説教記録2018年1月

 

128日 説 教―             牧師 松村 誠一

          「憐れみ深い人々は、幸いである」

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」。“憐み深い人”とはどういう人のことでしょうか。かわいそうだから、何か助けてあげなくては。気の毒だから、助けてあげなくては。このような思いで人を助けてあげている人のことでしょうか。勿論そうではありません。それでは憐み深い人とは、どういう人のことでしょうか。イエス様は「“仲間を赦さない家来”のたとえ」の話しをしております。(マタイ1821節から)このたとえ話から憐み深い人とはどのような人なのかを見ていきたいと思います。

ペトロがイエス様の所に来て、次のように質問しております。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と。この七回という数字はイエス様から「さすがペトロ、よくも七回と答えた。その通りだ、ペトロ」とお褒めの言葉をペトロは期待していたのではないでしょうか。ペトロはこれだけ赦すのだから、さぞかし憐み深い人間である、という自負があったのではないでしょうか。そういうペトロにイエス様は「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と教えています。これは490回赦しなさいということではないことは当然であり、無限に赦しなさいと教えておられるのです。そしてイエス様はこのことをペトロを始め弟子たちが忘れないように譬えをもって語り教えておられます。

たとえ話ですが、家来は主君に1万タラントンの借金を帳消しにしてもらっております。一日の賃金が1デナリオン、1タラントンは6000デナリオンです。この家来は仲間に貸した100デナリオンを返さないことに腹を立て、借金を返すまで牢に入れてしまったのです。このことを知った君主は借金を帳消しにしてやった家来に「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんだように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。」と言っております。イエス様は人間には神に返しても返しきれない負債(罪)がある。その負債を神は無条件で赦されるお方である。そして、その赦しに与った者は自分の仲間にも赦しを与える者とならなければならない、ということをイエス様は教えておられるのです。イエス様が話された「仲間を赦さない家来」の譬え話しを通して仲間を赦さない家来とは、この私のことである。憐みを受けた者は、その憐みを与える者とならなければならないのだ、と語りかけられていることに気付かされたのです。

私たちはすでに神の憐みの中へと招き入れられているのです。神の憐みによって信仰に導かれ、神の憐みによってキリストの体なる教会へと招かれ、愛する兄弟姉妹が与えられ、主にある交わりが与えられております。この神の無限の赦しと愛を頂いている者は、イエス様が憐れみ深いお方であるように、私たちもその憐みを頂き、仲間に、隣人に、兄弟姉妹に憐れみ深い者となっていかなければならいのではないでしょうか。

              (マタイによる福音書57節)

 

 

121日 説 教―             牧師 松村 誠一

        「義に餓え乾く人々は、幸いである」

イエス様は「義に餓え乾く人々は、幸いである。その人たちは憐みを受ける。」と弟子たちに、そして弟子たちと一緒にイエス様のみもとに集まってきた群衆に語りかけております。ここで注目をしなければならないのはイエス様は「義人は幸いだ」とは語っておりません。「義に餓え乾く人々は幸いである」と語っておられます。“義人”と“義に餓え乾く人”はどのように違うのでしょうか。ルカによる福音書にイエス様が語られた「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(18914節)の話が記されています。ファリサイ派の人は、「神様、わたしは、ほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食をし、全収入の十分の一を献げています。」と自分を義人だと自認しています。この義人だと自認しているところに大きな過ちがあるのです。確かに、このファリサイ派の人は品行方正で、道徳的で、また律法も守っていたでしょう。このこと自体は、勿論非難されることではありません。しかし、ファリサイ派の人は、神の正さを、自分の正さとして、その正しさを誇り、その正しさで他者を裁き、排除する基準にしてしまっていたのです。イエス様のたとえ話は続きます。自分の罪深さにくずおれそうになり、うつむき、そしてやっと口を付いて出た祈りの言葉は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。この言葉のみです。イエス様はこのたとえ話の結論を語っています。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶるものは低くされ、へりくだる者は高められる」と。徴税人は義に餓え乾き、義を求めていたのです。ですからイエス様は、義なる人々は、幸いである。」とはおっしゃらずに「義に餓え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる」と語っておられるのです。

