説教記録1月

129日説 教―              渡辺 牧人 牧師

 「主があなたのためにたたかっておられる

  出エジプト記14:1318

Aloha!品川バプテスト教会でみなさまにお会いできることを感謝しつつ「アロハ!」とご挨拶いたします。このハワイ語には、「愛」「平安」「分かち合い」「はじめまして」「さようなら」などの広い意味が込められています。“Alo” は「その場に存在して(臨在)in the presence」「分かち合うSharing」、そして“ha”とは「息」「命の力」という意味がありますから「向き合って息(命)をかける」と訳せます。皆様と向き合って神さまのいのちの言葉、救いを分かち合える恵みに心から感謝いたします。

出エジプト記1413節に、「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。・・・」とあります。私たちの歩みの中で、ある時は急に恐れるような出来事が起こります。202111月はじめに妻が急に末期ガンの宣告を受けました。知らされた後すぐに腹水が溜まりはじめ4.3リットルにもなりました。卵巣から横隔膜までがん細胞が散らばっている状態であることが明かになったのです。宣告を受けた時は本人曰く、「自分は死ぬかと思った」という事でした。妻の妹は47歳で3年半前に癌で亡くなっています。看病のためにハワイから札幌の妹のもとに何度も往復した妻でしたが、まさか今度は自分なのか、と思わされたことでしょう。姉妹2人だけですから、北海道で高齢になってきている妻の両親にとって残された子供は、妻一人しかいません。そのような状況の中で、どうして恐れず、落ち着いていられるでしょうか。私自身、夜中にうなされて目が覚めると涙が流れていることが何度かありました。

イスラエルの民は、後方にはエジプト兵(ファラオ王)が追って来ていて、前方には大きな海(紅海)が道をふさぎ絶体絶命でした。その時に神さまはモーセを通して、「敵であるエジプト兵や目の前の紅海(問題)を見るのではなく、「主の救いを見なさい」と語られました。私たちも困難に直面した時に問題を見るのではなく、神さまの救いに目を向けて歩みたいのです。

出エジプト記1414節に「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」とあります。私たちの戦いは主の戦いであることを知る時に、絶対的な危機であろうが、勝利と希望と平安があります。不信仰の叫びではなく、静まって主の戦いに委ねられるのです。「静かにする」という事はまず落ち着くということです。慌てると、出来ることも出来なくなってしまったり、普段失敗しないことも、失敗してしまったりするということが起きるでしょう。また、聴かなければならないことも聞こえなくなり、パニックになるでしょう。

問題を見るのではなく、主の救いを見る時に、海は分かれ、救いの道が開かれるのです!

 

122日 説 教―            牧師 山中 臨在

 「他人の目」 マタイによる福音書25:1430

主人が三人の僕に、それぞれの力に応じて自分の財産を預け、5タラントン預かった僕はそのお金でほかに5タラントンもうけ、2タラントン預かった僕は2タラントンもうけましたが、1タラントン預かった僕は、厳しい主人を恐れてそれを地中に埋めていた、というたとえ話です。この話を通して、信仰とは神を主人とすること(神の僕となること)だと感じます。聖書を読むと、僕とは単なる使用人ではなく、主人(神様)が信頼して仕事を任せている人のことであることがわかります。信頼していなければ、自分の大切な財産を預けたりはできません。神様は「わたしの目にあなたは高価で尊い」(イザヤ書434)と語られました。神に仕える(奉仕)とは、神様から信頼していただいていることを知り、そして神様が与えてくださった自分の尊さ、価値を知るという恵みの事柄なのです。

だからそこには喜びがあります。奉仕をしたことに対して主人は「自分と一緒に喜んでくれ」(2123)と言っているのです。奉仕は主が喜ばれることであり、私たちが主と一緒に喜ぶことであると聖書は教えています。奉仕は、神様の信頼に応答してするものです。人に応答するのではないのです。しかし私たちは他人の目が気になります。「他の人がやっているのに自分だけやらないと悪いから」とか「自分がこれをしないと他人にどう思われるか心配だ」という思いが奉仕の動機になっていることはないでしょうか。あるいは「自分がいかに能力が高くて偉大であるか」という自己顕示欲から奉仕をすることはないでしょうか。もしくは「私がこんなに奉仕しているのに、なぜあの人は何もしないのだろう」と人を批判したくなるかもしれません。しかし他人の目を気にしながら奉仕をしても喜びが与えられません。ただ神様から信頼され愛されていることを知ってそれに応答することが奉仕の基礎です。神様が知りたいのは、あなたの奉仕の数的な量が大きいか小さいかではなく、あなたの奉仕が神様に忠実であったかどうか、ということです。私たちは他人の目を見て奉仕をするのではなく、神様を仰ぎ見て奉仕をすることが大切なのです。

