説教記録(2月)

23日 説教―               牧師 松村 誠一

           「神の前に豊かに生きる」

イエス様の時代、ユダヤでは裁判の争いで一番多かったのが遺産問題であり、この遺産問題は大変複雑でなかなか納得のいく判決が得られなかったようです。群集の一人がイエス様の宗教的権威を利用して、相続争いに勝ち、遺産を自分のものにしようとしたのではないでしょうか。

 イエス様はその相談者の魂胆を見抜かれ、誰が私を裁判官や調停人に任命したのか、と問われ、貪欲に注意するように促しています。そしてイエス様はその後で「人の命は財産によってどうすることもできない」ということをたとえ話をもって教えております。

 このたとえ話ですが、金持ちの畑が豊作だったのです。この金持ちは一生懸命働いたのでしょう。そして沢山の収穫を得ることが出来たのでしょう。そして収穫したものを蓄えるために、今までの小さな倉を壊し、大きな倉を建てて、そこに収穫物を収めたのです。このたとえ話の金持ちの男ですが、新共同訳聖書には訳されておりませんが、聖書原文には“わたしはどうしよう”“わたしの作物”“わたしの倉”と「わたし」いう言葉が繰り返し記されております。イエス様がたとえ話を話される前に「どんな貪欲にも注意を払いなさい」と語っておりますが、まさに自分の欲に執着して飽くことを知らない男の姿が描かれています。またこの男は物質によって魂を満たそうとしています。この思いは私たちを含め、現代人の思いではないでしょうか。現代人は魂の渇きを物質で満たそうとしているのではないでしょうか。またこの男はこの世の時間を、自分の支配下にあると勘違いをしています。イエス様はたとえ話を続けます。「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」と。神様はこの世の時間も支配されているのであり、その神様が私たちを支配されているのです。ですからヤコブの手紙に記されておりますように、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うのが私たちの取るべき態度であり、考えでなければならないのではないでしょうか。

 このイエス様のたとえ話は、こんにちの日本社会への警鐘として聞いていかなければならないと思います。物によっては魂は満たされないのです。お金では人間の幸福、心の平安は買うことが出来ないのです。そのことを知りつつも私たち現代人は、物で魂の渇きを満たそうとしているのではないでしょうか。私たちの魂は、主イエス様によって豊かにされるのです。私たちの魂はイエス様を救い主と信じる信仰を頂くことによって豊かにされていくのです。私たちの魂は、永遠の命を頂くことによって豊かにされていくのです。豊かにされた魂は兄弟姉妹との交わりを喜び、兄弟姉妹に仕える者となっていくのです。今朝、私たちは物によって魂の満足を得ようとしている自分をはっきりと見つめ、その愚かさを悔い改め、神の前に豊かに生きる者でありたいと思います。

          (ルカによる福音書121321節)

 

210日 説教―         牧師 松村 誠一

      「不正な管理人」のたとえ

イエス様が話された「不正な管理人のたとえ」を共に見てゆきましょう。この管理人は、管理していた土地からの収入をごまかして、かなりの金額を着服していたのでしょう。この管理人が不正をしていると地主に告げ口をした人がいたのでしょう。地主である主人は管理人を呼びつけ、会計報告を出すように命じております。不正な管理人は、この時期に会計報告を出すように、ということは不正がばれてしまったのだと察知したのです。そこで解雇は免れられない、次の手を考えるわけです。次の手とは、主人の財産を貸し付けている相手に、その貸付金額を半分に、あるいは20%引きしたりして、貸付先に恩を売り、自分が解雇された時に雇用してもらおうとしたという話です。

 このたとえ話ですが、ごまかされた主人は、この不正をした管理人の抜け目ない、やり方を褒めております。こんにちの問題として考えるなら、役人が天下る先の企業が儲かるように、仕事を集中的に発注し、そして自分が天下ったら、その企業から多額な給与を貰うというようなことが賞賛に値することでしょうか。このような問題はこんにちにおいても、そしてイエス様の時代においても受け入れられることではないでしょう。しかし、イエス様はたとえ話のまとめとして、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」と語っています。これはどのように理解すればいいのでしょうか。

 新約聖書神学者大貫隆先生の書かれた「イエスという経験」の本の中で先生は、これはイエス様の苛立ちがあらわになっている箇所であると述べております。その苛立ちとは、イエス様にはもう、神の国が始まっていることが見えているのだが、弟子たちをはじめ、当時の人々がそのことに気付いていないことに対して苛立ちを覚え、このたとえ話をしたのであると述べております。このたとえ話の管理人のように、自己保全のためなら、不正なことまでしても時機を捉え、チャンスを逃さずに実行に移している。それなのにあなた方は神の国のことになると時機を見極めることが出来ない。そのことがイエス様によって皮肉を込めて語られているのだと記されていました。

神の国はイエス様が語り示してくださったように始まっているのです。私たちは信じる信仰により、神の国の事柄をおぼろげにではありますが垣間見ることが赦されています。もちろんこの世は神の国そのものではありませんが、神の国に生きる喜びを先取りして今を生きることが赦されているのです。

そしてやがて私たちは神の国に招き入れられるのですから、その神の国を先取りし、神の愛に生きる者として互いに愛し合い、神の国を指し示す者として歩んでまいりたいと思います。

      (ルカによる福音書16113節)

 