私たちも信仰的になればなるほど、信仰に熱心であればあるほど、ファリサイ派の人同様に自分の義を誇る、という過ちを犯してしまう弱さをもっているのではないでしょうか。自分は“義人”だと認識したとたんに人を裁く者となってしまうのです。人を裁き、人を排除しようとする思いは信仰による喜び、平安も消え去ってしまいます。

私たちは”罪人“であり、”義人“にはなれないのです。私たちはいつも義に餓え乾き、義を求めていく存在であり、そのような存在でなければならないのです。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈り、義に餓え乾き、義を求めていく人々こそ神の義に満たされつつ、さらなる歩みを続けていくことが可能となるのでしょう。

                (マタイによる福音書57節)

 

114日 説 教―               牧師 松村 誠一

          「柔和な人々は、幸いである」

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。イエス様が語られた“柔和”について共に学んでまいりたいと思います。マタイ福音書では、この“柔和”という言葉は他に二箇所でてきます。一箇所は11章です。イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(2830節)もう一箇所は21章の、イエス様がエルサレムに入城する場面です。マタイは旧約聖書ゼカリヤ書を引用して「見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負う ろばの子、子ろばに乗って」(5)と。イエス様は「柔和な王」としてエルサレムに入られ、そして十字架につけられます。

このような聖書の箇所から“柔和”の意味を考えてみますと、“柔和”とはイエス様ご自身の生き様であると思います。イザヤ書53章ですが、イエス様の生き様が端的に述べられています。533節、「彼は軽蔑され、人々に捨てられ、多くの痛みを負い、病いを知っている」。ご自身にふりかかるこのすべてを受けていく。あるいは537節ですが「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。イエス様は与えられた人生を、試練を受けていくその生き様こそが“柔和である”と言えるのではないでしょうか。従ってこの“柔和な人々”とは主イエスの軛を共に負っ共に歩む人のことでしょう。そしてイエス様の軛を共に負うことにより謙遜な者にされ、イエス様と共に神によって支配される新しい地を受け継ぐ者にされるのです。柔和な人々、それはイエス様を救い主と信じ、イエス様に従って歩む人のことです。イエス様が、その柔和さによって地を受け継いでおられることを信じて,自分も地を受け継ぐ者となっていくことです。

 ボンヘッファーは“キリストに従う”で「キリストへの服従に対立するものは、キリストを恥じることであり、十字架を恥とすることであり、また十字架に躓くことである。服従とは、苦しみ賜うキリスストに固着することである。だから、キリスト者の苦しみは何も不思議なことではない。むしろそれは掛値なしの恵みであり喜びである。」(p.81)と語っています。

 私たちの現実の生活は様々な苦しみ、悲しみがあります。しかしこの現実の生活の只中にあって、イエス様に固着し、従い生きていく者が“柔和な人々”なのです。その人たちこそ、掛値なしの喜びが与えられ、“地を受け継ぐ人”なのです。 

              (マタイによる福音書55)

 

 

17日 説 教―              牧師 松村 誠一

   「心の貧しい人々、悲しむ人々は幸いである」

 イエス様の「山上の説教」ですが、“イエス様が山に登り教えられた”と、その場所が記されています。これは、シナイ山でモーセが神から律法を授与し、その律法をイスラエルの民に伝えた出来事を想起させるための記述であると思います。律法を形式的に解釈し、律法の根幹、中心である「愛」よる業から遠く離れてしまった当時のイスラエルの民に、律法を授けられた神の思いを語り伝えている箇所です。この山上の説教は、イエス様が弟子たちに語り伝えた教えです。しかし単なる教えではなく、イエス様の“然り”が語られており、その“然り”を聞き、その“然り”を受け入れる者は、まさに神の恵みへと招かれていくのです。

 3節に「心の貧しい人々は、幸いである。」と記されています。心の貧しい人々、その“心”という言葉ですが、“霊”と訳される言葉が使われております。ですから、“霊において貧しい人々”に語りかけられているのです。霊において貧しい人々とはどういう人々か、いろいろ注解書で説明されています。ある注解書では、抑圧された者、惨めな者、さげすまされている者、社会的貧困にあえいでいる者、絶望している者であると説明されています。これらの人々がなぜ幸いなのでしょうか。私たちは、これらの人々は決して幸いではない、と思うのではないでしょうか。

