説教記録1月

131日 説 教―                牧師 山中 臨在

「あなたが教会です」  マルコによる福音書2:1

教会に集まれない中、教会は建物ではなく、一人一人が教会なのだということを改めて実感します。「あなたが教会」であることの意味を考えましょう。

まず礼拝です。一人一人が礼拝者であるということです。12節には、イエス様の驚くべきわざを見て人々は「皆」神を賛美したとあります。この場にいた人たちは、礼拝するという一点で結ばれていました。教会はギリシャ語で「エクレシア」と言いますが、これは「神によって世から召し出された人々」という意味です。あなたが教会、ということです。礼拝者の集まりが教会なのです。教会は、この世の社会的制度やシステムとは異なっていて、イエス様の招きに一人一人が応答してのみ成立します。ここに出てくる中風の人もその人を抱えてきた四人の人も、一人一人が主の言葉を求め礼拝するためにやってきました。私たちは品川教会というシステムに集っているのではありません。品川教会が毎週日曜日に礼拝しているからそこにいれば自動的に礼拝者となるのでもありません。教会はシステムではありません。あなたが教会です。他の誰かではなく、あなたがイエス様に向き合って礼拝し、あなたが福音宣教を担うことが大切です。

次に、教会であることは開く(開け放す)ことです。家には戸口の辺りまですきまもないほど大勢の人が集まっていました(2節)。礼拝が人に開かれ、誰でも招かれています、イエス様が招いておられるのです。開かれているというのは、単に「開いているから勝手に入ってね」ではなく、招き入れるという能動的なことです。教会である私たちは一人一人が開き招いているでしょうか? 四人の男たちは御言葉を聞くために屋根をはがしました。尋常ではありません。しかしこの家の人は屋根を壊されても人を招き入れました。イエス様は自分の頭にごみが落ちてきても人を招きました。またこの四人の男は、中風の人の痛みに対して自分たちを開きました。人の痛みを痛み、彼をイエス様のもとに連れて行きました。人の痛みに自分を開け放すのが教会です。あなたは人の痛みに自分の心を開放しているでしょうか? また、開くというのは、主のみ旨に開いているかということでもあります。中風の人をイエス様のもとに連れて行くという男たちの計画は、人が多過ぎて中に入れず頓挫しました。しかし彼らが主に心を開いた結果、屋根をはがすという、当初の計画にはなかった道が備えられました。ここにいた一人一人が教会となり神様に心を開いたことで、主のみわざが現されました。

私たちは今なかなか会うことができず離れ離れになっています。しかし会えない今こそ主に心を開き祈り合い共に礼拝しましょう。計画した道を主が閉ざされる時こそ主に心を開き、主が与えてくださる道を歩いていきましょう。あなたが教会です。あなたが礼拝者です。あなたの祈りが必要です。

 

124日説 教―                 牧師 山中 臨在

  「全集中」  ルカによる福音書103842

今人気の漫画「鬼滅の刃」で「全集中」という言葉が出てきますが、聖書も私たちに、キリストの弟子となるために、全集中しなさい、と教えています。

イエス様を家で接待するためにあれこれ準備をしているマルタと、それを手伝わずにイエス様のそばで話を聞いているマリア。自分の手伝いを全くしないマリアに腹を立てるマルタに、イエス様は「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言いました。「主の言葉に聞くことが一番大切なことだから、それをしたマリアが良くて、しなかったマルタが良くない」というように受け止められることもあるかもしれませんが、少し注意して読むと、ここは、キリストの弟子となるとはどういうことかを教えている箇所だと思うのです。キリストの弟子となる2つの姿を私たちに伝えているのではないでしょうか。それは、マリアのように主に聞き主から学ぶ姿と、マルタのように主に仕える姿です。このどちらも必要なのです。

主に聞き学ぶ時の私たちのあり方をマリアの姿勢からうかがうことができます。マリアは、「主の足もとに座って」「聞き入って」いました。イエス様の前にへりくだり、み言葉に全集中しているのです。大切なものを前にそこに腰を据えて座っていないと私たちは集中することができません。一方マルタは「せわしく立ち働いて」いました(40)。座っていたマリアに対して立って働いていたマルタ。マルタの仕事を考えたら、彼女が立って働くのは必要なことです。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12:1)と言われているように、マルタは主に仕えるために自分の体を使ってベストを尽くしたのです。マルタはイエス様を愛していました。イエス様もまたマルタを愛していました。「マルタ、マルタ」と2度も彼女の名前を呼んで話しかけているのは主のマルタに対する親愛の印です。イエス様もマルタが自分に仕えるためにせっせと働いていたことを喜んでおられたことでしょう。