217日 説教―           牧師 松村 誠一

      「イエスの招きと悔い改め」

見出しに「レビを弟子にする」箇所はマタイにもマルコにも、ほぼ同じことが記されています。それはルカもマタイもマルコによる福音書を手元にもっており、そのマルコによる福音書を見ながら自分の福音書を書き記したことによります。内容的にほぼ同じことが記されておりますが、読み比べてみると、いくつかの違いがあることに気付かされます。

 さて、テキストを見てまいりましょう。イエス様は徴税人レビに「わたしに従いなさい」と声をかけ、弟子に招いております。徴税人レビはとても嬉しかったのでしょう、自分の仲間を大勢集め宴会を催しております。当時 徴税人というのはローマ政府から雇われ、ローマ政府のためにユダヤ人から税金を取り立てておりましたので、同胞ユダヤ人からは罪人と呼ばれ、嫌われておりました。その徴税人と一緒に食事をしているイエス様を見たファリサイ派の人々は面白くなかったのでしょう、イエス様の弟子たちにこう言っております。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と。その話しはイエス様にも聞こえたのでしょう。イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と語りかけております。

ルカは自分の福音書を書くに当たり、マルコによる福音書を自分の手元に持っていたのです。しかしマルコによる福音書には、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」だけで、「悔い改めさせるためである」は書かれておりません。

青野先生は御自身の著書「パウロ―十字架の使徒」の中で、“ルカの誤解”と題して次のように述べておられます。「ルカの特徴についてはこれまでも述べてきたが、新約聖書の他の福音書と比べて、ルカは特に「悔い改め」の必要性を強調する傾向がある。実際、<ルカによる福音書>では15回、<使徒言行録>では11回、「悔い改め」という単語が使われている。一方 <マタイによる福音書では7回、<マルコによる福音書>では3回である。とくに、ルカが執筆の参考にしたと考えられる<マルコによる福音書>との差が際立っている。ルカがいかに「悔い改め」にこだわっていたかが浮き彫りになるだろう。」

青野先生が指摘されておられますように「悔い改め」が神の「ゆるし」の条件でないことをおさえないといけないわけですが、神からの無条件で赦されていることを知り得た者は、“あ、そう”では済まされない。まさに自らの罪深さに気づき、悔い改めざるを得ないのではないでしょうか。神の無条件の赦しは、人を“悔い改め”へと向かわせるのではないでしょうか。ルカ自身が神の無条件の赦しを頂き、まさに罪人の私を招いてくださっているイエス様よって悔い改めさせられたからではないでしょうか。イエス様は私たち全て罪ある者を無条件に赦し、“われにこよ”と招いてくださっているのです。その招きを感謝して受け入れ、悔い改め、主に従う者として歩んでまいりましょう。

     (ルカによる福音書52732節)

 

 

224日 お話し:子どもと共なる礼拝 片桐 健司兄

        「こんな夜更けにバナナかよ~」

  水泳選手の池江さんが白血病にかかったというニュースを聞いてびっくりしました。でも命に関わるような大変な病気になったのに、「神様は乗り越えられない試練は与えない」と、強く生きる気持ちを表していました。この言葉は聖書にある言葉です。

■誰でも必ずその人生の中で試練にぶつかります。試練にあわない人はいません。しかしその試練は必ず良い実を結ぶと、これも聖書に書いてあります。

■「こんな夜更けにバナナかよ」という映画を見ました。筋ジストロフィーという病気にかかって、一人では生活できない男の人の話です。その人は、たくさんの人に手伝ってもらって生きています。自分では思うように動けないし、命の危険もあるので、本来病院にいなければいけない人なのに、普通に街の中で生きていきたいと、たくさんのボランティアを募集して、自分の家で生活しています。

■映画は、その人が、「新聞読む!眼鏡かけて!背中かゆい!」とそこまで言わなくてもいいのではないかと思うくらい、周りの人に強く言ってやってもらっているところから始まります。

■そこへ、デートの約束をボランティアするからと恋人に断られた女の人が、うそではないかと確かめにやってきます。そうしたら彼は本当にボランティアをそこでやっていたのですが、その彼も言われたこととちがうことをやってしまい、おこられていました。

■そんなとき、突然電話がかかってきて、その夜、ボランティアで来る予定の人が急に来られなくなってしまったと伝えられます。「困ったな、今夜俺はどうすればいいんだよ。そうだ、その二人、今夜泊まってよ。」そう言われて恋人どうしのその二人はいやいや、泊まる事になりました。

■夜中になっても、その人は寝ないでテレビを見ています。「もう休んだらどうですか?」「俺は不眠症なんだ。そうだ、バナナが食べたい、バナナ買ってきてよ」とうとうその女の人は夜中にバナナを買いに行かされました。

■最初は怒っていたその女の人ですが、彼がなぜそんなに周りの人にいろいろ言うのか、少しずつ分かっていきます。

「障害者が人生楽しんじゃいけないのかよ」「人はできることよりできないことの方が多いんだ」という言葉にも表されているその人の生き方は、必死に生きようとしている人の姿でした。

■「求めなさい、そうすれば与えられる」という今日の聖書の言葉は、つらいこと、苦しいことがあっても、自分のせいだ、人に迷惑をかけてはいけないと思わずに、まず求めることが大切だと言っています。自分ではできなくても神様ならできます。一生懸命生きようとするなら、神様はどんな願いでもきいてくれます。うまくいかないことはたくさんあります。でも絶望することはありません。走ったことは何一つ無駄ではない、勝利は約束されているのです。

(マタイによる福音書7712)