説教記録2020年1月

 

126日 説教―               牧師 山中 臨在

      「命のパン」ヨハネによる福音書6:2240

イエス様が5つのパンと2の魚だけで五千人以上の人たちの空腹を満たした奇跡を見たあと、人々は更にイエスに会いたいとその翌日カファルナウムまで舟に乗ってイエス様を追いかけてきました。そんな彼らにイエス様は「あなたがたはパンを食べて満腹したから私を捜している」と言います。イエス様は、パンの奇跡を見た人が、自分が神の子であることを信じて平安を得てほしかったのですが、群衆が信じたのは食欲を満たすパンでした。「朽ちる食べ物ではなくて、永遠の命にいたるパンのために働きなさい」(27)と言うイエス様に「神の業を行うためには、私たちは何をしたらいいですか」と尋ねます。イエス様は「神の栄光のために生きなさい」ということを言っているのですが、群衆は理解していないようです。

 生きていくために、パンは必要です。そのために私たちは一所懸命働きます。そしてそれは尊いことです。私たちは切実な祈りを主にぶつけてよいのです。しかし忘れてはならないことは、イエス様は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればあなたに必要なものはすべて与えられる」(マタイ6:33抜粋)と教えておられることです。最も大切なことは、朽ちるパンではなく、神が遣わした者(イエス様)を信じることだ、と言うのです。

なくなる食べ物ではなく、永遠に至る食べ物のために働きなさい、と教えるイエス様に「何をしたらよいか」と群衆は尋ねます(28)。人は勘違いをします。自分たちが何かをしてやろうと思います。しかし神のわざは神がなさいます。人がすべきことは、命のパンを与える神を信じることであると言うのです。自分が何かをしよう。私たちは真面目にそう考えます。誠実な姿だと思います。けれども、神のために、と言いながら、いつしか自分の力で改革してやろうという思いが芽生えるなら、その時点で神のわざではなくなります。相手を変えよう、状況を変えよう、と頑張っている自分自身が実は真っ先に、神のわざは神がなさるのだということを認識するように変えられる必要があります。改革の担い手になろうとするなら、唯一の改革の担い手である神にゆだねなければなりません。そのために私たちはいつもみことばに聞き、祈ることが大切です。

 私たちは命のパンを食べているでしょうか。命のパンであるイエス・キリストを信じているでしょうか。それとも自分の力でがんばって神のわざをしようとしているでしょうか。今日のみ言葉はあなたに何を語っていますか。「神がお遣わしになった者、イエス・キリストを信じなさい」と語っておられる主の招きを、受け入れて歩んでいきたいと思います。

 

 119日 説 教―                 牧師 山中 臨在

 「二歩目」マタイによる福音書14:2233 

大嵐に苦しむペトロは、水の上を歩いて来るイエス様を見て、大胆にもイエス様に向かって水の上を歩いて行きます。他の弟子たちは止めたでしょうが、ペトロにはイエス様しか見えず、「イエス様の所に行きたい」その一心で彼は大胆な一歩を踏み出しました。しかし一歩踏み出した後に恐怖に襲われました。「大嵐に飲み込まれて冷たい水に沈んでしまう!」そう思った瞬間、あの大胆だった一歩目のように二歩目が踏み出せず、沈みかけてしまいます。「ああ、イエス様助けてください」と叫んだ時、イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロをつかまえました。

 人が信仰を持とうと思う時、その一歩を踏み出すことができないということがありますが、しかしある時聖霊の導きによりスッと一歩を踏み出せるようになるのだと思います。信仰を持ってみて「ああ、一歩踏み出してよかった。これで何もかもうまくいく!」と思い、イエス様に捉えられた喜びの中にイキイキとした信仰生活を送っていく、筈でしたが、実際は信仰を持っても苦しいことやつらいことが次から次へとやってくる。クリスチャンになる前よりも苦しみが増えたのではないだろうか? こんな筈じゃなかった! この先次の一歩を踏み出すとどんどん深みにはまっていくのではないかと思うと恐くて恐くて二歩目が踏み出せない、と感じることもあるかもしれません。

 一歩目は踏み出したけれど二歩目でつまずき溺れそうになったペトロに対して、イエス様はすぐに手を伸ばして助けました。信仰の薄さを露呈した彼を、何も言わずまず助けてくれるのです。ここにイエス様の愛と恵みがあります。どんなに情けない信仰をもっていてもその信仰者を見捨てず助けてくれるイエス様の手がいつも備えられているのです。信仰の薄いペトロ、しかし薄くても信仰はあるのです。イエス様に向かって一歩踏み出しているのです。でもイエス様の弟子だけれど、イエス様だけを見上げていたいけれど、イエス様以外の物も見えてしまうのです。これは同時に私たちの姿なのかもしれません。イエス様を信じているけれど、どこか信じ委ねきれない、イエス様に向かって二歩目が踏み出せない「信仰の薄い者」なのです。そんな私たちにイエス様は手を伸ばして、「二歩目を恐れなくてもいいから、私のところに来なさい」と招いて下さいます。

 私たちの人生、逆風が吹けば、イエスの姿は見えなくなります。なぜ自分の道を妨げる嵐の中に来たのだろう? それはイエス様が行けと言われたからです。自分は来るつもりはなかったのに、イエス様がそこに行けと言われたから、来たのです。自分の思いとは違う所に置かれた中で、それでもイエス様を見て、イエス様の方向に歩きなさい。二歩目を踏み出してつまずきそうになる中でイエス様の差し出す手をつかみなさい、と主は招いておられます。

