2017年1月記録

129日 説教―          日隈 光男 先生

      「主イエスは私たちの避けどころ」

私自身を含めて、教会員の皆様もいろいろな苦悩を抱えていることを知りました。さらに、品川教会に限らず、日本の教会は今、伝道が進展しないという悩みを抱えています。

そのような事を踏まえて、イエスの弟子たちがガリラヤ湖の中ほどで嵐に会い、苦しんだ聖書の記事を取りあげることにしました。

舟出する前の日中、イエスは群衆に向かって「神の国」の事を「種を蒔く人」のたとえで話しました。「神の言葉」は全ての人に隔てなく蒔かれているのであるが、受け入れる人は実を結び、受け入れない人は実を結ばないと、説明したのです。神の愛は全ての人に注がれ、神は全ての人を受け入れておられるから、神の愛を受けとめるようにとの奨めです。

夕方、イエスは弟子たちに「向う岸に渡ろう」と、ゲラサ人の地に福音を伝えに行こうと声を掛けました。湖の中を舟を漕いで行く途中で嵐に遭遇したのです。大波をかぶって舟が沈みそうになり、弟子たちは恐れて「イエスさま!私たちがどうなっても構わないのですか」と叫びました。その時、イエスは舟の後方で、荷物を枕にして眠っておられたのですが、気が転倒している弟子たちは気がつかなかったと思います。

「神は沈黙しているのか」という心境になっています。遠藤周作の「沈黙」のテーマです。1578年の秀吉のキリシタン弾圧から60年経った1638年頃になる江戸初期には、日本のキリスト教は壊滅状態でした。宣教師は国外追放、キリスト者は処刑され、残った人は隠れキリシタンとなり、信仰も異質なものに変化していきました。「沈黙」はその時代を背景にした作品です。

 潜伏司祭フェレイラの教え子の若き2人の司祭が日本に潜入しますが、逮捕され精神的拷問を受けます。奉行は日本人キリシタンを人質にし、司祭が棄教しなければ、キリシタンを処刑するぞと追い込んでいきます。その精神的な苦痛の中でポルトガル人司祭は(このような苦境を神は見ておられるはずなのに)「なぜ神は黙しておられるのか」という気持ちになり、棄教に傾きます。日本の権力者たちは宣教師を根だやしにすれば、キリシタンは根無し草になり枯れてしまうと考えたのです。大雑把に言えばそのような内容です。

 同様に嵐の中の弟子たちも、神はなぜ沈黙して、私たちを構わないのかという気持ちになりました。起き上がったイエスは復活したイエスという解釈があります。そのイエスが弟子に向かって「わたしがあなたがたと共にいるのに、なぜ信じられないのか」と叱りました。神がいつも共にいるという信仰を持てというメッセージです。伝道に行く前に弟子の信仰を鍛えたのです。

使徒パウロは「私は私の弱さがわかった時に、キリストの力が私の内に宿った」と言います。(Ⅱコリント12章)病気を癒して下さいと祈ったら、主の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である、力は弱さの中でこそ発揮される」という事でした。私たちも苦難や弱さの中で、主イエスの力をいただくことが出来、神が私たちの傍におられるという信仰が与えられます。

             (マルコによる福音書43541

 

 

122日 説教―          牧師 松村 誠一

          「喜びにあふれるイエス様」

ルカによる福音書101節からイエス様が選んだ72名の弟子たちを神の国の到来を宣べ伝えるために町や村に派遣する出来事が記されています。イエス様の弟子たちはガリラヤの漁師で、学問もない、この世で評価されるような能力もない。いやむしろこの世では弱く、貧しい者たちでした。103節にイエス様は「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。」と語っておられます。弟子たちは、この世で通用する力を持たないで出ていくのですから、派遣されるイエス様は心配でならなかったのだと思います。ところが、イエス様の心配をよそに、弟子たちは大変な成果をあげたのです。弟子たちはイエスの名によって、神の力を頂いて町や村で福音を語ったのでしょう。町や村から帰ってきた弟子たちですが、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえわたしたちに屈服します。」と、イエス様に報告をしています。

当時、律法学者やパリサイ派の人々によって律法を押し付けられ、そして守れない者は、罪人としてつまはじきされていた人々が大勢いたのでしょう。そういう人々に弟子たちは福音を語ることによって律法から解放し、癒しをあたえたのでしょう。これはイエス様の時代だけではありません。イエス様の時代から今日に至るまで、宗教によって、宗教の持つ力によってがんじがらめにされた人々は後を絶ちません。イエス様の時代も、神の名によって、また律法によってがんじがらめにされ、精神的にも障害を覚える人がいたのだと思います。そういう人々に弟子たちは真の神を指し示し、その人を真の自由へと招き、悪霊に取りつかれている状態から救い出したのです。

