み」があったことです。現代の様な、複雑で、情報が溢れていて、選択の幅が多岐にわたる時代に様々に思い悩むのは何となく理解できますが、2千年以上も前に人々はやはりさまざまに思い悩んでいたのです。

イエス様は「思い悩むな」と語られます。天の父は私達の必要とするものを全て知っておられるからです(32節)。神が知っておられるから安心して、すべてを主の御心として受け止め、神に全てを委ねなさいと語ってくださっています。

全てが神の御心と受け止め、神にゆだねると頭でわかっていても現実に、親しい人を突然に失ったとき、12月に親しい友人、千葉バプテスト教会の矢野先生を失ったとき、なかなか素直にそうとは受け止めきれない自分の信仰の薄さにごく最近気が付かされました。矢野先生は今神の身元で永遠の安らぎを得ていると思っても、どうして素直には神の御心と受け止めきれず、ヨブのように「どうしてなのですか?」「どうして彼が今なのですか?」と神に問い続けてしまいました。やっと受け止められるようになったのは、奥様の由美さんと教会の方たちと葬儀後2日目の礼拝後にお話しができたからですし、また必死に祈ってからでした。

新しい年を迎えても私達はさまざまに思い悩むと思います。自分とかかわりのあるごく身近な不幸な出来事には素直に納得できず、神の御心だとすぐには思えないときがあるでしょう。でも私達にイエス様は「思い悩まなくていい」と語りかけて下さいます。イエス様は「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ 1128)」とお語りになっています。「思い悩んでも重荷と思わなくていい、休ませてあげよう」と私達に語り掛けて下さるこのことばを大事にしましょう。思い悩んでも神は必ず受け入れる心を整えて下さり、究極の安らぎを与えて下さるのです。

          (マタイによる福音書62534

 

1224日 説 教―       牧師 松村 誠一

    「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」

御子イエス様はユダヤのベツレヘムの町で飼い葉桶の中でお生まれになりました。ルカによる福音書は、なぜ飼い葉桶の中で生まれたのかを記しています。それは宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。ルカによる福音書の記者は、まことに的確にイエス様の生涯を描き出しておりますが、イエス様はその誕生から人々に見捨てられていたのです。そのイエス様の降誕のメッセージを一番最初に告げ知らされたのが羊飼いたちでした。なんとなく牧歌的な、麗しい光景を想像するのでありますが、そうではなく、そこにはルカが伝えなければならない、大切なメッセージが語られているのです。羊飼い、当時のイスラエルでは社会的地位もない、自分たちの定住の住まいもない、毎日生きることで精一杯で律法を守ろうとしても守ることも出来なかった。そして羊飼いたちも、自分たちは律法を守れない、自分たちは本当に罪深い存在であることを良く知っていた人々でした。そういう羊飼いたちに、神はあなた方のために救い主がお生まれになった、ということを告げ知らせたのです。羊飼いこそ、救い主イエス様を一番必要としていた人々であり、その羊飼いたちを神は一方的に、御子イエス様の降誕の場へと導き、祝福して下さったのです。

聖書は神の祝福と選びについて語り伝えていますが、その神の祝福と選びの基準はどこを読んでも同じであることに気付かされます。イエス様はファリサイ派の人々に「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ53132)と語っています。そうです、罪人を招くためにこの世にお生まれになったのです。

 さて、私たちは自分の罪深さ、弱さ、醜さなどに悩む必要がない人間なのでしょうか。そうではありません。私たちこそ、救い主イエス様によって救われなければならない存在ではないでしょうか。私たちこそ、弱さをもっており、孤独であり、醜さをもっており、罪深い存在なのではないでしょうか。私たちも羊飼いと同じ存在なのではないでしょうか。イエス様降誕のメッセージは、そのような私たちに神の言葉として語りかけられているのです。

 羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、そして急いでイエス様のもとに駆けつけています。今日ルカによる福音書を通して神の語りかけを聞いた私たちも、救い主を受け入れて、その第一歩を歩み出すことが求められているのです。その一歩がイエス様を礼拝する者へと導かれ、永遠の命を頂き、喜びと希望をもって日々歩む者とされていくのです。  (ルカによる福音書2814節)

