説教記録(2019年1月)

127日 説教 ―                牧師 松村 誠一

           「互いに愛し合いなさい」

この手紙はおよそ紀元100年頃、長老ヨハネが自分たちの信仰集団の人々に書いた手紙であると理解されています。このヨハネの信仰集団ですが非常に厳しい状況にありました。グノーシス主義が教会内に入り込み、キリスト教信仰に揺さぶりをかけてきた時代です。ヨハネ教団を脅かしていたもう一つは、世界を支配していたローマ帝国による迫害です。キリスト教が小アジアからヨーロッパへと短期間にものすごい勢いで広がって行った時に、ローマ帝国の迫害が始まります。有名なネロ皇帝、その後のドミティニアヌス皇帝と迫害が続きます。その激しい迫害の中、ヨハネ教団内の人々はヨハネの「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは、愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」との励ましの言葉に促され、様々な誘惑、迫害の中にあっても具体的に兄弟を愛し、信仰の道を歩んでいったのです。

田川健三氏は、御自身で「神など存在しない」と言ってはばからない著名な聖書学者ですが、「キリスト教思想への招待」(勁草書房)の「やっぱり隣人愛」の項でキリスト者が文字通り“隣人愛”に生き抜いたことを述べています。氏はキリスト教を公認したコンスタンチヌス皇帝の後の皇帝ユリアヌスの反キリスト教政策にもかかわらず、ユリアヌスがキリスト教を撲滅できなかったのは当時のキリスト者の“隣人愛”であることを述べております。  イエス様の示された愛に生き、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合う生活をしていたのです。

神の愛と罪の赦しを具体的に示して下さったイエス様は、生前その弟子たちに、兄弟を愛し、隣り人を愛するように教えられました。弟子たちも、イエス様の教えを忠実に守り、自らの生き様を通して、そのことを語り伝えていきました。それ故に、瞬く間に小アジアを越えて、ヨーロッパに伝えられ、ローマ帝国をキリスト教国に変え、そして全世界へと福音は広がっていったのです。互いに愛することより、世界が変えられていったのです。

さて、こんにちの私たちの取り巻く状況は、環境はどうでしょうか。世俗の物の考え方、基準が教会内にも容易に入り込んでくる時代です。世俗では、得をすること、自己愛に生きることが当たり前の社会です。自分の立場、自分の思い、自分の考え、自分の所有、自分の存在、誰もが自分を主張して生きております。このような時代だからこそ私たちは、互いに愛し合い、信仰に生きる者でありたいと思います。それが可能となるのはイエス様の生涯を通して神の愛に触れる時に、私たちは教会の兄弟姉妹を、隣人を愛する者へと導かれていくのです。自分の思いや、自分の力ではない、神の愛が、人を突き動かして下さるのです。このヨハネの言葉を頂き、この言葉を心に留めて、一週間を過ごしてまいりましょう。

           (ヨハネの手紙() 31118節)

 

120日 説教―                  牧師 松村 誠一

          「神の言葉は広がっていく」

聖霊降臨の後、イエス様の弟子たちを中心に信仰の群れに加わる人々が増えて来るのですが、そこに一つの問題が出てきております。その問題とはギリシャ語を話すユダヤ人からヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出たのです。その苦情とは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたことによるものです。ヘブライ語を話すユダヤ人はユダヤで生まれ、ユダヤで育った人々でしょう。もう一方はギリシャ語を話すユダヤ人で、彼らは外国育ちで、当時の共通語であるギリシャ語を使って生活しておりました。そういう人々が祖国に戻り、エルサレムで生活をしていたのです。その中には夫に先立たれ、いわゆるやもめの人が多かったようです。彼女たちはエルサレムに戻っての生活の中で、福音に触れ、イエス・キリストを信じる群れに加えられていったのです。ヘブライ語を話すユダヤ人はギリシャ語を話すユダヤ人たちをあまり快く思っていなかったことが伺えます。外国育ちのユダヤ人のやもめたちが毎日の食事のことで、軽んじられていたのです。このことに外国育ちの人々が使徒たちに苦情を申し出たのです。使徒たちはその問題解決のために、弟子全てを呼び集めて、次の提案をしています。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」といものでした。人選の基準が示されています。まず、「あなた方の中」から選ぶ、ということです。今日的に言うならば教会員の中からということでしょう。次に「霊に満ちた人」、次に「知恵に満ちた人」です。そして「評判の良い人」です。このような提案に一同は賛成をしております。選ぶ人の信仰が問われ、それに応えております。信仰による決断がなされたということでしょう。ここで注目したいことは選出された7人、全員がギリシャ語名ですのでギリシャ語を話すユダヤ人なのです。これは想像の域を出ませんが、弱い立場にある人たち、つまりやもめたちの立場に立っての人選であったということが言えるのではないでしょうか。もう一つですが、当時のエルサレムの信仰の群ですが、ユダヤ人からの迫害に遭い、エルサレムに留まっていることはできず、ユダヤとサマリアに逃れていかなければならなかったのです。ステファノは迫害に遭い、殉教してしまいますが、フィリポはサマリアに下って行き、その先々で福音を語り伝えております。福音はこうゆう人々によってユダヤ人以外の国々へと伝えられていったことが使徒言行録に記されています。私たちはこの歴史を見る時に、ここで選ばれた7人がギリシャ語を話すユダヤ人であったことは、当時の信者たちがこの7人を選ぶに当たり、信仰をもって選んだ結果ではないでしょうか。

 さて、私たちの教会も今日、礼拝後に役員の選出が行われます。私たちも信仰をもって役員の選出を行ってゆきましょう。“こうして、神の言葉はますます広まっていく”ことを確信して。

