説教記録2月

227日 説 教―        牧師 山中 臨在

むすんでひらいて」マタイによる福音書19:1622

一人のお金持ちの青年がイエス様のところに来て、「永遠の命を得るには、 どんな善いことをすればよいのでしょうか」(16)と尋ねました。旧約聖書の 律法は全部守っていると言うその人にイエス様は、「あなたの持ち物を全部売 り払って貧しい人たちにあげなさい」と答えます。それができないと思った青 年は去って行きました。この青年は私たち自身の姿を表しています。きっと私 たちの多くはこの青年の気持ちはよくわかることでしょう。しかしイエス様は この青年に「あなたの財産を手放せば、天に富を積むことになる」と言って、 もっと豊かになる道を教えてくれているのです。私たちは自分の持ち物を握り しめるあまり、本当の豊かさをいただく道を自ら閉ざしているのではないか、 と聖書に問われています。自分の持ち物を握ってその手を結んだままでは新し い恵みを受け取ることができません。

童謡「むすんでひらいて」はあるイギリスの牧師が作詞した賛美歌でもあり ます。「主よ、解き放ちたまえ、汝の祝福をもて。喜びと平安でこの心満たし。 主の愛を分かち合う 器となさせたまえ」と歌うこの賛美歌は、私たちが結 んだままのこの手を開かせてください、そうすれば、心の雲が晴れ、新しい者 に作り変えられ真の主の光が心いっぱいにあふれます、と歌っています。自分 の財産を手に結んだままで開ききれなかった金持ちの青年(すなわち私たち) にこの賛美歌を通して神様はメッセージを送っておられるのかもしれません。

童謡の「むすんでひらいて」は更に私たちの実生活に神様のメッセージを伝 えているようでもあります。結んだ手を神様に向かって開いたら、今まで考え られなかったような喜びを与えられる、だから手を打って喜ぼう、と言うので す。そもそも結んだ手を開かないと手を打って喜べません。そして更に、開い て打ったその手を「上に」向けなさい、と歌われます。それは主を仰ぐこと、 すなわち礼拝です。礼拝するためには、自分の固く結ばれた手を開かなければ なりません。

私は、富そのものは神様からいただいた恵みであると思いますが、「神と富 に仕えることはできない」(マタイ 624)とイエス様が言われたことは大切 です。富を神にしてしまう誘惑は大きいから、富は信仰のつまずきになりやす く、だから「金持ちが神の国に入るのは難しい」(マタイ 1924)とイエス様 がこのあとでおっしゃることにつながっていくのでしょう。今日の箇所で言わ れる「富」とは、お金そのもの、というより、富にとらわれることに代表され る私たちの自我、神を神としない罪のことを表すのでしょう。「私たちが手放 せないでいるお金、名誉、権力、他者を愛さない心、それらを握って結んだま まの手を開きなさい。それらを手放すことによって主が本当の豊かさを与えてくださいます」ということを、今日改めて心に刻みましょう。

 

220日 説 教―             牧師 山中 臨在

   「リアル二刀流」 ルカによる福音書10:2537

メジャーリーグの大谷翔平選手は、投手としても打者としても素晴らしい成 績を収め、また投手をしている試合に打者としても出場することから「リアル 二刀流」と言われます。イエス様も私たちにリアル二刀流の生き方を教えておられるようです。

イエス様は「主なる神を愛しなさい」そして「隣人を自分のように愛しなさ い」と2つの愛を示しました。「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の 二刀流ではなく、神を愛することと隣人を愛することは切り離すことのできない愛である、ということが、愛の「リアル」二刀流であるゆえんです。私たち は自分が愛すべき人は誰なのかを考える一方で、自分が愛する人を守るために 切り捨てても良い人は誰なのかを考えようとすることがあるかもしれません。 律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか」という問いには、自分が愛すべき人を選り好みする人間の高慢さが表れています。

愛の本質は何かを教えるためにイエス様は、善いサマリア人のたとえを話し ます。強盗に半殺しにされて倒れているユダヤ人のそばを通った祭司やレビ人 は助けずに素通りします。祭司やレビ人というのは、礼拝を取り仕切り礼拝で 大切な奉仕を担う人々です。神の愛を最もよく理解し、率先してその愛を示す 立場にいたはずのこの人たちは瀕死の状態の人を助けませんでした。この人を 助けたのはあるサマリア人でした。サマリア人はユダヤ人と敵対関係にありま したが、通常なら関わることがまず考えられないこのサマリアの人が、強盗に 襲われた人の隣人に「なった」のだと教えています。

「私の隣人とは誰か」ではなく「私は誰の隣人になるか」を主は問われます。 祭司もレビ人も神様を愛していたのでしょう。しかし「瀕死の人に関わると自 分が責任を持つ礼拝に支障をきたすし、死人に触れると汚れるという神様が定めた律法に違反することになる、それは自分に不都合になる、そのような状況 をもたらす人は私の隣人ではない」とする彼らの愛は、リアル二刀流ではありませんでした。主が私たちに求められる愛の二刀流は、私の隣人を私が選ぶの ではなく、主が私に会わせてくださった人の隣人に私がなる生き方です。それ はまさにイエス様の生き方でした。私たちはそのイエス様に倣う者として召されています。

サマリア人は一人で瀕死の人を助けたのではありません。実際にこの人を介抱したのは宿屋の主人です。彼らは苦しむ人の隣に行き、自分のできることをしたのです。困っている人の隣に行くこと、これが隣人に「なる」ことだと主 は教えているのではないでしょうか。