タラントンには賜物という意味があります。神様が私たちにくださる賜物は、自分の得意なものばかりではなく、時として苦手なことを神様から託されるかもしれません。しかし神様の信頼に応答して奉仕をする時に神様がそれを喜ばれ私たちにも喜びが与えられるばかりでなく、他者にも喜びが伝わるのです。イエス様は十字架にかかるほんの数日前にこのタラントンのたとえ話をされました。イエス様は自分が命を捨てることによって人を生かされました。賜物とは、神様が私たちに預けてくださった財産であり、それは人を生かすためのものであることを、イエス様はまさに命をかけて語られたのではないでしょうか。自分の得手・不得手に関わらず、神様から預かった奉仕を、他人の目を気にすることなく、神様に忠実に、行っていきたいと思います。

 

1月15日 説 教―           牧師 山中 臨在

「仕える」 マルコによる福音書 2:112

一人の中風(脳血管障害)の人を4人の男がイエス様のもとに運びます。日頃からこの中風の人のお世話をしているのでしょう。あなたがこの4人の一人だと想像してください。あなたは誰よりも早く起きて中風の人の所に出かけて行き、この人を町の門や清めの池に担いで連れて行ってから、自分の仕事に出かけます。自分の仕事中、同僚が楽しそうに話しているのが聞こえます。昨日の夜は友だちとパーティをしたとかボーナスで新しい車や新しい靴を買ったとか言っていますが、あなたは当分新しい靴など買えないことを知っています。中風の人には恐らく食べ物や衣服をくださる人はあまりいないのを知っているから、自分が給料をこの人を助けるために使うのです。あなただって新しい靴や車があったらどんなにいいでしょう。でも「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記1918)の御言葉を知っているので、あなたは中風の友だちにできる限り寄り添い出来る限りのことをしたいと思っています。そんなある日、仕事を終えていつものように中風の友だちをその家に連れて帰ろうと思っていたら、あちこちで病気をいやしているイエスという人がこの町に来るという噂を聞きました。他の3人と共にすぐに中風の友だちをイエスがいる家に連れて行きました。

しかし既に人はいっぱいで中には入れません。あなたたちはそれでも中風の人をイエスに会わせたいと思うあまり、屋根をはがしてそこから彼をつりおろすことにしました。そんな様子を見たイエスは、中風の友を癒されました。あなたたちの信仰を見た、と言います。いやされた友は喜びにあふれました。自由になった友を見て、あなたたちは「このようなことは、今まで見たことがない」とそこにいた人々と一緒に神を賛美しました(12)。あなたたちも自由になりました。もう明日から中風の友を迎えるために早起きしなくてよいし、給料も自分のために使って靴も車も買えます。そう思っていましたが、しばらくして誰からともなく「次は誰のお手伝いをしようか」と話し始めました。以上はあくまでも私の想像の入った話ではあります。

他者に仕えることは、となり人に寄り添い、となり人の痛みを担いで、イエス様の所にお連れすることだと聖書は語ります。その隣人がイエス様に出会って起き上がらせていただくことは私たちに大きな喜びをもたらし、神賛美へと導いてくれます。仕えること(奉仕)は「ああしなければならない」という義務感からするのではなく、義務感から自由になることです。その自由は「もう~しなくてよい」という自由ではなく、「今度は誰に仕えようか」と思える自由なのです。

イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ2540)と言われます。仕えること(奉仕)は即ち主に仕えることであり、主イエスが中心にいて初めてできることです。イエス不在の奉仕はありません。ただ主を見上げ、となり人と共に主のもとに行くことが、となり人とあなたにあふれる喜びと自由を与えるのだと、聖書は語っているのではないでしょうか。

 

18日 説 教―           牧師 山中 臨在

  「成人式」   コヘレトの言葉12:114

成人の日は、「おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日」として1948年に制定されたそうですが、自ら生き抜こうとするその人生は「すべて空しい」(8)と聖書が語っているとするなら、成人式をお祝いする気持ちに水を差すように思います。希望の書である聖書は、「人生は空しいのだから生き抜く価値はない」と語っているのではありません。ではどんなメッセージがあるのでしょうか。

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(121)と聖書は言います。青春というのは、物理的な年齢が若い、ということだけでなく、「苦しみの日々が来る」前(1)ということかもしれません。するとここで聖書が語るのは「苦しみが来る前に、創造主である神様を知って、神様との交わりの中に生きていきなさい」ということになるでしょう。神様との交わりのない人生はむなしい、言い換えれば、神様との交わりのある人生は豊かであるというメッセージをいただいているのです。

