2016年12月記録

 

1225日 説教―              牧師 松村 誠一

         「羊飼いと飼い葉桶のイエス様」

 今日は子どもたちと一緒の礼拝ですね。児童科の子どもたちに聞いてみましょう。イエス様の誕生の時、お祝いに誰が駆け付けたでしょうか。「羊飼い、博士たち、天使」。さすがですね、みなさん毎週日曜日、児童科で聖書を学んでいますからよく知っていますね。それではもう一つ質問をしますよ。イエス様はどこでお生まれになったでしょうか。「馬小屋」。その通りですね、ではなぜ馬小屋でお生まれになったのでしょうか。「そこしか生まれる場所がなかったから」。その通り、ヨセフさんもマリアさんも本当は馬小屋ではなく、きれいな場所でイエス様を産みたかったのでしょうね。ルカによる福音書を書いたルカさんはイエス様が生まれてから十字架にはりつけにされ、死んでいくまで「人に捨てられ」てしまうお方であることを知らせているのですね。

イエス様のお誕生日の知らせが、まず最初に羊飼いたちだったということはとても大切なことが語られているのです。羊飼いとは当時は信用できない人と言われていました。なぜならば自分たちの住んでいる住所をもっていなかったからなのですね。これは今でもそうですよ。ほとんどの人が自分の住んでいる住所をもっています。赤ちゃんが生まれますと、ちゃんといつどこで生まれました、と届けなくてはならないのですね。その届けをしないと、幼稚園にも、小学校にも、またお医者さんにもかかれなくなってしまうのですね。国からの大切なお知らせも決まった住所がないと届かないのですね。羊飼いは羊を世話するために、あっちに行ったり、こっちに行ったり、決まった住所など持てなかったのですね。だから昔のイスラエルの国でも住所をもっていない羊飼いたちを信用しなかったし、「あの人たちは罪人と同じで、付き合ってはいけません」と言われていたのですね。羊飼いたちも自分たちは普通の人とは違うのだ、自分たちは、ひっそりと羊の世話をしていなければならないのだと自分に言い聞かせ、毎日羊と一緒に野原で過ごしていたのですね。羊飼いたちは周りに親しい友達もいないし、親切に声をかけてくれる近所のおじさんも叔母さんもいなかったのです。ですからいつもとても淋しい思いをしていたのではないでしょうか。神様はそういう羊飼いの人たちに救い主イエス様のお誕生日を最初に知らせたのですね。神様は悲しんでいる人、寂しい思いをしている人、その人に悲しみから、寂しさから解放し、救い主イエス様と一緒にいることのできる喜びを与えてくれたのです。このことをルカは神からの大切なメッセージとして語り伝えているのです。

 私たちはどうでしょうか。私たちは救い主イエス様は必要ないのでしょうか。私たちは自分の罪深さ、弱さ、醜さなどで悩む必要がない人間なのでしょうか。そうではないと思います。私たちこそ、救い主イエス様によって救われなければならない存在なのではないでしょうか。私たちこそ、羊飼いと同じ存在なのではないでしょうか。イエス様降誕のメッセージは、そのような私たちに神の言葉として語りかけられているのであります。羊飼いたちは、「『さあ、ベツレヘムに行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。」と聖書に記されていますが、神の語りかけを聞いた私たちも、イエス様の出会いを求めてその第一歩を歩み出すことが求められているのです。その一歩がイエス様と出会いとなるのです。

                (ルカによる福音書2820節)

 

 

1218日 説教―              牧師 松村 誠一

     「葦を折ることなく、灯心を消すことなく」

 イザヤ書4055章は“第2イザヤ”と呼ばれ、預言者イザヤの後継者として紀元前6世紀後半に活躍した預言者によるものと理解されています。

 第2イザヤの言葉を聞かなかったユダヤの民は、アッシリアに代わり世界を支配していたバビロニヤに滅ぼされます。紀元前587年であります。ユダの主だった人々は捕虜としてバビロニヤに連れて行かれ、異国の地での生活を余儀なくされます。ユダの民にとり、自国が滅ぼされ、神殿が壊され、そしてバビロニヤでの生活は、民族の滅亡に等しい出来事でした。ユダの民は今朝の聖書の箇所に記されておりますように、傷ついた葦のようであり、また間もなく消え入りそうなローソクの炎のような状態だったのです。

 葦はヨルダン川の岸辺に生えている竹のような植物で、いろいろな日用品が作られておりました。葦で物を作る職人は川辺に入り、雑草のように生えている葦を踏みつけ、いい葦だけを見つけては切り出して製品にしておりました。 傷ついた葦や、枯れている葦は足で踏みつけられ、折られ、焼かれてしまう運命でしかなかったのです。バビロンに連れ去られたユダの民もこの傷ついた葦のようだったのです。またユダの民はそのローソクが燃え尽きてしまいそうな状態だったのです。そのようなユダの民に、イザヤは神から霊感を受けて、次のように語りかけたのです。「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザヤ書4234) 神が遣わす僕は、イスラエルの民をやさしくいたわり、包み込んで下さる。その僕を神自ら選び、その働きのために遣わすと。捕囚の民はこのイザヤの言葉に慰めが与えられ、絶望のどん底からひとすじの光を見出し、神が遣わす僕の到来を待ち望む民へと変えられていったのです。

 傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことのないユダの民の本当の僕は、イザヤのこの預言の時代から約500年後に全人類の僕、救い主として、イエス様がこの世に登場してくるのです。

イスラエルの歴史は、全人類の救いを指し示す歴史であり、その歴史は繰り返しながら、完成へと進んでいっています。一人のみどりごから始まる人類を救済するメシアの輪郭、その輪郭が歴史の中で徐々に明確にされて行き、そしてイエス様としてこの世に登場されるのであります。