イエス様はこの弟子たちの伝道成果をご覧になり、神に向かって喜びの祈り、賛美を捧げています。「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした」。(10:21)弟子たちが助けを必要としている人に福音を語り、救いへと導いた。これは神ご自身が弟子たちを通して人々を救いに導いた出来事だったのです。弟子たちは神の器として用いられたのです。

そのイエス様の切なる祈り、願いが、今神によって叶えられたのでありますから、イエス様は喜びに満たされ神を賛美せざるをえなかったのであります。この“幼子のような者”とは、弟子たちのことです。彼らは幼子のように純真にイエス様の教えを聞き、幼子のように素直に福音を携え、町や村に行けとの命令に従って出ていったのです。

聖書は、過去の出来事をただ報告するために記されたのではありません。聖書は聖書を読み、聞く者に聖霊が働き、過去の出来事を通して現在の出来事へと導く力があるのです。

72名が町や村に派遣されましたが、72名とは誰でしょうか。72名とは私たちです。私たちがイエス様の名により福音を語り伝えるなら、神の御計画であり目的である、すべての人々を神の許に招く務めに当たることができるのです。そしてそれはイエス様が喜ばれることなのです。イエス様が喜ばれることが私たちの本当の喜びなのです。新しい年度に向けて、“町や村に”遣わされていく準備を整えてまいりましょう。

               (ルカによる福音書102124節)

 

 

 115日 説教―             牧師 松村 誠一

            「本当の自分に生きる」

イエス様とその一行がゲラサ人の地方に行きますと、墓場を住まいとしている汚れた霊に取り付かれた人に出会っております。その汚れた霊に取り付かれた人は突然大きな声を出したり、どんな鎖を用いてさえつなぎとめておくことができなかったと記されています。ところがイエス様とその一行がやって来るのを見ると、走りよって、ひれ伏し、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないで欲しい。」と叫び求めております。そのあと、聖書にはイエス様と汚れた霊との会話が記されております。誠に奇妙な話です。この箇所はこの地方の民話が題材に記されたもと言われておりますが、民話を通して語られているメッセージは、現代の私たちも聞いていかなければならないでしょう。

墓場を住まいとしている、とはどういうことでしょうか。墓場とは汚れた霊が住み着いている場所として理解されていました。こんにちの墓場、それは都会ではないでしょうか。今日の都会は悪の霊で満ち溢れている場所ではないでしょうか。人間性を奪い取ってしまう様々な力が猛威を振るっております。汚れた霊に取り付かれていた人は「鎖を用いてさえもつなぎ止めておくことが出来なかった」と記されておりますが、悪霊が働く時、人間の理性も、常識も、倫理的な思いも吹っ飛んでしまい、その人をその人としてとどめておくことすら出来ないのです。「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ち叩いたりしたりしていた。」と記さています。

今日において勝手気ままな生活の中で自らの命を顧みないで、麻薬などに手を出して、自らを傷つけている人々が増えているのではないでしょうか。悪霊の名前はレギオンであることが記されています。レギオンとはローマ軍団の名前です。6千名位の兵隊によって組織されていた軍隊です。ですから悪霊の数は多く、大変な力を持っているということです。この悪霊は、いわゆる異教の神、偶像の神、あるいは様々な迷信、また人の人格をもコントロールしようとする思想を指しているのではないでしょうか。この汚れた霊は豚の中に入り込み、崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々と溺れ死んだ、と記されています。この地方では人間の命よりも豚の命の方が大切にされていた土地だったのです。豚が湖の中になだれ込んで次々と溺れ死んだということは“人間の命は豚よりも大切である”というメッセージが語られているのです。

そしてそれらから解放された男は正気になったと記されています。人の人格までも破壊してしまう、偶像や迷信、またこの世俗の力、それらから解放された時に人間は本来の自分を取り戻すのであるというメッセージが語られているのです。現代社会は善悪の判断も倫理道徳感も、理性も、信仰すらも吹っ飛んでしまう汚れた霊が満ち満ちております。そのような現代社会の中で生活している私たちにイエス様は「汚れた霊、この人から出て行け。」と語かけ、私たちを汚れた霊から解放してくださり、本当の自分に生きる者へと導いてくださるのです。

            (マルコによる福音書5120節)

 

 

 

18日 説教―              牧師 松村 誠一

              「私たちの安息日」

「ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。」(マルコ223)と記されています。その弟子たちの行為を見ていたファリサイ派の人々が、その行為は律法違反ではないかと、イエス様に問い詰めています。