神を愛するが他者を愛さない、というのではなく、神を愛するからこそ他者 をも愛する、これがリアル二刀流の愛です。私たちはまた、強盗に襲われて瀕 死の状態になっている人でもあります。その私の隣に来て私を助けてくださった方がいます。私たちはその方の愛を受けその方の愛を知りました。だからこそ私たちは自分に示されたそのキリストの愛を、他者にも示していかなければ ならないのではないでしょうか。

 

213日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

「みことばを受け取るために」

         コロサイ信徒への手紙 3:1617

華やかなシュートが注目されるバスケットボールですが、その基礎はパスに あります。何気なく放たれているパスですが、それをしっかり受け止めなけれ ばシュートにつながりません。イエス様から放たれたみことばのパスも私たち はただ触れているだけではなく、しっかり受け止めなければ、これと同じなの ではないでしょうか。みことばに私たちは触れているかもしれないけれど、そ れをしっかり受け取らなければ前に進むことはできません。私たちがどんなに 立派な行いをしても、どんなに聖書の知識が豊富でも、みことばが受け取られ ていないならば、それは主の望まれるゴールにたどり着けません。「何を話す にせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い」なさいと聖書は語 ります。すべてを主の名によって、私たちはすべてを主の名によって行う信仰 共同体でないならば、教会はただの仲良しクラブになってしまいます。すべて はみことばから始まります。

「キリストの言葉があなたの内に豊かに宿るようにしなさい」(16)とは、 みことばと一緒に住む、ということです。一緒に住むということは喜びばかり ではなく時として面倒なこともあります。一緒に住む人と時には喧嘩したり泣 いたりします。みことばは時として理解できないことや自分の心を突き刺すよ うに厳しく響くことがあります。でも、みことばが理解できなくても、それを 受け取ることを拒否したいと思っても、イエス様は、私たちに最善の計画を備 えてその難しいみことばのパスを出しておられます。たとえ私たちにとっては 理解できない、心を刺すようなきびしいものであったとしても、私たちはそれ をまず受けなければ次に歩んでゆけない、逆に言うならば、主を信じてそれを 受け取れば、私たちには見えていないけれど主には見えている見事なシュート を打つことができるのではないでしょうか?

同じ文字で表記されていても、今日受け取るみことばは昨日受け取ったみこ とばとは違っています。だから日々みことばを受け取り続けることが大切です。 今この瞬間に放たれたみことばを、今この瞬間の受け止め方で受け取っていき たいと思います。私たちは忙しい毎日を過ごしていますが、その忙しさの中で、 ふと立ち止まってみことばを受け取りに行っているでしょうか。スピードが美 徳とされるこの時代に、みことばを取りそこなっているということはありませ んか。

食べ物はよくかみしめることで良い消化をもたらし、体を作り上げます。私 たちもみことばをかみしめる必要があるのではないでしょうか。立ち止まって みことばをしっかり受け取り、今この瞬間にしか味わえないみことばをよくか みしめる、そんな時間が私たちには必要です。

 

26日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

   「寝てもさめても」

     ヨハネの黙示録 3:1922

昨年 11 月に召された富田敬二先生は、寝てもさめても伝道一筋でした。そ の富田先生が繰り返して語られた聖書のメッセージが今日の箇所に記されて います。「イエス様がたたき続けてくださる戸を開けるのはあなたの仕事です、 今開けましょう!」という招き、そして「戸を開けたらイエス様と共に祝福の 食事をすることができる」その喜びが語られている箇所です。イエス様が食事 をされる場面が聖書には何度も描かれています。そして「イエスは大酒飲みの 大飯食らいだ」と揶揄する人たちもいましたが、しかし一緒に食事をするとい うのは、最も親密な結合関係の表現です。そしてそれは、本来イエス様と共に 食事につくことができない罪人の私たちにも主が共にいてくださり、イエス様 と共に、神の栄光の中にいさせていただく測り知れない愛と恵み、また絶える ことのない喜びと平安を表す事柄なのです。イエス様の私たちに対する深い愛 が示されているのは「たたいている」(20)という言葉です。現在形なのです。 イエス様がノックしているのに応答しない私たちですが、イエス様は忍耐強く たたき続けてくださっているのです。そうまでしてこの「私」がイエス様の愛 を受け取ることを、あきらめずに期待し続けてくださっているのです。

私たちはそのイエス様の招きに応えて戸を開けたいと思うのですが、戸を開 けることが怖い場合もあるかもしれません。誰が戸をたたいているかわからな い時、戸を開けるのをためらいませんか?

イエス様は「わたしの声を聞いて戸を開ける者」(20)になってほしい、と 言われます。あなたの戸をたたいているのは、得体の知れない怪しい人・怖い 人ではありません。むしろあなたのことを誰よりも知っていて誰よりもあなた を愛し、あなたのために十字架に死んでくださる方です。でもその声は「よく 聞かなければ」わかりません。「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたり する」とイエス様は仰います(19)。愛ゆえに叱るその声が、私たちには優し い声に聞こえない時があります。冷静さを失ったり恐ろしく感じたりします。 だからこそ「熱心に努めよ」(19)と主は言うのです。「努めよ」という命令 形は「いつも」「し続けなさい」という意味です。まさに寝てもさめても、主 の声をよく聞きなさい、と聖書は私たちに迫ります。

 

「わたしの声を聞いて戸を開けなさい」というイエス様の言葉は、未信者の 方にだけ語られているのではありません。むしろクリスチャンの方々にも大い に語られているのではないでしょうか。「冷たくもなく熱くもない」(315) 信仰を持っている私たちに、「時が良くても悪くても、喜びにあふれる時も、 不安や恐れに打ちのめされそうになる時も、寝てもさめても主の言葉を聞き続 けなさい、寝てもさめてもあなたの戸を主に開けて祈り続けなさい」とイエス 様は語り続けておられるのです。ぜひ今、あなたの戸を主に向かって開けてく ださい。