2015年12月説教記録

―12月27日説教―       牧師 松村誠一

 「主の来臨の約束」

“ペトロの手紙”は紀元100年を過ぎた頃に書かれた手紙であって、使徒ペトロの名前によって書かれた手紙であると言われております。なぜペトロの名前によって書かれたのか。それはどうしても当時の教会に属する全ての人に語り伝えなければならない重要な事柄があったからです。その重要な事柄の一つは「主の来臨の約束」です。ペトロをはじめイエス様の弟子たちの時代、そしてパウロの時代、キリスト教会は、自分たちが生きている間にイエス様の再臨はあると信じていました。ところが10年経ち、20年経ち、パウロも天に召され、次々にキリスト者が召されて行くのです。そういう時、偽教師が教会に入り込んで来て、キリストの来臨の教えなど大嘘だと言ってキリスト教徒に大打撃を与えたのです。偽教師たちは主の約束などあり得ない。この世界は今も昔も、そしてこれからも変わるわけはない。初代のキリスト教徒たちはキリストの再臨を待ち望んでいたが、再臨などなく、哀れに死んで行ったではないか、と言って当時のキリスト教徒たちを惑わし、異端へと導こうとしていたのです。

そこで、当時の教会の指導者は教会員に対して「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」と、まず時間の捉え方、考え方について語ります。そしてさらに主の来臨の遅延の理由を明らかにしております。それは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(9節)と。

さて、今日、私たちは主の来臨をどのように理解し、受けとめたらいいのでしょうか。“ペトロの手紙”が書かれてから二千年にもなる今日、未だ主の来臨はありません。主の来臨など無いのでしょうか。あるいはこのような不穏な世界情勢、火山活動が活発化し、大地震が起こり、また気候の変動の激しい今日、間もなく主は来臨するのでしょうか。

主の来臨は徹底的に神に属しており、人間が判断したり、それに少しでも介入することが赦されないのであります。そして聖書はいつ主の来臨が来るか、そのいつ来るかに関心を持つのではなく、いかに生きるかが大切な事柄であり、そのいかに生きるかを明確に私たちに示してくれています。イエス様はおっしゃいました。目をさましていなさい、、、。目を覚ましているとは、キリストの体なる教会に連なり、共に御言葉に聞き、何が神の御心であるか、何が善いことであり、また完全なことであるかをわきまえ、日々過ごすことでしょう。また与えられている賜物をささげで、福音宣教に参与していくことでしょう。

間もなく新しい年を迎えますが、新しい年も、キリストの体なる教会で主の言葉を共に聞き、キリスト者としていかに生きるべきかを主に尋ね求めつつ歩んでまいりたいと思います。

     (ペトロの手紙二 3813節)

 

 

―12月24日 説教―         牧師 松村誠一

             「占星術の学者たち」

 イエス様のご降誕を皆さまとご一緒にお祝いできますこと感謝申し上げます。

今晩はその最初のクリスマスの時、お祝いに駆け付けた占星術の学者たちについてご一緒にみてまいりたいと思います。この占星術の学者たちが東の方からエルサレムにやって来ております。この時代はメシア待望の気運はユダヤ民族にとどまらず、ユダヤ周辺諸国でもメシアを待ち望む気運が満ちていたそうであります。この占星術の学者たちもこのようなうわさを耳にし、メシアを待望していたのではないでしょうか。

そしてそういう人々に神様は一つのしるしをお与えになりました。それは特別な星によってであります。この星についてはハレーすい星だとか、あるいは土星とか木星ではないか、いやシリウスだとか、いろいろな人が星の運行を過去にさかのぼり推測しておりますが、いずれにいたしましても占星術の学者たちは不思議な力に導かれてエルサレムまで、ユダヤの王の誕生という噂を耳にしてやって来たのです。そしてベツレヘムまで行き、御子イエス様に会い、拝み、黄金,乳香、没薬を贈り物として捧げた、と聖書に記されております。

占星術の学者たちはユダヤ人ではありません。外国人であります。外国人がまず御子イエス様の誕生をお祝いしに来たというこのマタイによる福音書の記述は、実に大きな真理を語っているのではないでしょうか。そしてこれから起こるであろう歴史がここに凝縮して預言的に語られているのです。パウロもローマの信徒への手紙の中でも救いはユダヤ人から異邦人、つまり外国人にわたり、そして再びユダヤ人にまで及ぶのだと、語っております。マタイによる福音書においても主イエス様は、その降誕の時からユダヤ人のための救い主だけではなく全ての人々の救い主である、そのことが告げられているのです。

