2016年説教記録

 

131日 説教―             牧師 松村誠一

              「私たちは兄弟姉妹」

主イエス様がガリラヤ地方で神の国の福音を語り始められると、群衆はたちどころにイエス様に引き付けられ、イエス様の行かれる所はどこにでも付いて来ております。イエス様はその群衆に食事をする暇もないほどに神の国の福音を語り続けていたのでしょう。ところがイエス様の母親とその兄弟は、このようなイエス様の振る舞いが気に入らなかったのです。イエスが群衆を相手に何か大声で語っている。これはもしかしたら気が変になってしまったのかも知れないと思ったのです。母マリアにしてみれば、長男のイエスに父親の仕事を継いで一家を支えてもらいたい。そのような願いがあったのではないでしょうか。ところがイエス様は大勢の群衆を相手に話をしている。母マリアはこのようなイエスをほっておくことが出来ずに群衆の一人にイエスを呼んでもらっております。群衆の一人から「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます。」と知らされると、イエス様は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と言われ、そして集まっている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(334)とお答えになっています。

このイエス様の発言は大変衝撃的な言葉であります。当時のイスラエルの社会で、家族という血縁の関係はイスラエルの宗教共同体を構成する一番小さな単位であり、家族から離れるという事は当時の社会からも見離されるということと同じ意味を持っておりました。そういう社会の中でイエス様の自分の家族の関係を否定するような発言は非常に過激な発言ではないでしょうか。群衆、この群衆とは当時のイスラエルの社会から疎外されていた人々であり、イエス様が飼う者のない羊のように弱り果てている、とおっしゃった群衆です。この群衆こそがわたしの兄弟、姉妹、そして母なのだ、とおっしゃったのです。イエス様は母マリアの閉鎖的な家族主義。自分の家族が平和で自分の家族が安全で自分の家族が困っていたら助ける。そしてその他の助けを必要としている人々や、差別を受けて悲しんでいる人々が全く視野に入ってこない、そういうマリアの偏狭的家族主義に対して、そして群衆に係わろうとするイエス様を故意に群衆から離そうとするマリアのエゴに対してイエス様は否を言ったのです。

私たちの教会における兄弟、姉妹との関係も全く同じであります。イエス様はあの群集に対して,そして、私たち一人一人に対して兄弟よ、姉妹よと呼びかけてくださっておられるのです。ですから、そのイエス様の呼びかけに応えて集う私たちはまさに、兄弟姉妹なのであります。しかし、この兄弟姉妹とは、言葉がその関係を作るのではなく、イエス様と私たちとの関係のように、自らが兄弟として、あるいは姉妹としての関係を作って行く時に、その兄弟姉妹の関係が現実のものとなっていくのです。私たち一人一人が、他者に対して兄弟姉妹の関係を持とうと、心を開いて行く時に、主はその関係を与えて下さるのです。

         (マルコによる福音書33135

 

 

124日 説教 ―          牧師 松村誠一

               「 神の国の経済学 」

イエス様は「天の国は次のようにたとえられる。」と言ってたとえ話を語っております。たとえ話ですが、ある家の主人がぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに広場に出かけております。まずは朝一番に一日一デナリオンで労働者を雇っております。当時の労働時間は朝6時から夕方の6時まで、一日12時間労働だったそうです。主人は、また広場に9時に来て労働者を雇っております。この労働者には「ふさわしい賃金を払ってやろう」という約束をしております。主人は又12時頃、そして午後3時頃に広場に行き労働者を雇っております。主人は夕方の5時ごろにも行ってみると、ほかの人々がまだ広場に立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると彼らは、「だれも雇ってくれないのです。」と答えています。主人は彼らに「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言った。(マタイ2067)と記されています。一日が終わり、賃金の支払いの時がきました。ぶどう園の主人は監督に賃金の支配を命じています。賃金は最後の者からそれぞれに一デナリオンずつ支払われております。この支払に怒りを覚えたのが朝早くから働いた労働者です。彼らは「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(2012)と怒りをあらわにしております。私たちも、このイエス様のたとえ話には納得がいかないのではないでしょうか。労働時間に見合う賃金の支払いがなければ経済秩序は成り立たないのではないでしょうか。

イエス様はこのたとえ話で何を訴えているのでしょうか。主人は広場にたたずんでいた人々、その人々の苦しみに連帯し、いたたまれず農園に来なさい。そして働きなさいと声をかけているのです。主人は彼らに、ぶどうを収穫する労働力を願って雇っているのではないのです。イエス様は天の国においては、今日のような評価基準で人は判断されない。どんなに労働力に劣っていても誰もが神の前に等しい者として受け入れられるのだ。いや、弱く臨時の日雇人にこそ声をかけておられるのです。マイナスを背負わざるを得なかった人に対する神の憐みが天の国において限りなく注がれることが語られているのです。