傷つき、弱い者、この世から切り捨てられてしまう者をやさしく労り、我に来よ、と招いて下さるお方、イエス様がいらっしゃる。そのイエス様の存在を知らされている私たちは、何と幸いな者ではないでしょうか。私たちは弱い者であり、その弱い者をそのまま受け入れて下さるイエス様に感謝すると共に、私たちの中にも、弱い者を踏みつける、そのような者であることを知らせて下さっているのです。歴史に介入し、歴史を完成へと導いておられる神の言葉に耳を傾け、今こそ神の言葉に突き動かされていかなければならいないのであります。

                (イザヤ書4214節)

  

 

1211日 説教―  ガイ・ビショップ先生

                               (要約:松村誠一)

              「目標を目指して」

 「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙313,14)

 今日はシオン・クリスチャン国際学校の校長、ガイ・ビショップ先生がメッセージを取り次いでくださいました。ガイ先生は25歳の時に来日して間もなく山谷に移り住み”山谷伝道“を始めます。またその地区で英語の先生としても用いられるようになります。この山谷伝道や英語教師の働きを通して多くの方々の出会いの中から日本語と英語を共通語とした”シオン・クリスチャン国際学校“を設立し、校長先生として働かれている先生です。が語って下さいましたメッセージの要約を以下に記します。

 私たちには過去があり、現在があり、また未来があります。私は25歳の時に日本に来ました。そして大泉教会の教会員になりました。その時の頃のですが、教会の青年たちと一緒にスキーに行った時のことを良く思い出します。その時の大泉の牧師だった松村先生は、初心者の私に大変厳しく、「ガイさん、早く降りて来なさい。」と命令しました。私はうまく滑ることが出来ず、とても怖い経験をしました。でも、そのような経験があったから、今ではスキーはとても楽しいスポーツですし、またスキーに行って楽しく滑りたいという希望が与えられています。私たちの過去の経験は、ただ苦しかったとか、楽しかったということに留まるなら、その過去は何の意味もないでしょう。楽しかった経験は、その経験できたことを感謝すると共に、さらにより良い未来へと歩んで行く力にしていかなければならないのです。神様は私たちをより良い未来へと導いて下さるお方なのです。

 今私たちは救い主イエス様の降誕をお祝いする時を迎えています。イエス様はこの世に誕生され、そして十字架へと歩んで行かれました。今は十字架の死を乗り越えて、復活して神様のみもとにいらっしゃいます。このクリスマスを迎える時期に私たちは過去を振り返る時を持つことは大変良いことです。しかしそこに留まってはいけません。前進し続けましょう。イエス様は私たちの誕生から私たちの手を取って生涯を一緒に歩んでくださるのです。そしてこの地上が終わりではなく、私たちの本国である天を目指して歩んでまいりましょう。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」

(フィリピ320,21)これが私たちの目指す最終目標です。

          (フィリピの信徒への手紙31216)

 

 

124日 説教 ―        牧師 松村 誠一

     「闇の中に輝く大いなる光」

イザヤが預言者として立てられたのは“シリア・エフライム戦争”の時代です。アッシリアはこの”シリア・エフライム戦争“を機に、シリアを前732年に、エフライムを前721年に滅ぼしてしまいます。また南ユダは存続していましたが、国の主権は完全にアッシリアに握られてしまっておりました。預言者として立てられたイザヤは”シリア・エフライム戦争“のさなかに北王国の滅亡を、またユダの国も困難な時代を迎えることを語り告げています。そしてさらに困難を解決する新しい王が到来することを預言し、その王によって困難は乗り越え、神の平和の訪れを語り伝えています。

今朝の聖書の箇所をみて見ましょう。1節ですが、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」と。ユダの民はアハズ王によってアッシリアの宗教習慣を強要され、またアッシリアによって民衆は痛みつけられ、まさに暗黒の時代でした。しかし、イザヤはその暗闇から大いなる光が輝き出ることを示されるのです。その時、農民が収穫時に喜びをもって農作物を収穫した、あの喜びが再び到来するのだと。また士師の時代イスラエルは士師として立てられたギデオンによってミディアン人と闘い、勝利したように、再び勝利の時が備えられているのだと。その勝利をもたらす王についてイザヤは民に語りかけます。その王とはこれから生まれるであろう、「ひとりのみどりご」である。そのみどり子は、必ず生まれるのだ、という確信が与えられたがゆえに、「ひとりにみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりに男の子がわたしたちに与えられた。」と語り告げております。そしてその名は「驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君」と唱えられる、と。この王こそ、真の平和を築き、イスラエルを復興させる王なのだと。イザヤのこの預言のあと、この王がどのような人物であるかが深められていくと共に、このイスラエルを救う王をすべての民が待ち望むことになっていくのです。

そしてこの預言から何と700年後にイエス様の誕生によって、預言の成就を見ることになるのです。

イスラエルの歴史は単なるイスラエルというこの地上の歴史ではなく、人類救済の歴史であり、その歴史も長い歴史の中で深められていっております。その歴史を見る時に、歴史は神によって持ち運ばれていっていることに気付かされます。

イエス様は救い主として時代の中で待望され、時代の中でこの世に到来し、そしてその使命を果たされました。今や霊なるお方として、私たちの救い主として私たちに係わってくださっているのです。そのイエス様は再びこの世に来られることを告げています。終末です。この終末も歴史を司る神によってすでに備えられているのです。待降節を過ごす私たちはクリスマスを待ち望むと共に「来たりませ主よ」と、イエス様の再臨を待ち望む群れとしてこの世を共に歩んでゆきたいと思います。

       (イザヤ書916節)