 

 

1217日 説 教―        牧師 松村 誠一

      「見よ、わたしは使者を送る」

 マラキ書は紀元前およそ440年頃に記された書とされています。この時代は捕囚の民となっていたイスラエルの民は、ペルシャのクロス王に解放され、エルサレムに帰還し、かなりの時が経過した時代です。イスラエルの民はこのクロス王こそ油注がれた者として大いに期待をしたのです。エルサレムに帰還した捕囚の民は、預言者ハガイやゼカリアによって励まされ、エルサレムに留まっていた民と力を合わせ、破壊された神殿の再建に着手し、一応、紀元前515年に完成を見るのです。ところがペルシャ王国は捕囚の民の帰還、神殿の再建は許すものの、全くの自由は与えておりませんでした。クロス王こそ、油注がれた者として期待していたのでありますが、自分たちが望んでいたメシア像とは大きな違いがあり、多くの民の情熱は消え失せ、不平不満を抱くようになっていった時代です。信仰に生きることへの不満、そして適当に神を信じていればいいじゃないかという人々が出て来た時代です。そのようなイスラエルの民にマラキは主の言葉を語り告げます。

 「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」(マラキ書31) 主は使者を送る。当時においては使者とは預言者のことを言っていたのかも知れません。しかし、新約聖書を読む私たちは、バプテスマのヨハネのことを思い起すのではないでしょうか。そしてその使者によって道備えが出来た時に、主ご自身が到来し、世を精錬されるのだ、と語りかけています。そしてこの世を精錬される主の日に誰が耐えうるかと問うております。耐えうる者など誰もいないでしょう。しかし、次です。「彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。」と述べられています。イエス様の到来はこの世を裁くためではなく、精錬し、シミだらけの布をきれいにする、その灰汁の働きのために到来するのだと。まさにイエス様は私たちを罰して、滅ぼすのではなく、不純物をいっぱい含んでいる金を精錬し、純粋な金だけを集めるように、罪、悪を取り除き、聖なる者として下さるのです。

聖書には人類救済の歴史が記されています。その救済の歴史を振り返ってみる時に、神はメシア到来の前に使者を送り、その道を整えられる。そしてメシアが到来するというメッセージは深められ、最終ゴールである主の再臨へと進ん行っていることを明らかに見ることが出来るのはないでしょうか。私たちは今、歴史の最終章である主イエス様が再び来られることを待ち望む、その時を生きているのです。このことを確認してマラキ書を読むと、本当に多くのことを私たち語りかけてくれているのではないでしょうか。私たちは預言者が語るが主の来臨を旧約の民が待ち望んだように、私たちも主イエス様の再臨を待ち望まなければなりません。“私の使者”とは誰なのでしょうか。それは私たちキリスト者でなければならないのです。今、私たちマラキ書を聞く者は、主の再臨の道備えをする使者であることを自覚しなければならないのです。    (マラキ書315)

 

 

1210日 説教―        牧師 松村 誠一

        「供え物の雄羊」

 今朝の聖書の箇所はアブラハムがわが子、イサクを焼き尽く献げ物として献げる有名な聖書の箇所ですが、ご承知の通りアブラハムとサラの間には長い間には子どもが与えられませんでした。アブラハムもサラも、もう子どもは与えられないだろうと思っているところ、神は再度アブラハムに「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」と語りかけられます。アブラハムとサラは神の約束通り、待ちに待った子供イサクが与えられました。二人は本当に喜んだのです。しかしその喜びの只中にいたアブラハムに神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」という残酷な命令を下しております。神のこのような命令はアブラハムを試みるためなのですが、アブラハムにとっては残酷な命令であります。

