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12月説教記録

1225日 説 教―               牧師 山中 臨在

「平和の計画」 マタイによる福音書2:1923

救い主の御誕生をお祝いする喜びの時であるクリスマスですが、実際のところは大変でした。遠くナザレから140キロほどの道のりをエルサレムまでたどり着き、十分な出産の設備もない中でどうにかこうにか生まれて来た赤ん坊のイエスは、落ち着く間もなく、独裁者ヘロデ王から逃れるために、遠くエジプトに逃げなければなりませんでした。馴染みのないエジプトに移って苦労しながらようやく新生活も落ち着いてきた頃、今度はヘロデ王が死んだからイスラエルに帰りなさい、と神様に告げられます。しかしヘロデの次にユダヤ地方を統治する彼の息子もまた残忍な支配者だったようです。

イエス・キリストは「平和の君」として来られたのに、生まれた早々から平和とはかけ離れた人生を歩むことになりました。自分の領土から、自分にとって不都合な邪魔者を排除しようとするヘロデ王のわがままが、人の命をないがしろにし平和を破壊することにヘロデは気づきません。私たちも同じように、自分に都合の悪いものを排除して自分の王国を築こうとしていないでしょうか。そんな私たちに、平和を作り出す愛とは、自分の領土(生活空間)にいる自分にとって不都合な人を引き受けることだと聖書は語っているのではないでしょうか。

そもそもイエスの存在は、ヨセフにとっては最初から厄介だったかもしれません。婚約者のマリアが身ごもったことはヨセフの社会的立場を危うくします。お腹の中の子どもとマリアと縁を切っていれば、ヨセフは面倒な人生を歩まなくてすんだはずです。しかしヨセフの愛は、そしてヨセフの信仰は、この「厄介な者」を引き受けました。そして彼らの命を守るために遠い異国に移る決心をし、苦労をいとわず、壊れそうなこの小さな命に寄り添ったのです。

平和の君イエス・キリストは、愛とは何かを身をもって私たちに示してくださいました。私たちの罪を全部背負って十字架にかかられたのです。罪びとの私たちに関わらないで彼の人生から私たちを排除すれば、苦労することはなかったのです。でも主は私たちを見捨てず引き受けてくださいました。それが主が示してくださった愛です。それほどまでに私たちは主から愛されています。

愛すること、平和を作り出すことはしんどいし難しいです。だからこそイエス・キリストが、インマヌエル(神われらと共にいます)の神として、生まれてくださいました。「あなたがしんどい時に私がいつもあなたと共にいることを忘れないで」と伝えておられるのがクリスマスの意義です。

ヨセフとマリアはどんな時にもイエスと共に歩みました。神様はわたしたちに、将来と希望を与える平和の計画を与えると約束されました。それは主イエスと共に歩む歩みです。自分にとって面倒なイエスを切り離すことなく歩んだヨセフとマリアに平和の計画がなされました。イエスと歩むことは時としてしんどく、自分の生活が苦しいと思うこともあるかもしれませんが、それでもイエスと共に歩む人生に、神様は平和を与えると約束されています。

 

1218日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

         「平和の君」イザヤ書 9:46

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」という文章に、神様のみ旨が集約されています。みどりごとして、即ち人間として、主は来てくださいました。それは「わたしたちのため」でした。私たちと同じ目線に立ち、私たちの痛みも苦しみもまた喜びも分かち合いながら、私たちを救い出すために来られました。そして主が「与えられた」と記されているのは、このことが神様のご計画によるものであることを示しています。このイザヤ書が書かれて後、イスラエルはバビロン捕囚の苦しみの中、希望が見いだせない状況に陥ります。そんな中で希望を創り出すことができるのは神様だけです。

神様の希望を現わすために救い主が私たちに与えられました。その救い主は「平和の君」であり、その平和は絶えることがない、という約束は希望の言葉です。しかしこのイザヤの預言のあと、一体いつ平和が訪れたのでしょう。数千年にわたる人間の歴史は戦争の歴史といっても過言ではないくらい、争いが続いて来ました。現在も世界のあちこちで戦争が続いています。