学者たちは黄金、乳香、没薬を御子イエス様に捧げたと記されています。これらのものはもともと学者たちの商売道具であったということが聖書学者によって指摘されています。つまり、星を占ったり、宗教的行事に使っていたもので、自分たちの生活の基盤、自分たちがよりどころとしていたもの、それらのものを御子イエス様に捧げたのです。

著者のマタイはこのような記述によって自分たちの現在の在り方を捨て去り、御子イエス様に自分を明け渡すという行為であることを訴えているのではないでしょうか

 クリスマスをお祝いする私たちも東方の占星術の学者のように本当に自分を生かしめるお方、御子イエス様を探し求め続けていきたいと思います。そしてイエス様と出会い、今まで自分が拠り所していたもを明け渡し、それから解放され、最も自分らしく、喜びに満ちた人生へと歩み続けてゆきたいと思います。    

         (マタイによる福音書2112節)

 

 

1220日説教―           村中 範光 師

           「救い主誕生のお知らせ」 

クリスマスは本来「救い主、イエス様」の誕生をお祝いする大きな喜びの出来事です。「クリスマス」とはキリストを讃え崇めるミサの意味なのです。巷でのサンタさんとか、プレゼントとか、パーティとかは商業主義的から発展してきたものでクリスマスの中心ではありません。本当のクリスマスは教会で、救い主、イエス様誕生を讃美歌、祈り、そしてメッセージで分かち合うものです。私達が救い主の誕生、クリスマスを心から喜び、感謝するのは、神様の御心が私達の救いにあるからなのです。

イエス様ご自身がお語りになっておられます。「独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである(ヨハネ福音書 316)。」イエス様はその父なる神の御心に忠実にこの世で救いをお示し下さいました。救いについてもイエス様ご自身こう語っておられます。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ福音書 1128)。」

私達は生きている限り、様々な重荷を負って生きています。病気、仕事、人間関係、環境の悪化、将来への不安等々数えるときりがないくらいです。現代では、これらの重荷から解放する方法はたくさんあります。色々なヒーリングやテラピー、発達した医療技術、カウンセリング、など確かに重荷から解放される手立ては多くあります。でも人間の技術には限界があり、猛威を振るう自然にはまだ有効な対抗策がみつかっていません。でもいたずらに不安の中で生きる必要はありません。

イエス様による救い、癒しは変わらぬ心の平安を約束して下さっています。福音書ではイエス様に救いを求めた人は、無条件でその重荷から解放されました。ハンセン病や悪霊にとりつかれた人々は癒され、死からの復活、孤独からの解放と救い主イエス様に救いを求めると必ず救いが与えられます。救われた人々は重荷から解放され、変わらぬ心の平安と生きる希望を得、元気に新しい歩みを始める事が出来ました。彼らにはイエス様による救いが心に刻まれているのです。もうどんな状況になってもイエス様の救いが必ず届くことを確信しているのです。イエス様は救いを求めるとき、必ず救いの手を差し伸べて下さいます。

救い主誕生の予言を信じ待ち望んでいた羊飼いたちに神のみ使いは大きな喜び、福音、良き知らせ、を知らせくれました。待ち望んでいただけにその喜びと感謝の気持ちは大きく、すぐにイエス様の所に駆け付けました。

もう待つ事は無いのです。神様が約束して下さった救い主は誕生されたのです。彼らはその救い主誕生の喜びを人々に伝え始めました。イエス様を救い主として受け入れた私達とイエス様はいつも一緒にいて下さいます。まさに「インマヌエル(神我らと共に)」なのです。改めて私達の救い主イエス様の誕生の喜びを多くに人たちと分かち合いましょう。

          (ルカによる福音書 28 ~ 20

 

 

1213日説教―             牧師 松村 誠一

          「ヘロデ王と祭司長たち」 

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。」(マタイ21)と記されています。このヘロデ王とはヘロデ大王でローマの庇護のもとではありましたが、ユダヤ人の王として君臨していた人物です。ヘロデは生粋のユダヤ人ではないにもかかわらず長きにわたりユダヤの王位に留まれたのは彼の政治的手腕によるものでした。ヘロデは経済的にも国を安定し、ユダヤ人からも表面上は王として認められていました。そういう時にヘロデはユダヤ人の王が生まれたという噂を聞くのです。この噂を耳にしたヘロデ王は、「不安を抱いた」のです。このヘロデ王の不安はよく理解出来るのではないでしょうか。しかし次です。「エルサレムの人々も皆、同様であった。」のです。メシアを待望していた彼らは、なぜ、不安を抱いたのでしょうか。聖書はそのことについては何も語っておりません。しかし次のように想像することが出来るのではないでしょうか。イスラエルはローマ帝国に支配されているが、宗教も認めてくれている。最近は政治も安定しているし、ヘロデ王もローマ帝国とうまくやっている。この現状が維持できればいいのではないか。新しい王が現れ、また混乱した情勢の中で苦しい生活が強いられるのはとてもかなわない、という思いによるものではないでしょうか。ヘロデもエルサレムの人々も、今までの生活を続ける上で新しい王の到来は邪魔となるからではないでしょうか。そのような不安の中にこのヘロデ王もエルサレムの人々もいたのではないでしょうか。