 イエス様の「幸いである」という言葉は、神の“然り”の言葉です。抑圧されている者、惨めな者、さげすまされている者、それらの人々に対してイエス様が幸いだと、宣言して下さるがゆえの“幸い”なのです。バークレーは、この幸いとは、「自分が全く無力であることを知って、ただひたすら神により頼む人はさいわいである」と。また「ああ、自己の無力を徹底的に知らされて、ひたすら神により頼む人のさいわいよ! 何故なら、このような人こそ、神に完全に服従によって天国の民となることができるからである」と述べています。イエス様の然りによって、天国での幸いを先取りして今、与えて下さるから“幸い”なのです。

4節の「悲しむ人々は幸いである、」この幸いも同じです。悲しむ人々、その悲しみがどのような悲しみかは、イエス様は語っておりません。イエス様はどんな悲しみであれ、悲しみの中にある者を慰めてくださる。イエス様からの慰めは慰め主なるイエス様の語りかけを聞き、その語りかけを受け入れ、イエス様に従う者に与えられるのです。

イエス様の「山上の説教」を聞いた弟子たちは、イエス様の“然り”の中で励ましと慰めが与えられ、その与えられた励ましと慰めを宣べ伝える者(使徒)となってゆきました。私たちもイエス様からの励まし、慰めを頂き、イエス様を宣べ伝える者として新しい一年を共に歩んでゆきましょう。

              (マタイによる福音書514節)

 

 

11日 説 教―              牧師 松村 誠一

            「み言葉をいただいて歩もう」

私たちはいつもサタンからの誘惑を受けています。キリスト者は他者に対して愛の行為を行う者でありたいと願いつつ過ごしています。そして純粋に他者に対して愛の行為を行うこと出来ても、その愛の行為を行った、その思いの奥底には自分が他者に認められたいという思いが潜んでいることに気付かされることはないでしょうか。そしてその思いの根源には自分が神ごとき者として振る舞いたい、という思いがあるということに気付かされることはないでしょうか。私自身、そのような思いがあることに気が付かされております。

さてイエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマ受けると、「神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」と3章の16節に記されております。その時イエス様は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞いております。その後イエス様は悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて、荒れ野に行かれるのです。これは私たちとりまして大変重要なことが示唆されております。神との関係が密な時にこそ誘惑を受けるということであります。私たちが信仰的であればあるほど悪魔の誘惑を受けるということが語られているのです。

この荒れ野での悪魔からの誘惑の記事ですが、悪魔は私たちに内側から人間の言葉をもってささやいて来る存在なのです。イエス様への第一の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」でありました。第二の誘惑は「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」であり、第三の誘惑は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう。」です。

イエス様は、神のみ心を行う者として神から遣わされたお方であります。しかし、ご自分に与えられているところの権能を神の思いではなく、自分のために用いようとする誘惑を受けたのです。また悪魔は独占欲、支配欲、名誉や、より高い地位を得ようとする人間の欲望を満足させたいという思いに巧みに語りかけてきます。イエス様はこれらの誘惑に聖書の言葉を用いて戦い、勝利を治めております。神の子としての権能はご自身のためには用いられずご自身は神から示された苦難の道を歩んでいかれたのす。そのことがまさに神の子、イエスとして歩みなのです。

人間は欲望に生き、権力を持ち、他者を支配し、自分が神の立場に立とうとする思いが心の中にあるのです。その思いを実現しようとみんなが右往左往している、その様が今日の現実の社会であります。悪魔の誘惑は人間の欲望に働きかけ虚栄に、虚偽に生きようとする思いを抱かせ、本当の自分を偽って生きようとするささやきであります。しかし、私たちはそのような悪魔の誘惑に主イエス様を信じる信仰により、打ち勝ち、自らの弱さを知り、罪深い存在であることを知り、神の存在なくしては生きられない存在であることを認識しつつ、神の言葉に聞き従う人生が求められているのです。御言葉をいただいて、悪魔の誘惑に勝利して日々過す者でありたいと思います。

            (マタイによる福音書4111)