平和と訳されている「シャローム」という言葉にはいろいろな意味がありますが、神様と正しい関係にあることがその根本にあることを覚えておかなければなりません。神様とのシャローム(罪の赦しと救いが与えられて神様と交わることができるという関係)がないところに、人とのシャロームもありません。人類が争いを繰り返し続けているのは、神様とのシャロームがない状態を続けているからです。私たちはまず神様の前に、自分を中心にしてしまっている罪を悔い改めなければなりません。

新生讃美歌329番「全能の神はいかずちも」はかつてのロシア帝国の国歌のメロディに、神様の平和を望む歌詞がつけられてできたものです。旧ロシア帝国の国歌は、全能の神様ではなく、ロシア帝国の権力や栄光をたたえていますが、今も多くの国の国歌は、この世の権力、自分たちの栄光を賛美し、神様が望まれるシャロームから遠ざかっています。恐らく多くの国や私たち一人一人が考える平和は、自分が安全で快適であるシャロームをイメージしているのです。言い換えるならばそれは「自分さえよければ他者はどうなっても構わない」ということになり、だから自国を護るために他国を武力で制圧しようとします。その結果、人間の思う「平和」と「平和」が衝突してしまうのです。しかし聖書は、まことの平和の君は軍事力に基づく力任せの平和ではなく、軍備をことごとく無にする平和をもたらす方であることを教えています。

「キリストは私たちの平和である」(エフェソ214)と聖書は語ります。私たちは平和論争を繰り広げる前に、このことを覚えておかなければなりません。平和の君であるイエス・キリストをまず私たちの真ん中におくことを、キリストの御誕生を待ち望むこの時に、改めて心に刻みたいと思います。

 

1211日 説 教―           牧師 山中 臨在

   「取扱い注意」 ルカによる福音書2:17

神様から私たちへの贈り物は、取り扱いに注意を要する壊れやすいものでした。それは、赤ちゃんです。赤ちゃんは、常に注意深くお世話をしてもらわなければなりません。自分では何もできないのです。臨月のマリアは遠い道のりを苦労しながら旅した挙句、宿がないため、衛生的とは言えない家畜小屋で出産しなければなりませんでした。母子共に命の危険もあったことでしょう。なぜ神様はそんな危うい中でこの赤ちゃんを地上に送られたのでしょう。それは、私たちを救うためです。神のみ子が私たちを救うためには、その赤ちゃんは私たちと同じように、泣き、笑い、苦しみ、食べ、眠り、痛む・・・そうでなければ私たちの心に触れることができないからです。それほどまでに神様は私たち愛しておられるのです。

 マリアとヨセフの孤独に同情するのですが、彼らには飼い葉桶を提供してくれた人がいたことが恵みでした。飼い葉桶は、動物たちの餌が入れられていて、動物たちに蹴飛ばされないように大切に保管されていました。取り扱い注意の赤ちゃんにとって、家畜小屋の中で一番安全な場所は、実は飼い葉桶なのです。その飼い葉桶を提供してくれた「誰か」がいたのです。ヨセフとマリアと御子イエスは、全くの孤独ではありませんでした。名前も知らないこの「誰か」の力を主は必要とされていたのです。

 主の力は偉大ですが、同時に壊れやすく、私たちが注意深く大切に支えていかなければならないものでもあるのです。「最も小さい者にしたのは私にしたことだ」とイエス様は言われました(マタイ2540)。まさにイエス様は最も脆く危うい状態の中で生まれて来られましたが、その脆く壊れそうな命を助けるべく「飼い葉桶」を提供してくれた誰かがいました。その「誰か」はあなたなのです。

