説教記録1月

130日 説 教―              牧師 山中 臨在

   「逃げろ!」  詩編26:212

  聖書は、避難所である神様の所に逃げろと言います。逃げるというと、否定 的な印象を持つかもしれませんが、私たちの力ではどうすることもできない事 柄が予期せずに起こった時、私たちは安全な避難所に逃げることが大切です。 それが神様のもとであり、そこに神様は必ず共にいて助けてくださることを聖 書は繰り返し語ります。

 神様が共にいてくださる根拠はイエス・キリストです。神様はイエス・キリ ストを通して御自身を顕されました。イエス様は神であり王であったのに貧し い家畜小屋で生まれ、人々と共に歩まれました。人々と共に飲み食いし、人々 の病をいやし、人々の痛みや悲しみを共に担われました。人々から見捨てられ たのに、自分はその人々を見捨てず、その人たちのために彼らの罪を背負って 十字架に命を捨てられ、三日目に復活して永遠の命の希望を与えられました。 それほどまでに神様は人を愛し、人と共におられることを示されたのです。神 様が私たちと共におられることはただの妄想や夢物語ではなく、現実なのです。

地震や火事などいざという時、私たちはお金、懐中電灯、スマホ、食料、衣 服、薬等を持って逃げるかもしれませんが、最も大切なものは、御言葉である ことを聖書は教えます。「神が御声を出されると、地は溶け去る」(7)と書か れています。共にいてくださる神様は言葉を発し、それによって人間の手には 到底負えないような事柄を収めてくださいます。私たちが困難に直面し世の中 が混乱しても、御言葉は滅びることなく(ルカ 2133)、私たちと共にいて私 たちを守り助ける最も安全な避難所であり続けるのです。神様のもとに逃げる、 というのは、御言葉を離さないことです。

「力を捨てよ」(11)」とはもともと「やめなさい」という意味です。神様は 私たちにあれこれやりなさいと言うのではなく、むしろあなたのすべてをやめ て、神を神としなさい、と言われるのです。これは礼拝のことを指しています。 私たちは日常のさまざまな出来事に心奪われ心揺らぎ、どうしようかとうろ たえます。苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる(2)神様をか やの外に追いやって、自分の力でどうにかしようとして頑張るけれど、そ れでもどうしようもなくなって右往左往します。「戦い、弓、槍、盾」(10) は人間の力や知恵を指し示すものです。でも主はそのようなものを圧倒し て滅ぼされるのです。人間の力をやめさせることを示すと同時に、神様が 人と共に歩まれる道が始まることを示しています。あなたのすべてをやめ て神様を見上げなさい、そこが最も安らげる避難所なのだと聖書は語りま す。そしてそれを知ることが礼拝なのです。だから私たちは礼拝します。 だから私たちにとって御言葉が最も大切なのです。

 私たちが苦難に直面し、不安に戸惑う時には、迷わず、神様のもとに逃げて ください。いつも御言葉から離れない人生を歩みましょう。

 

123日 説 教―               牧師 山中 臨在

  「うさぎとかめ」

 コリントの信徒への手紙()7:1724

うさぎと亀の話は、「自信過剰で油断していると大切なことを見失う、また 大きな能力がなくてもコツコツ地道に努力すると最終的には大きな成果が得 られる」といった教訓を伝える童話なのですが、ふと疑問に思います。亀はうさぎを追い越さなければいけないのでしょうか。そもそもなぜ亀はうさぎと競争することを承諾したのでしょう? 私が亀だったらこんな無茶なことはや らないと思います。それとも亀は、うさぎが途中で眠ってしまうことを予想していたのでしょうか? 実際うさぎは夜行性の動物で、昼間の半分以上は昼寝 をしているそうですが、もし亀がそれを計算に入れた上で勝負を承諾したのだ とすると、それはフェアな戦いとはいえません。うさぎはベストを尽くしてうさぎの目的地まで走ればよく、亀はベストを尽くして亀の目的地までゆっくり 歩いて行けばいいのではないでしょうか。

聖書は「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」と語ります。注意したいのは、「おのおの」と いう言葉です。私たちの信仰は、神様と自分との関係に基づいています。自分 と他人を見比べる社会生活や相対的な生活とは違うのです。人を見てうらやましがったりねたんだりする相対的な見方や思い煩いを捨てて、一人一人が「おのおの」のありようを考える生活を神様は求めておられます。うさぎにはうさぎの道があり、亀には亀の道があります。私たちは、神の道を求めて行かなければなりません。そしてその道はイエス・キリストです。ヨハネ 14:6 に「わ たしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父の もとに行くことができない」と記されています。私たちは神様の子どもです。 神の子は神の子らしく神の子の道を歩んで行きましょう。あなたがどんな人で あっても、神様はそんなあなたを尊いと言ってくださいます。だからそんな尊 いあなたのためにイエス・キリストは、迫害も裏切りも十字架の死さえもいとわなかったのです。その大きな愛の中にいつもとどまっていたいと思います。