このぶどう園の労働者のたとえ話は、読む私たち一人一人が夕方5時に雇われた労働者であるという認識へと導いてくれるのです。私たちはただ神の憐みにより何の働きも功績もないのに永遠の命を頂き、神の国を継ぐ者とされているのです。そしてそのことを知り得た私たちは、夕方5時になっても広場に立ち「誰も雇ってくれないのです」とつぶやいている人の側に立ち、その人の痛み、悲しみに連帯し、今出来ることをもってその人と係わっていくことが求められているのです。天の国の実現を待ち望む私たちは、このような仕方で天の国をおぼろげにではありますがこの世に示していくことができるのです。

          (マタイによる福音書20116

 

 

―1月17日 説教―        牧師 松村 誠一

「愛は人を赦す」

 イエス様の時代、有名な先生を自宅に招き、食事を共にしながら話しを聞くということはよくあったそうです。そしてその時、町の人たちはその家に自由に入り、先生の話を聞くことが出来たようです。一人の罪深い女もイエス様がファリサイ派シモンの家で話しをされているという情報を聞いたのでしょう。シモンの家に入って来て、イエス様の足もとに近寄り涙でイエス様の足を濡らし、その涙を自分の髪の毛で拭い、さらに香油を塗ったと記されています。

著名な先生を招いた時は誰でも自宅に入って来て、その先生の話を聞くことはよしとされていたのですが、それは、ごく一般の市民であり、罪深い女などが入ってくるなどシモンは考えもしなかったのでしょう。シモンはこの罪深い女の行為に怒りを覚えると同時に女のなすままにしているイエスは大した人物ではない、そのように思ったのでしょう。イエス様はそのシモンに「シモン、あなたに言いたいことがある」と言ってたとえ話しをしております。このたとえ話ですが金貸から一人は500デナリオンを、もう一人は50デナリオンを借りております。二人とも借りたお金を返済できないので金貸しは貸したお金を帳消しにしてあげたという話です。そこでイエス様はシモンに質問をしております。「二人のうち、どちららが多くその金貸しを愛するだろうか」と。シモンは「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えています。イエス様は、このシモンの答えを聞いてから罪深い女とシモンの接待を比較し、結論的に47節で「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と語っています。ここで注目をしたいのは、「この人が多くの罪を赦されたことは」は、完了形で記されていることです。この罪深い女は自分の身を売って生活をしていたのではと言われております。自分が罪深い女であることは一番よく知っていたのでしょう。女は町で噂になっているイエス様と出会い、イエス様から愛溢れる言葉を頂いていたのでしょう。女はシモンの家に招かれているイエス様のことを聞いてシモンの家に行き、自分の出来る限りをもってイエス様を歓迎したのです。イエス様は、その罪ある女の行為を高く評価しつつ、500デナリオン、50デナリオンで表されている罪は、犯した罪の重さや数ではなく、罪の自覚であることを語っているのです。たとえ話では、二人とも返済できないので帳消しにしてもらっています。人間の罪は自覚があっても無くてもただ神に赦してもらわなければならないものであり、罪は既にイエス様によって赦されているのです。

罪の自覚はイエス様との出会いによって与えられるものです。私たちはイエス様の前で、「私は何者なのでしょうかと尋ね求めて行く時に、罪人のかしら、との自己認識が与えられるのです。罪人のかしらとの自己認識が与えられた者は、その罪を帳消しにしてくださるイエス様に出会い、罪が赦されている者であることを知ることが出来るのです。そのことを知り得た者は出来る限りの感謝をもって応えて行きたいと願うのではないでしょうか。

        (ルカによる福音書73650

 

 

110日 説教 ―             富田 敬二 先生

                「 平和の種を

新しい年の始め、心から新年のご挨拶を申し上げます。さて新年行事として『書き初め』がありましたが今も続いていますか。僕の子どもの頃は(戦時中ですが)三学期の始めに学校で『書き初め大会』があったのです。正月三ケ日の間に指定された『書き初め』を墨書して始業日に持って行き、15日迄教室に展覧され、父兄(母親)達も見に来ていたのです。

【種を蒔く】さて今年は『平和の種を蒔く』と書きたいです。子ども賛美歌に『朝に夕べに種を蒔けよ。人を慰むる愛の種を。たゆまず うまず種を蒔けよ。平和の花咲く愛の種をば』と。懐かしい賛美歌ですが主イエス様の譬え話を思い出します。今日の聖書箇所です「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と。農業国の私達には解かりやすい譬え話です。がしかし二千年前の記録です。機械化されず人の手による農作業です。今朝の皆さんはどんな光景を思い巡らしたでしょうか。白い雲が浮かぶ田園風景ですか、稲穂が風に揺れる田園でしょうか。殆どの方は未経験と思います。が今は茶の間のテレビにも放映されるので、機械化された農作業を想像する方が多いのです。が全て手作業の時代の譬え話なのです。