ではマルタの何が課題だったのでしょうか。それは、主の弟子として自分のなすべきことに全集中しなかったことです。他の人が何をしているのかを気にし過ぎました。マリアにとってはこの時、御言葉に聞くことがただ一つ必要なことでした。マルタにとっては体を使って働くことが今、ただ一つ必要なことでした。だからそこに全集中して主に仕えることが大切でした。自分の正しさを主張する必要はなく、マリアには自分とは違う働きがあることを知るべきでした。しかし主が、今の働きを中断して他の働きをせよとおっしゃるなら、その時は躊躇なく主のご命令に従うことが大切です。

互いに非難し合っていてはキリストの体は形成されません。主の前にひざまずき、キリストの弟子として自分に与えられている役割に最善を尽くし、足りないところはお互いに協力し合い補い合い祈り合い、全集中して主に向かって歩くことが必要です。

 

 

 

117日 説 教―               牧師 山中 臨在

「めざせ、脇役!」  使徒言行録91019a

映画や演劇には主役と脇役がいますが、聖書は脇役を祝福される神様の恵みを語っています。

今日の箇所に出てくるダマスコのアナニアは、神様に忠実なしもべでした。聖書の中でよく登場するパウロはある意味華やかに描かれていていわば主役的な存在といえるかもしれませんが、その主役パウロが生まれるためには、脇役であるアナニアが必要でした。アナニアは、キリスト者を迫害していたパウロのために祈るように、主から命令を受けました。彼は初め拒否しましたが、神様の計画を信じ、パウロに手を置いて祈りました。憎しみを超えて神様の声に従い、サウロを受け入れ愛した名脇役アナニアのおかげで、のちの大伝道者パウロが誕生し、世の中の多くの人が神様の愛のメッセージを聞きました。アナニアのことはこの後何も書かれていませんが、彼は神様の壮大な愛の計画に欠かせない人物でした。彼には、人間の目から見たら何の栄誉も与えられませんでした。しかし神様の目から見たら、かけがえのない大きな働きをしました。

そしてあなたもまた神様の計画に欠かせない「大切な」脇役です。アナニアは自分ではやりたくないと思っていたパウロのお世話を、主の御命令だから、主の御用のために最善をもってやりました。私たちは主のために最善をもって奉仕をしているでしょうか?

教会にはたくさんのお働きがありますが、その奉仕のほとんどは人に知られていません。多くの奉仕者は人からは賞賛されない脇役ですが、神様からは最高の栄誉を得ています。あなたの奉仕は、注目されないかもしれません。でも私たちは人からの賞賛の声に振り回されず、ひたすら神様からの栄誉を求めていきたいものです。神様は、あなたにしかできない役割をあなたにプレゼントされているのです。品川教会のためにではなく、また一所懸命やっている人に悪いからではなく、あなたを愛してくださる主のために、主が与えてくださった役割をもって最善をささげることが奉仕です。「私には何もできない」と思われる方がおられるかもしれませんが、そのような方にも、主は礼拝する喜びと祈る特権を与えてくださいました。ですから共に礼拝し、共に祈りましょう。あなたが祈ったところで、それは人の目にふれることもない地味なものかもしれません。人の目からみたら脇役、いや脇役以下のことかもしれません。しかし主は、それを尊ばれるのです。

人からの栄誉は朽ちるものですが、神様からの栄誉は決して朽ちることはありません。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」(マタイ6:4, 6:18)とイエス様は語っておられます。あなたの隠れた奉仕を喜んでくださる神様の前に、良き神様の脇役となりましょう。

 

110日 説教―             牧師 山中 臨在

「教会なんていらない!」コリントの信徒への手紙一12:1228

                  申命記6:49

キリスト教は、神様と「私」との個人的な関係に基づいています。それなら、各個人がそれぞれに神様の導きを求めて信仰生活を送れば、人間関係に煩わされず、神様により集中して向き合えるので、教会なんていらない、という発想も生まれてくるでしょう。実際教会では人間関係による諸問題も起こっています。それなのになぜ教会は必要なのでしょう。

聖書は「あなたがたはキリストの体です」(27)と言います。そして体は一つの部分ではなく多くの部分から成るものであるから(12, 14)、それと同じように、キリストの体は「私」一人ではできないのです。キリストを証しするための体には「私」以外の人々が必要です。だから教会が必要なのです。