 ユダヤ教において安息日はモーセの十戒にも規定さており、割礼と並ぶ最も重要な宗教規定です。この安息日に“いかなる仕事もしてはならない”と規定されておりますので、そのいかなる仕事とは何かを明確にし、その規定を守っておりました。安息日に麦の穂を摘むという行為は明らかに律法違反です。イエス様は律法を守らない弟子たちをとがめることもせず、かえってファリサイ派の人々の質問にその違反を認める応答をしております。25節以下ですが、ここでイエス様はサムエル記上の2116節に書かれていることを述べています。ここに書かれていることですが、ダビデはサウル王に命を狙われており、毎日が逃亡生活でありました。そして逃亡先で食べるものに困り、神の家に入り、ダビデは大祭司アビアタルにパンを与えて欲しいと願い出ております。しかしあいにく供え物のパンだけしかなかったのです。神に供えられたパンは誰も食べることが出来なかったのですが、ダビデはアビアタルに頼み、そのパンを分けてもらい、みんなでそのパンを食べて飢えをしのいだ話です。必ずしも規定に縛られない大祭司アビアタルの紹介です。

ユダヤ人たちは、安息を守るという本来の目的を見失い、戒めを守っているかどうかが最大の関心事になってしまっていたのです。そしてその戒めを守っているということが、人間に高慢な心を与え、さらにその戒めが神に変わり、人間を裁くものとなってしまっていたのです。イエス様はそういうユダヤ人ファリサイ派の安息日理解に否を唱えたのです。

安息日とは、まず神を仰ぎ見ることです。単なる休日ではありません。神を仰ぎ見、御言葉を聞き、聖なる日として過ごす日です。そのように過ごした者に神は真の休息を与えてくださるのです。

安息日、私たちは主イエス様の復活の日に主の日としてこれを守っておりますが、日曜日、肉体的には疲れを覚えていても、礼拝に出席し、御言葉を聞き、聖なる日として過ごす時に、真の安息が与えられるのではないでしょうか。

マタイによる福音書1128節に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とイエス様は語りかけておられますが、この疲れた者、重荷を負う者とは、律法を守れずに責められ、非難されて疲れた者であり、律法の重荷を負わされた者のことです。そういう者は、私のもとに来なさいと招いてくださっているのです。2017年も主の日、私たちは共に礼拝に出席し、神を仰ぎ見、賛美をささげ、御言葉を聞き、聖なる日として過ごしてまいりましょう。そういう私たちに、安息日の主であるイエス様が肉体的にも、心にも魂にも真の安息を与えてくださるのです。

               (マルコによる福音書22328)

 

 

 

11日―                  説教 松村 誠一

               「主を賛美せよ」

詩編100編はエルサレムから離れて住んでいるイスラエルの民が、祭りのためにエルサレムに上って来て、神殿で礼拝をするときに歌われた歌です。「全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ」。これは神殿に入場する人々を神殿内に迎え入れる合唱隊によって歌われた歌と言われています。神殿内に入場する人々ですが、その人々の取り巻く環境は決して喜びを与えてくれる環境ではありませんでした。日々の生活を送るための労苦があったでしょう。今日の日本と同じように政情不安で不正がはびこり、心痛む出来事があったでしょう。しかしそのような中において、彼らは神喜びに満たされ、合唱隊の賛美に呼応して神を賛美し,礼拝を捧げたのです。

私たちのとりまく社会環境も決して明るくありません。いや、むしろ危うさが増してくるのではないでしょうか。しかし、私たち信仰へと導かれた者は「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。」と、この力強い御言葉を聞き、その御言葉に励まされ日々歩むことが出来ることは何と幸いなことではないでしょうか。

私たちの喜びとは何でしょうか。私たちを生かしめる根源的な喜びとは何でしょうか。3節に「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。」と歌われています。私たちは神によって神に似せて創造されたものです。私たちの喜びとは創造者なる神に仕えることによって神が与えて下さる喜びです。神に仕えていくとは。それは日々の生活の中で聖書を読み、聖霊の働きを求めて祈ることから始まります。祈る者に神は必ず御心を示されます。そして神から示されたことを行っていく、これが具体的に主に仕えていくことです。

私たちはいつも私たちに語りかけてくださる方、神がいらっしゃるのですから、その声を共に聞き、示されたことを喜んで行ってゆきたいと思います。

2017年が始まりました。元旦が主の日で、共に礼拝を捧げ、一年のスタートを切れたことは恵みです。私たちは今年もまず、神のみ前にぬかずき、神を賛美し、御言葉を聞く礼拝を大切にしてゆきたいと思います。礼拝は、この世に遣わされるためのエネルギーを頂くところです。礼拝でこの世に遣わされていくエネルギーを頂き、与えられた場所場所で神と人とに仕えてゆきましょう。そこに私たちを真に生かしめる喜びが与えられるのです。

            (詩編10015節)