コリントの信徒への手紙(二)129 節は、「すると主は、『わたしの恵み はあなたに対して十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。』 と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」と書かれています。あなたがどんな に弱くても自分自身を情けないと思っても、自分の思うようにならなくても、 あなたに与えられた、いやあなたにしか与えられていない神様からの恵みがあるのです。その恵みを思い、それを誇り、それに感謝して、人と比べることなく、ひたすらに神様の道を歩んでゆきましょう。

 

116日 説 教 ―              牧師 山中 臨在

   一つ  ヨハネによる福音書 17 : 2026

 

「告別説教」後の祈りの中で、イエス様は、ご自分の死の後も、主は私た ちと共にいてくださる、というご決断を表されています。イエス様の臨在は 死を超え、死によって主は私たちを見捨てないというキリスト教信仰の希望 がここに語られています。

 主が私たちと共にいる決断をしてくださるのは、「すべての人が一つにな る」ためです。主は私たちが一つになれないことをご存知です。この祈りの 直後イエス様が捕らえられ、弟子たちは皆イエス様を置いて逃げました。こ れは私たち人間の姿です。私たちは裏切り、散り散りばらばらになり、一つ となれないのです。そのことをご存知の上で、イエス様は「人の死も裏切り も超えて、その人たちを見捨てない、皆自分の所におらせる。そのことによ って皆が一つになる」ことを望み、そうなる決断をなさったのです。「主にあ って」一つとなること以外の方法では、私たちはいくら努力しても、一つに はなれません。

 何をもって主によって一つとされるのでしょうか。それはイエス様の十字 架の贖いによって私たち一人一人の罪が赦された、ということによって私た ちが一つとなるのです。私たちが一つになれないのは、どうしても他者の中 に罪を見出し批判をしていくからであり、自分のエゴのために他者を裏切る からですが、自分自身も罪びとであることを知るなら、互いに恐れることな く歩み寄り、互いの痛みを分かち合え、かつ自分たちの罪がイエス様の十字 架によって赦されているという希望を共有できます。他者の罪が赦されたこ とも自分のことのように喜べるのです。私たちはお互いが罪びとであること を受け入れ合い認め合い、主によって赦されていることを確認し合うことに よって一つとしていただけるのではないでしょうか。  私たちが主によって一つになるのは、なんのためなのか? それは、「イエ ス様が神の恵みによってこの世に遣わされたこと、それほどまでに神様が私 たちを愛しておられることを世が知るため」です(23)。私たちが一つにな ることは単に私たちのためだけではないのです。それが伝道することであ り、それが神様の栄光を表すこと(24)なのです。

 私たちは一人一人、個性も考え方も、知識や経験も、また持っている賜物 も異なります。何よりも自分中心で人の痛みには鈍い者です。職場でも学校 でも、家庭でも友達同士でも、そして教会の中においても、私たちは一つに なれない現実があります。一つになろうと思うと自分がしんどくなり、一つ になることなど無理だと思うかもしれません。しかし人にはできないけれど 神様にはできるのです。人にはできないからこそ、「すべての人を一つにして ください」とイエス様が情熱を持って祈ってくださったのです。そして人々 を一つにすると決断してくださったのです。イエス様の十字架の贖いと愛に よって、自分自身の罪が赦されたことを思い、他者もまた同じであることを 思いながら、互いに受け入れ合い思い合い祈り合いながら、主が一つにして くださることを信じて歩みましょう。

 

19日 説 教―              牧師 山中 臨在

   「持続可能」 箴言3:17

SDGs(持続可能な開発目標)として、政治・経済・教育・環境・社会生活 (貧困、ジェンダー、平和)など多くの目標が掲げられていますが、私は、信 仰の持続ということも今日非常に大きな、取り組むべき課題であると感じてい ます。信仰の SDGs について聖書が語る3つの指針を聞きましょう。

一つ目は、自己流はいけない、ということです。物事には正しいやり方があ りますが、信仰も同じです。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼っ ては」ならないと聖書は言います。信仰生活において、自分の知識ではなく、 神様の知恵に頼る必要があるのです。「私流」ではなく、「神様流」の信仰です。 神様の知恵は人間の知恵をはるかに超えていて、常に最善を与えてくれます。 しかし人間にはそれを理解することはできません。私たちにはそれを信じて委 ねることしかできません。ところが、私たち人間は、自分の知恵で神様の知恵 を理解しようとしたり、あるいは神様の知恵よりも自分の知恵が優れていると 思ってしまいがちです。そうなると信仰が息切れし、持続不可能になってしま います。まず、神様の知恵に聞くことが必要です。