 

 

112日 説 教―           牧師 山中 臨在

「人の言葉にはない力」マタイによる福音書5:118

エルサレム神殿の裏手にベトザタと呼ばれる池がありました。この池は、一定の時間ごとに水がわき上がり池が揺れました。そしてその水が動いた時に真っ先に池に入った人はどんな病気もいやされたそうです。だから病人は我さきに水に入ろうと待ち構えているのでした。

 さてここに38年間も病気で苦しんでいる人がいました。この人はイエスに会うと、自分をこの水に入れてくれる人は、38年間誰もいなかったことを訴えます。自分がみじめなのはいわば人のせいだ、と言うのです。

 今の世の中も人生の言い訳に満ちているように感じます。うまくいかないこの人生は「あれが悪いからだ」「これがなっていないからだ」と人のせいにしがちですが、そういう人は失望しています。希望がなく、新しい人生へと歩いてゆくことができません。そんな人を励まそうと親切な人が励ましの言葉をかけますが、なかなか彼らの心に届きません。人の言葉には限りがあります。人の言葉は人にはなかなか届きません。しかし主の言葉には力があります。いや、主の言葉にしか本当の力はないのです。38年間病気に苦しみ、それを人のせいにしてきたこの人に、イエスは励ましの言葉をかけるのではなく、ただ「起き上がりなさい」と言いました。無茶苦茶な話です。でもこの人は起き上がったのです。イエスの言葉に力があったのです。38年もの間、誰もこの人の苦しみや絶望を知る人はいませんでした。人間は誰も他者の心の苦しみや痛みを本当に知ることはできないのです。

 6節に「イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知った」とあります。イエスは38年もの間誰からも知られなかったこの人の苦しみを知って目を注がれる方です。イエスは、誰も知らないあなたの苦しみや悲しみ、また喜びや叫びもまた知って下さるお方です。だからイエスの言葉には力があるのです。

ローマ8:3に「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです」と書いてあります。今日の物語の後半で、ユダヤ人たちは、イエスがこの病人をいやしたのが安息日であったことを批判します。律法では安息日に床を担ぐことが許されていないからです。しかし律法は人を救えません。律法は人の痛みを知りません。律法は人の苦しみを解決できません。でも律法がなしえないことを主の言葉はなしてくださるのです。私たちの人生は思い通りにならないこともあるでしょう。願わないことばかりやってくることもあるでしょう。しかし主は私たちを愛し、私たちのことを知り、人間が肉の弱さのためにできないことをなしてくださいます。人間の言葉ではなく、主のことばに従い生きていきましょう。

 

 15日 説 教―              牧師 山中 臨在    

「学者たちのクリスマス」マタイによる福音書2:112                                                               

イエス様を拝みに来た東方の学者たちは、自分たちを導きイエス様の所で止まった星を見て喜びにあふれました。学者は真理を求めて学問を探求します。だからこの東方の学者たちは真理を求めて真面目に占星術の勉強をしているのです。でも自分が研究しているものを超える本当の真理があるのではないか、それを求めたい、だからこそ自分のいる場所から出て遠路はるばるユダヤの国まで2年程もかかると言われる旅をして来たのでしょう。彼らが喜びにあふれたのは、星が止まったからだと思うのです。彼らの研究している星はあちらこちらに彼らを誘導してきました。その度にここに真理があるのかな、いやあそこにあるのかなとさまよい歩いていたけれどいつも星は止まることなく彼らも真理に辿り着けずにいました。しかし今やついにその星が止まり、み子イエス・キリストという真理の光に辿りつきました。もう真理を求めてさまよう必要がないから、彼らは喜びに溢れたのでしょう。遠い国の異教徒の彼らがユダヤ人の王として生まれた方を見に行こうとしたのに対して、本国ユダヤ人の祭司長や律法学者は見に行こうとしませんでした。真理の光を見ようとしなかったのです。なぜそこへ出かけようとしなかったのか。

これは、私たち品川教会に神様が語られている問いなのかもしれません。イエスを通して神の愛を信じているはずの貴方たちなのに、なぜその真理の光を求めようとしないのだ、なぜ自分の居場所を出てイエスに会いに行かないのだ、と。東方の学者たちは自分の家を出て主を求めに行ったのです。そして主に出会った彼らは、黄金、乳香、没薬を献げたとあります。彼らは自分の財産とも言える貴重なものをすべて手放しました。いや自分が拠り所としていたそれらの物はもう必要なくなったのでしょう。自分が抱えていたものを手放しても、いや手放したからこそ、そこにとてつもなく大きな真の喜びが与えられたのです。

イエスは真の喜びを与えてくれる真実の光です。でも光が当たるとすべてが照らされ、見たくない物も照らし出されます。その光によって人間の罪も照らし出されます。そして人間は照らし出された自分の罪よりも他の人の罪がよく見えます。その結果お互いの罪を暴き合い非難し合うようなことが起こります。それは教会であっても例外とはいえません。もしそんな罪の暴き合い裁き合いを一つでもするならば、教会はすぐに崩れます。教会を建て上げるのはとても大変ですが教会を崩すことはごく簡単なことなのです。ここにも私たちが東方の学者に学ぶことがあります。彼らは幼子イエスを見ました。あとは見る必要がありませんでした。私たちもまたイエス様だけを見なさい、と主は今、私たちに語っておられるのではないでしょうか。自分の家を出て、自分の抱えているものを放り出し、ただ主イエスだけを見上げる時、主は私たちに真の喜びを与えて下さいます。