                      (使徒言行録617節)

 

 

113日 特別集会―         山中先生

                「新たな歩み」

新しい年を迎え新しい歩みを始めようとしている私たちに、12歳の少年イエスが新たな歩みを始める聖書の物語は何を語りかけているでしょうか。両親と共に過越祭に出かけた12歳のイエスは、祭りのあと両親とはぐれます。必死でイエスを探しまわる両親がようやく彼を見つけた時、イエスは神殿で学者達と議論をしていました。母マリアは「なぜこんなことをしたのか」と叱りますが、イエスは「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と答えます(49節)。生意気にも聞こえるイエス様のこの言葉ですが、ここから3つのことを学びたいと思います。

 まず一つは、イエスは神の子であるということです。12歳の少年イエスの受け答えに学者たちは「驚いていた」とあります(47節)が、この言葉は、元来「正気を失う」という意味です。学者たちは正気を失うほど驚いた、つまり学者たちはイエスの中に神を見たのです。学者たちはイエスが神の子であることを悟りましたが、そのイエスに信じて従うのではなく、むしろ彼らはイエスを妬み、イエスを十字架につけてしまうことになります。イエスが神の子であることが示されてもイエスを信じないばかりか憎みさえする、それは今を生きる私たちも同じなのかもしれません。

 二つ目は、いつも神のみ心がなる、ということです。ヨセフとマリアは、息子イエスは親の自分たちと一緒にいるのが当たり前だと思っていましたが、イエスにとっては「自分は父なる神のところにいるのが当たり前」なのでした。人間の常識や人間の情けではなく、神のみ心がなされました。両親はそのイエスの言葉の意味がわかりませんでした(50節)。神様のみ心は私たちにはよくわからないのかもしれません。だから人間は苦しみます、クリスチャンであっても苦しむのです。しかしイエスの言葉を理解できない母マリアは「すべてを心に納めました」(51節)。神のみ心はよくわからないけれど、マリアはそれを大切に心に受け止めました。神のみ心は究極的には、イエスが十字架で死に、その死によって私たちが救われるということです。神様のこの愛のみ心をマリアは受け止めました。私たちはどうでしょうか?

 そして三つ目は、イエスはいつもおられるべき所におられるということです。イエスの姿を見失った時、両親は心配して「親類や知人の間を捜しまわった」(44節)のですが、イエスは「自分は父の家にいた」と言いました。自分はいるべき場所にいたと言うのです。ここに私たちが学ぶべきことがあります。イエスキリストはどこにも行かず、いつもいるべき場所におられるのです。しかし私たち人間が日常の生活の中で様々なことに心を奪われ心を騒がし、イエスを見失っているのではないでしょうか? イエスはいつも変わらずにいて下さいます。そしてそこにおいでと招いて下さっているのです。

 このことを覚え、私たちも新たな歩みを始めましょう。

         (ルカによる福音書 24152節)

 

 

16日 説教―                  牧師 松村 誠一

     「子たちよ、父たちよ、若者たちよ」

ヨハネの第一の手紙は一世紀の終わり、ないしは二世紀の始め頃、長老ヨハネによって書かれた手紙です。長老ヨハネによって形成されたヨハネ教団はこの世の力にさらされておりました。ヨハネによる手紙での「世」とは、神を神としないこの世の力であります。そしてこの「世」の力は倫理道徳を乱し、また、教会の秩序を乱し、人間を欲望のままに生きようとさせていたのです。そのような状況のもと、長老ヨハネは教団の人々の信仰を守り、信仰の確信を与えるために愛をもって語りかけております。12節ですが、「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって あなた方の罪が赦されているからである。」と。この〝子たちよ″という呼びかけは、ヨハネ教団に属するすべての人のことでしょう。ヨハネは信仰の群れを導く親として語りかけているのです。彼らが信仰の勝利を得るには、自分たちの状況を自分でしっかり確認することであり、あなた方はイエス様によって罪赦されているではないかと、そのイエス様を改めて認識させております。またヨハネは13節で〝父たちよ″と呼びかけております。この〝父たちよ″とはヨハネ教団内の指導的な立場にある人のことでしょう。「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。」と語りかけております。この言葉を聞いた者はすぐにイエス様を思い浮かべたのでしょう。そしてイエス様がどういうお方であるかを良く知っていたのでしょう。そのことを再確認させております。そしてヨハネは若者に語りかけております。この若者とは文字通り教団内の若者たちでしょう。14節後半ですが「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなた方が強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」と。若者たちは、この世の力が働くそのただ中で信仰をよく守り通し、それは勝利の源は神の言葉があなたがたの内にいつもあったからだと語りかけております。この世の誘惑はものすごい力をもって人間に襲いかかって来ます。それに打ち勝つには、神の言葉なのです。私たちの信仰の歩みはいつも順風満帆ではなく、むしろいつもこの世の力に脅かされ続けているのではないでしょうか。私自身、イエス様に従って行こうという思いと、信仰などどうでもいい、という二つの思いがあることに気が付かされております。しかしその都度、聖書を通して語りかけられて来る神の言葉によって導かれ、不信仰を悔い改め、今日までなんとか信仰者として歩むことが出来ております。これは私の力ではなく、神の愛が教会の交わりを通して、この私に注がれていることによるものだと思っております。

2019年も神を神としないこの世の力が、容赦なく私たちの信仰を脅かすこととなるでしょう。この世の力は、私たちの良心、私たちの真実な思いまでも歪めてしまう力をもって挑んでくるでしょう。しかし私たちは共に神の言葉を聞き、神の御心を行う人として歩んでまいりましょう。

         (ヨハネの手紙() 21217節)