この体は、各部分が配慮し合っているので分裂しません。それは人の集まる組織内ではなかなかできないことです。ついきつい言葉が飛び交ったり、傷つけ合うこともあります。組織が少しでも良くなろうとか頑張って強くなろうという熱心さゆえのことかもしれませんが、実はそこにキリストの体と人間の組織の違いがあります。キリストの体は、他よりも弱い部分が必要(22)で、見劣りのする部分が引き立つように組み立てられている(24)のです。強さを求める人間の組織と違って、弱さを中心においているのがキリストの体です。体の最も弱い部分、最も見栄えがよくない部分、最も遅い部分が中心となりそれに歩調を合わせて進むから、誰も落ちこぼれません。他者を批判するのではなく、手を差し出して一緒に歩くのです。そして最も弱い部分が尊ばれる時、それは体全体の喜びになると聖書は言います(26)。

他者に配慮し歩調を合わせるには、他者の視点を持つことが大切です。人間は、他者も「私の」視点に立つべきだと考えがちです。また組織は皆同じになろうとする傾向が強いように思いますが、神様は、違いを喜び尊重しなさいと教えています。だから「御自分の望みのままに、体に一つ一つ異なる部分を置かれた」のです(18)。違う各部分が助け合いながらキリストの体を作り上げることが主の栄光を表すことです。各部分が「自分の栄光を表そう」と少しでも思うなら、キリストの体はできあがりません。

「私」が実は最も弱い部分であったのに、神様はその私を見捨てず、私に寄り添い、私を「必要と」してくださったのです。そして体の他の部分の人たちもまた、私に配慮し、忍耐し、共に歩んでくれたのです。今の自分は、神様の愛と恵み、そして他者の配慮と励ましによって生かされていることを忘れないで歩めるなら、自分もまた他者を尊び、尊重し、寄り添って歩むことができます。それがキリストの体となってキリストに栄光を帰する生き方です。

自由に集まれない今こそ教会が必要なのではないでしょうか。物理的に集まれなくてもキリストの体なのです。人は一人では生きていけません。キリストの体は一人ではできません。互いに祈り合い支え合い励まし合う教会として今こそ歩みましょう。

 

 

13日説 教―                 牧師 山中 臨在

  「天国の新年会」   ルカによる福音書15:1132

放蕩息子の物語から、天国の新年会の様子を探りましょう。父から財産をかすめ取り家を出た放蕩息子は、お金を使い果たし惨めな境遇に陥った時、父の許に雇い人の一人として帰ろうと思います。自分に無礼を働いた息子を普通なら父親は許せないと思いますが、この父は放蕩息子を喜んで迎え入れて、宴会を催しました。これが天国の新年会(新しい歩みが始まることを期待する宴)です。

 無礼だった息子を父は抱きしめ、「これから始まる新しい年を共に喜ぼう」と言うのです。一方息子のほうは、自分の犯した過ちを悔い改めています。これまでの問題が積み残されたままでは、新しい年の歩みは始められません。その姿勢で臨むことが新年会には大切です。注目したいのはこの順序です。息子が謝る前に父親がまず息子を迎えているのが天国の新年会(=礼拝)の特徴です。弟のために宴を開くことに不満を持つ兄息子に対しても、父のほうから近づいています。まだ息子が遠く離れている時から父が息子を待ちわび見つけてくれるように、父なる神様は遠くにいる私たちを見つけてくださるのです。罪深い私たちを神様が抱きしめて迎えてくださるから、私たちはその愛に応え、罪を悔い改めなければなりません。

 さて、天国の新年会のもう一つの特徴は、身分の違いに関係なく宴会が行われることです。放蕩息子は父に対面するにあたって、謝罪の言葉を練習していましたが、いざ父と対面したら、父は息子の最後の台詞「雇い人の一人にしてください」を言わせませんでした。そして良い服(栄誉を表す)、指輪(自分の権威の委任を表す)、履物(奴隷でなく自分の子どもであることを表す)を与えます。父は本来自分の召使として働くのが妥当であると思われる放蕩息子との間の上下関係を自ら取り払っているのです。これはまさに神様が私たちに接してくださる時の様を表しています。

 ところでこの祝宴は、主催者である父と一緒にいなければ始まりません。ごちそうがあっても味わうことができません。放蕩息子は、父と離れてもお金があれば平安だと思っていましたが、しかしそのお金は父と一緒にいることでこそ平安をもたらすことに気づいていませんでした。兄息子も自分の正しさだけを主張し、父親から心が離れ父の家に入ろうとしない時には、自分が持っている財産の豊かさや父の愛の豊かさに気づかず、心が貧しくなりました。天国の新年会には、有り余るほどの食べ物がありますが、主催者である神様と共にいなければ、その恵みに気づきそれを味わうことはできません。私たちは神様から多くの恵みと賜物を与えられています。しかしそれは父なる神様と共にいてこそ豊かになり大きく用いられるのです。

私たちを忍耐強く待ち、抱きしめてくれる神様から離れず、豊かな天国の新年会(である礼拝)を続けていく年になりたいと祈ります。共に天国の新年会を楽しみましょう。