 脆くて傷つきやすく壊れやすい尊い命が今、ないがしろにされています。世界のあちこちで命を傷つける戦争が行われています。「国連がその内解決してくれるだろう」「政治家たちが何とかしてくれるだろう」「誰かがなんとかしてくれるだろう」ではなく「あなたが」その命を救う人になるのです。教会にはたくさんの課題があります。建物の老朽化、これから先5年後10年後の教会の歩み、近隣への伝道・・・それも傷つきやすい命と大きくかかわる大切な事柄です。古くなった建物が地震で倒壊したらそこにいる私たちの命はどうなりますか? 私たちのすぐ近くにいる人々が傷つき苦しんでいる声に耳を傾けなくてどうやって福音宣教をしていくのでしょう? 「誰かがやってくれる」のではなく、「あなた」の働きが必要です。「そんな大きなことはできない」という私たちです。そうです、私たちにはできません。だから私たちは主の前にへりくだり、主の言葉にじっと聞く中で、主のわざが私たちを通してなされるように祈っていかなければなりません。あなたの働きを必要とされる主の招きに、あなたはどう応答しますか

 

124日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

「広がる話題」ルカによる福音書 1:5766

高齢の夫婦ザカリアとエリサベトに男の子が与えられ、その名をヨハネと名 付けよと主の天使が告げます。にわかには信じられなかったザカリアはその時 から口が利けなくなりますが、お告げ通りエリサベトは身ごもって男の子を産 みました。当時のユダヤの慣例に従ってその赤ちゃんに父親の名前が付けられ ようとした時、夫婦は天使が告げた通り「この子の名はヨハネ」と主張します。 するとザカリアは口が開いて、神を賛美しました。そしてこのことがユダヤの 山里中で話題となりました。口が利けるようになった途端、ザカリアが神を賛 美した、ということに驚きます。長い間しゃべれなかったことへの不平ではなく、彼は神様をほめたたえたのです。しゃべれない間、彼の心は神様に感動して賛美があふれていたのではないでしょうか。私はザカリアには黙ることの恵 みが与えられたのではないかと思うのです。あれもこれも言いたい、でも言え なくて不自由でしたが、しゃべれない内に、しゃべっている時には気づかなかった声、そして聞かなくてもよい他のことではなく、聞かなければならない大 切な声、すなわち主なる神様の語りかけに耳を傾けることができたのでしょう。 高齢の自分たち夫婦に子供が生まれるなんて常識では考えられないことを告げた主の言葉を何度も何度も思い返し、その子は主の前に偉大な人になると言 われたことに段々ワクワクするようになってきて、そして子どもが生まれた時、 ワクワクが信仰の確信と神賛美へと変えられました。ユダヤの習わしがどうで あろうと多数の人から反対されようと、主が語ってくださった「ヨハネ」という名前を子どもに付けることはザカリアの信仰告白だったことでしょう。そん な、通常あり得ないような状況の中でザカリアが神様に感謝し神様をほめたたえた、ということが人々の心を動かし話題が広がったのではないでしょうか。 この出来事には「主の力が及んでいた」とありますが、主の力が働くことは、 人々の間に広がっていくのだと改めて教えられます。

黙ることの恵みを私たちは受け止められるでしょうか。私たちはしゃべれるとなると、言わなくてもよいことをすぐに言ってしまいます。それはその分人 の話を聞かないということで、人の話を遮ったり、人を傷つける言葉を発して しまいます。自分がしゃべる前にまず神様に聞きなさい、そうすれば、人間の 思いを超えた神様の恵みを受け取り神様への賛美が心に広がることを聖書は 私たちに教えます。神様のご計画は、私たち人間の願いや常識と一致しないことが多く、時々私たちを戸惑わせます。しかし自分の思いではなく神様の御心 に思いを傾ければ傾けるほどその恵みの深さに気づき、やがてそれが感謝と喜びへと導かれます。

 神様が人を通しておこされる福音の業は、個人的でありながら、その共同体 にも恵みをもたらされます。私たちの教会でも主の恵みを分かち合い、主の話 題が広がっていくことを期待しましょう。