二つ目に、信仰の真の目標を見失わないことです。信仰生活においても私 たちは誤った目標を立てる誘惑から解き放たれなければなりません。「常に主 を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにしてく ださる」とは、神様と深い交わりをして神様を親しく知れば、主が行くべき正 しい道を示してくださる、ということです。どんなに美しい言葉で聖書を語っ ても、どれほど多くの聖書の知識があっても、どんなに上手に賛美歌を歌って も、どれだけたくさんの献金が集まったとしても、教会の建物がどんなに立派 であっても、教会内での交わりがどんなに楽しくても、それ自体が目的になっ てしまって、本来の目的である神様を礼拝することを見失うならば、その信仰 は持続しません。

三つ目は、持久力をつけることです。信仰には持久力が必要です。「わが子 よ、わたしとの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ」と聖書は語りま す。日々聖書に親しみ、それを記憶しなさい、という意味です。「常に」神様 と交わることを繰り返す中で、持続可能な信仰が形成されていくのでしょう。 そして持久力をつけるために欠かせないのは、祈りです。「絶えず祈りなさい」 と聖書のあちらこちらで言われていて、祈りの大切さは強調し過ぎることはあ りません。

信仰生活を送る時、信仰に燃えて熱い時もあれば、何となく信仰が冷めたり 信仰から遠ざかりたくなる時もあるかもしれません。しかしイエス様は、私た ちの信仰が「無くならないように祈って」(ルカ 2232)くださっています。 私たちを見捨てずあきらめない方です。その方の方を見て、私たちも持続可能 な信仰を成長させていただくように歩んでいきたいと思います。また信仰が少 し息切れしそうな友がいたなら、励まし合って共に祈っていきたいと心から願うのです。

 

12日 説 教―             牧師 山中 臨在

 「新しい朝が来た」

          マタイによる福音書28:110

聖書は私たちに「新しい朝」の希望を伝えています。イエス様が死んで3日目の朝、数人の女性たちは新しい朝を迎えました。しかしその新しい朝は、希望の朝ではなく、むしろ絶望の朝、悩み深い朝でした。愛するイエス様が十字架上で命を落とした悲しみの中、遺体でもいいから一目会いたいと思っていたでしょう。しかし墓は自分たちでは動かすことのできない大きな墓石で覆われているし、番兵たちが見張っていますから、イエス様の墓に近づくことさえできない状況です。ところが、驚くべきことが起こりました。主の天使が大きな墓石を動かし、イエス様は復活したと告げました。そんな人間の理解を超える出来事が、新しい朝には起こるのです。

その新しい朝、女性たちは恐れ不安になりました。私たちも自分の理解できないことが起こると、恐れや不安が生じ、現実を受け止めきれず右往左往してしまいます。そんな私たちに主は何と語りかけるのでしょうか。

主は新しい朝、「恐れなくていい」と言うのです。天使は「かねて言われていたとおり、復活した」と言っています。イエス様が復活するなどという信じがたいできごとですが、実はイエス様はちゃんとそのことを以前から人々に教えていました。そして主イエスの言葉は必ず成るのだということを、新しい朝に私たちに示してくださるのです。主イエスの言葉は本物だ、という希望が、新しい朝に与えられます。墓に来た女性たちは、「恐れながらも大いに喜び」ました。新しい朝は、希望の朝なのです。

そしてこの新しい朝、不安と希望が入り混じる女性たちに、イエス様は「おはよう」と声をかけました。尋常でないことが起きてあたふたしている私たちに対し、イエス様のほうはいつもと変わりません。だからイエス様の言葉は真実で希望を与えてくださるのです。そして、恐れと不安を抱えながら歩んでいる私たちに、イエス様の方から声をかけてくださることを、この箇所は教えています。これが礼拝への招きです。主の招きは「ガリラヤに行け。そこでわたしに会う」ということです。主の恵みは一方的に与えられますが、その恵みを受け取りに「行く」ことが私たちには大切です。

新しい朝にイエス様は、恐れと不安を抱える私たちに「恐れなくてよい」と、尋常ではない恵みを与えてくださいます。恐れや不安の中で、朝ごとに私たちの状態は変わります。いい時も悪い時もあります。でもイエス様はいつも変わらず、私たちに語りかけ礼拝に招いてくださいます。新しい年、私たちにはきっとたくさんの不安や恐れがあるでしょう。コロナウイルスの再拡大、教会の財政の課題。また日々の生活でも、職場の人間関係や、進学進路の悩み、健康のこと、老後のことと心配の種はつきません。でも神様は「新しい朝」そして「希望の朝」を与えてくださいます。その希望は真実です。神様を信じて感謝し、主の招きに応えて、今年も礼拝をしていきましょう。