 待ちに待って与えられた、我が子イサクを自らの手で殺すことなで出来ないことでしょう。またイサクを失うことは神の約束である子孫を増やすということもホゴにされてしまうことです。しかしアブラハムは神の命令に従いイサクを燔祭としてささげるため、”モリヤの山“へと向かい、そこでイサクをささげようとした時です。主の御使いからの声がアブラハムに語りかけられます。「『その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。』アブラハムは目を凝らして見回した。すると、うしろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。」(創世記221314節)

アブラハムは絶体絶命の時、独り子イサクの代わりに、雄羊が神によって備えられ、その雄羊を焼き尽くす献げ物としてささげることによって、この物語はハッピーエンドに終わっております。

この物語を通して聖書は、神は何を私たちに語りかけようとしているのでしょうか。この物語を通して訴えているのは、神ご自身がイサクの代わりに神への焼き尽くす献げ物を備えて下さったということです。うしろの木の茂みに一匹の雄羊とは、イエス・キリストを指し示しているのです。この雄羊が焼き尽くす献げ物としてささげられた場所は“モリヤの山”です。この“モリヤの山”とは歴代誌下31 に記されておりますようにエルサレム神殿が建てられた場所です。

イエス様はこのエルサレムで十字架刑が言い渡されたのです。私たちが今手にしている聖書は何千年もの期間の出来事が一冊にまとめられたものでありますが、このアブラハムとイサクの出来事から約数千年後に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書129)としてイエス様がお生まれになり、そして“供え物の雄羊”となってくださったのです。          (創世記22114節)

 

 

123日 説 教―        牧師 松村 誠一

       「主に望みをおいて」

このイザヤ書40章の時代は、イスラエルがバビロニヤによって滅ぼされ、イスラエルの多くの人々は遠くバビロニヤの地に捕えられ、そこで捕囚としての生活を強いられていた時代です。

 バビロニヤの地に捕囚として連れていかれたイスラエルの人々は、夢も希望も全く見出すことの出来ない暗黒の時代でした。イスラエルの民は「わたしの道は主に隠されている」と嘆いて日々過ごしていたのです。今朝の聖書の箇所わずか5節の短い箇所に“疲れる”という言葉が4回、そして“倦む”という言葉が2回出てきます。これが、当時のイスラエルの人々の現実だったのです。これほどまでにイスラエルの捕囚の民は倦み、疲れ果てていたのです。そのイスラエルの民に向かってイザヤは人間の目に見える現実はどうであれ、歴史を支配している神、その神を見よ、神の声に耳を傾けよ、その神の声に聞き従えと語るのです。いついかなる時代でも、どのような状況にあっても、神の声を聞く信仰を持て、「主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。」その神を今一度思い起こすべきであると、語るのです。そしてその神とは疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる神であると語りかけております。

 このイザヤの言葉は当時のイスラエルの民にとってまさに起死回生の福音だったのです。このイザヤの言葉によりイスラエルの民はどれだけ力を与えられ、勇気を与えられたことでしょうか。どれだけ希望と信仰とが与えられたでしょうか。イスラエルの民はこの言葉によって力が与えられ、勇気が与えられたのです。そしてこの暗黒という現実のかなたに光り輝いている、確かな光を見出し、その光を目指して歩み出したのです。その歩みとはバビロンから開放される歩みであり、自国イスラエルに帰ることでした。そしてその出来事はあのペルシャのクロス王によって実現されるのです。

 神の声を聞かず、神に従わず、己の力により頼んで歩むなら、30節に記されている通り、若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れてしまうのです。

 今日の日本においても全く同じであります。神を信じ、神により頼み、神の声に聞き従うならば、たとえ世の中の状況がどんなに暗くとも、その暗黒の中に確かな光を見出し、その光を目指して歩むことが出来るのです。今日からアドベントに入ります。私たちもイスラエルの民が暗黒の時代に、預言者が語る、暗黒を照らす真の光となるお方を待ち望めという言葉を信じ、奮い立ち、エルサレム帰還が実現したように、私たちも、主が再び来られる、その主の日の到来を信じ、信仰と希望をもって日々歩んでゆきたいと思います。

        (イザヤ書402731節)