 新しい王が生まれた噂を聞いたもう一つのグループの反応を見て見たいと思います。 祭司長たちや律法学者たちは、ヘロデ王の「メシアはどこに生まれることになっているのか」その問いに対して彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」と、預言者の預言の言葉を紹介しています。祭司長も律法学者も当時の宗教的指導者です。ヘロデ王の質問に対しても、旧約聖書ミカ書を引用してすぐに答えることが出来た優れた人々です。彼らは聖書の知識を駆使して、たちどころに王の誕生の場所を告げることが出来たのでありますが、自らは御子イエス様の誕生の場所には行こうとしなかったのです。祭司長たちや律法学者たちは知識もあったでしょう。しかし彼らには行動がありませんでした。彼らは自分たちの、ものの考え方、自分たちの常識で神を理解し、つまり、自分たち自身で神を作り上げ、その神を神としていたのです。それは最後の最後まで変わりませんでした。彼らの神理解が、イエス様を十字架へと追いやっていったのです。

私たちはクリスマスを前にして、イエス様の降誕のニュースをどのように聞き、受け入れているのでしょうか。 私たちは占星術の学者たちのようにイエス様との出会いを求める者でありたいと思います。私たちはいつも求道者であり続ける時に、確かにイエス様との出会いがあるのです。

      (マタイによる福音書2110節)

 

 

―12月6日説教―           牧師 松村 誠一

            「主は王となられる」

南ユダの国はバビロンによって紀元前587年に滅ぼされ、ユダの民の主だった人々は捕囚としてバビロンに連れていかれます。その後バビロンはペルシャのキュロス王によって滅ぼされ、ユダの民はこのキュロスによって紀元前538年に故郷エルサレムへと帰還してきます。この捕囚の民は夢と希望を膨らましてエルサレムに帰還するのですが、エルサレムは荒れ放題。帰還した民の夢と希望はたちまち木端微塵に砕かれてしまうのです。彼らは捕囚の地バビロンでの生活を懐かしみ、エルサレムでの生活を嘆き悲しむ群れと化してしまうのです。そして彼らは主に「奮い立て,奮い立て、力をまとえ、主の御腕よ。奮い立て、代々とこしえに、遠い昔の日々のように」(519)と主に対する憤りの言葉を投げかけるのです。 

イザヤはそのような民に神からの言葉を語りかけます。「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ」(521)と。この言葉は帰還した捕囚の民の神をバカにした言葉であり、憤りの言葉です。主はその民に怒りをあらわすことなく、慰めの言葉として語りかけるのです。今、あなたたちは、力を出し、奮い立ちなさい。主が捕らわれの身から解放し、あなたたちは再び神の名を知り、神との交わりを持つことが出来るのだと。

そして7節から再び神自ら関係作りが行われることがバビロンの捕囚の民全体に伝えられていくことが語られています。伝令が伝える内容は、主が王となったこと、主がシオンに帰えられることです。神の民が神を捨て、神を忘れ去る。これこそ神の民が犯す最大の罪でしょう。しかし、このような民一人一人を神は慰め、我が民とされるのです。これらは既に起こったこととして完了形で書かれています。このイザヤの預言は主によって確実に行われる、という確信によってこれから起こるであろう出来事をすでに起こった出来事として語り伝えているのです。そしてこの預言の言葉は御子イエス様の誕生によって成就するのです。イエス様によって神がこの歴史に介入され、具体的に慰め、イエス様を信じる群れを“我が民”として下さるのです。

この箇所を読んでおりまして、神の民であるイスラエルは、預言者を通して神の言葉を聞き、神の出来事を目の当たりにしながら、良くも、神に逆らい、神を忘れることが出来るか、という事です。しかしそのような思いの中から示されたことは、このイスラエルの民の不信仰は、私たちのことでもあるということです。イエス様は、不信仰、弱さのゆえに裏切りを繰り返し、繰り返し行っている私たちに、「奮い立て、奮い立て」と励まし、慰め、信仰へと導いてくださっているのです。

間もなくクリスマス。私たちの救い主イエス様の降誕を多くの方に伝え、共にクリスマスをお祝いしたいと思います。               (イザヤ書52110節)