 【実を結ぶ為に】主イエスはここで、単刀直入に蒔かれた種の結果を語っております。主イエスの目は蒔かれた種の『存在』です。先ず『道端に落ちた種』は鳥に食べられたと。次に『石地に落ちた種』は土が無いので根が枯れてしまったと。更に『茨(雑草)の中に落ちた種』は雑草に塞がれて成長が阻まれてしまったと。真実ですね。群衆の納得は『実を結ぶ種』の有り様に期待が移った其の時、主は穏やかな表情で、群衆一人一人の納得を引き出す口調で『ところが、ほかの種は、良い土地に落ちた』と、全ての種の中で『良い地に落ちた種』だけが『実を結んで』しかも、その一粒が『あるものは百粒、60粒、30粒の』『実を結んだ』と。

 【農家の生命線】1ヶ月前北海道が豪雪と聞いて岩見沢に電話した時、今年の春蒔き『種』の乾燥と選別の最中と言う事でした。収穫した種のうち『最良の種』は半分も無いそうです。発芽の確実種、病虫害に強い種、結実種、霜害種等々を聞き、大変だなと感じたのですが、電話の向こうで『手で触れば良し悪しは解かるのですよ』と。彼女は高校卒業後『新生伝道』でキリストに捉えられた一人です。農家に嫁いだクリスチャンです。彼女一家もご主人を除いて皆クリスチャンになりました。主がお選びになった種は、良い地に落ちて実を結ぶ証言なのです。当時は札幌市内に玉葱農家が多く彼女の実家も半農家庭だったのです。

【主の手にある種】み言葉(聖書)の種も前述の譬えの如く、結実種は確率から言って少ないのです。しかし主の聖手にある時『百倍、60倍、30倍』の稔りが約束されるのです。此処で注意してほしいのは『主の聖手にある時』なのです。前にも『何度も話した事』なのですが、戦時中『牧師の子故のいじめ』に合ったのですが『主の聖手の中』で『稔り』を経験したのです。今こそ!今年こそ!愛と平和の種を蒔き続けたいのです。世界中が一触即発の戦時気運です。この70年が似非平和ではなく『真実、主の聖手に』守られた『主の聖手になる平和』実現のために『教会が』『私たち信仰者が』一致して『主の平和を期待し、祈りたいものです』

                (マタイによる福音書1339) 

 

 

13日 説教―        牧師 松村 誠一

       「金持ちとラザロ」

金持ちとラザロのたとえ話ですが、まずは二人の登場人物について紹介されています。金持ちは大変高価な紫の衣や柔らかい麻布着て毎日ぜいたくに遊び暮らしていた、と。方やラザロはできものだらけの貧しい人と紹介されています。ラザロは金持ちの食卓からでしょうか、食卓から落ちた物を拾って食べ、腹を満たそうとしていた、と説明されています。場面は変わり、二人の死後の世界が記されています。現世では貧しさに苦しめられていたラザロは、死しんだら天使たちよって宴席にいるアブラハムのそばに連れて行かれております。

ここで語られていることは、ラザロは永遠の住まいに迎え入れられということでしょう。方や金持ちは黄泉で、つまり地獄でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとすぐそばにいるラザロが、遥か彼方に見えた、と記されています。そして24節ですが、金持ちが地獄の炎の中でもだえ苦しむ中、アブラハムにお願いをしております。「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と。しかし、アブラハムは金持ちに、「生きている間に良いものをもらっていた。ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」と。(26節)

 金持ちは、どうすることもできない陰府での生活を悟ると、さらにアブラハムに懇願しております。それは現世に生きている自分の5人の兄弟が同じ目に遭わないように、良く言い聞かせて欲しいと。

 それにアブラハムは次のように答えて物語は終わっております。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、そのいうことを聞き入れはしないだろう。」(31)

 イエス様はこの物語を通して何を言わんとしているのでしょうか。生前、金にまかせ贅沢三昧に暮らしていた者は来世では陰府に降り、炎の中で苦しまなければならないのだということでしょうか。このような話が昔から日本においても語られてきておりますが、イエス様も同じようなことを話されたのでしょうか。そうではありません。このたとえ話の中心は「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら」とのイエス様の言葉です。“モーセ”とはモーセ五書であり、“預言者”とは預言書のことです。つまり聖書のことです。聖書に聞き従わない者は、たとえどんな奇跡や徴によっても人は「悔い改め」に導かれることはない、ということが語られているのです。

 新しい一年がスタートしました。私たちも奇跡や徴を求めるのではなく、聖書に聞き、聖書によって「悔い改めに」に導かれ、神の国に招かれる者として歩んでまいりましょう。

    (ルカによる福音書161931節)