私たちの実生活には、刺激的で目新しく魅力的なものが満ち溢れています。それらに心を奪われるほど、見えない神様がどんどん遠くなってしまいます。しかしどんなに魅力的であっても、神様との交わりの中にないものは、やがて朽ちてゆき、いつしか人々からは忘れられていきます。あなたの人生がむなしいものとならず、豊かなものとなるために、「神を畏れ、その戒めを守れ」(13)と聖書は語ります。神を畏れるとは、「善をも悪をも一切の業を」(14)裁かれる神様を私たちの主権者として、神様との正しい関係の中で生きていくことです。神様から出る真理の言葉(10)は「突き棒や釘」(11)です。間違った方向に行きそうになる羊を正しい方向に導く突き棒のように、御言葉は、この世の誘惑に惑わされる私たちを正しい道に導き、また釘がしっかりと物事を固定させるように、御言葉は私たちの人生を神様から離れないようにします。突き棒や釘がひととき痛みを与えるように、御言葉は、罪にまみれた私たちには時として痛みをもたらしますが、それによって私たちが神様にしっかり結び合わされて豊かな人生に導いてくださる神様の恵みであることを覚えておきたいと思います。

成人式は、しばらく離れていた同級生などに再会する喜びの時でもあるのではないでしょうか。私たちも信仰の成人式を迎えたいと思うのです。神様からしばらく離れてしまっていた自分が、もう一度神様に再会させていただく恵みの時がこの信仰の成人式かもしれません。そうすると成人式は、18歳、20歳になった人だけではなく、ここにいる私たちすべての人に与えられているお祝いなのではないでしょうか。あなたのこれからの人生で、今が最も若い時です。今日神様の内にある成人式を皆さまと共にお祝いしましょう。

 

11 説 教―             牧師 山中 臨在

「戸越の恵み」マルコによる福音書1615

ローマの信徒への手紙12:45

ヨハネによる福音書13:14

  戸越という商店街に与えられた私たちの教会は、どんな恵みのもと、どんな使命があるのでしょうか。戸越の「と」は、江戸と相模の国(神奈川県)を結ぶ「戸」としての役割を持っているのだそうです。私たちの教会にも「戸」としての役割があります。「世に出て行って、そこに住む人々に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ1615)と聖書が語るように、教会は私たちの周りの人々と神様をつなぐ戸の働きを担う使命が与えられています。戸越の中に私たちの教会はありますが、私たちの教会の中に戸越はあるでしょうか。戸越にはどんな人がどんな思いを持って住んでおられるでしょうか。私は神学校で、地域に出て行ってその地域を歩きながら、そこに住む人々のことを覚えて祈る、ということを学びました。地域の人々のことを身近に感じ、その人たちに福音を分かち合う切実さを神様から迫られました。ぜひ皆さんと共に、戸越地区を歩いて祈りながら、「戸」としての使命を担う歩みをしたいと思っています。

戸越の「ご」は合同を表します。約400もの多くの商店が合同して、力を合わせ励まし合いながら戸越銀座という一つの共同体を形成しています。さまざまな職種のお店が互いを尊重しながら支え合っています。経営難に陥ったお店をどうやって救っていけるか皆で知恵を出し合い、廃業しなければならないお店が出ると商店街全体で痛みを分かち合うそうです。それはまさに教会の姿なのではないでしょうか。聖書が語るように、私たち教会も、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きながら(ローマ1215)、お互いに異なる部分がキリストに結ばれて一つの体を形づくるのです。喜びも痛みも共に祈り分かち合いながら歩む教会となりましょう。

戸越の「し」は信頼です。400もの商店はお互いに信頼がないと成り立ちません。そのためには時として自分の弱さ(経営難など)も人に見せる必要があるそうです。神の国を表す私たち教会も信頼がなければ成り立ちません。まず神様に対する信頼が必要ですが、同時に、神様に信頼する者同士がお互いに信頼し合うことも必要です。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と主は言われます(ヨハネ1314)。当時奴隷のする仕事だと考えられていた足を洗う、ということを主イエス自らがなさり、「仕えられるためにではなく、仕えるために来た」御自分の使命を果たすと同時に、私たちは人に仕える者になるようにというメッセージを送られたのです。また、自分の足を洗ってもらう、ということも大事です。自分のよごれやにおいを人にさらけ出すことは結構難しいことでしょう。相手を信頼しなければできないことです。戸越銀座商店街の人たちが、自分の弱さも人に話す中で互いの信頼が積みあげられているように、教会も、自分の弱さや痛みを分かち合う中で、祈りが生まれ、励ましが生まれ、主の力が一層働きます。

「とごし」の恵みと使命を担い祈り合いながら、今年も福音宣教のわざに励んでいきたいと心から願います。