説教記録2018年2月

 

218日 説 教―             牧師 松村 誠一

        「イエス様があがめられますように」

 このフィリピの信徒への手紙は、パウロが福音を語ったがゆえに捕らえられ、いつ処刑されるかわからない状況の中で書かれた書簡です。

 パウロは「他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。」(フィリピ11718節)と述べております。これはパウロに敵対している人が、教会員の関心を買うために、うわべだけの、耳障りのいい福音を語っている。しかし、そういう人が語った福音にせよ、キリストが告げ知らされているだから、伝えられているのがキリストなのだから、私はそれを喜ぶ、と言っているのです。

 自分に敵対する者を受け入れ、是認する。是認するどころか“喜んでいます”と語っています。これは本当に難しいことではないでしょうか。私たちはちょっと意見が違ったり、考え方が違いますと、鋭く違いを指摘し、対立、排除という図式を作り出していくのではないでしょうか。ましてや、自分を苦しめようとする人であれば、赦しておくことなど出来ないのではないでしょうか。

 パウロは、そのような人物には関心を示さないのです。ただキリストが告げ知らされているかが、関心事であり、キリストが告げ知らされていることを喜んでいるのです。

パウロの生き方は徹底して、キリストがあがめられることでした。キリストがあがめられる生き方とは、どのような生き方なのでしょうか。それは神の意志に忠実に歩んだイエス様の生き様を語り告げ、あのイエス様こそキリストであることを生活を通して語っていくことです。そのイエス様ご自身の生き様は、当時のユダヤ社会から罪人と呼ばれ、社会からはじき出されていた、遊女や、徴税人、また社会の底辺の人。そういう人々にあなたがたこそ、神に愛され、神は誰よりもあなた方を心に留めておられるのだと語り、そしてイエス様ご自身が遊女、徴税人と共に生き、神の愛を具体的に生活を通して示されたのです。このイエス様の生き様に触れた人々は、今までの人生観、物の考え方が180度、変えられていったのです。

 この現代社会において、多くの人々が自分のために、自己充足を目的に人生を送っています。そして多くの人々が生きることの意味さえ見出せず悩んでいます。この現代社会において、私たちはイエス様に突き動かされて、他者のために生きることをこころざし、人生を送っていきたいと思います。それがどんな小さなことであっても、イエス様に突き動かされて、他者のために自分をささげている人は光輝き、多くの人々に感動を与えています。またそれが自分自身の真の喜でもあるのです。

              (フィリピの信徒への手紙11526節)

 

 

211日 説 教―         牧師 松村 誠一

 「義のために迫害される人々は、幸いである」

山上の説教を続けて学んできましたが、その学びを少し振り返ってみたいと思います。私たちの“幸い”は英語のhappyの“幸い”ではないでしょうか。願いが叶っての“幸い”、あるいはたまたま手に入れた“幸い”であり、その“幸い”は自分が得すること、自分にとって良いことが前提になっているのではないでしょうか。そして私たちはこの“幸い”を追い求めているのではないでしょうか。しかしイエス様が語っておられる「幸いである」というこの幸いは“神の然り”によって与えられる“幸い”です。苦痛のさ中にも、痛みがあっても、損失を被っても、イエス様が幸いだと、宣言して下さるが故の幸いです。イエス様の然りによって天の国での幸いを、イエス様のこの言葉を聞く者に先取りして与えて下さる幸いです。

イエス様は「義のために迫害される人々は、幸いである」と語っておられます。義のために迫害されるとは正しい判断、正しい発言、正しい行為によって被る迫害です。何故、正しいことが迫害の対象になるのでしょうか。それは罪ある人間が形づくる社会は悪に満ちているからです。悪に満ちている社会での“正しさ”は、悪を裁く力をもっているからです。それゆえに正しい人、正しいことを言う人、行う人は迫害を受けることになるのです。

戦後間もなくして若松バプテスト教会の牧師としてお働きになった元衆議院議員の吉田敬太郎先生が戦中、戦後体験されたことをまとめられた本「汝復讐するなかれ」を少し紹介したいと思います。吉田敬太郎先生は戦争中、今おこなっている戦争はやめなければならない。東条軍閥、政治家が推し進めている戦争は正しいことではない。そのことを公に言い、また行動を起こしたために皇室不敬罪、造語蜚語罪、言論出版取締法違反などの罪名で逮捕され、裁判にかけられ、懲役3年の判決がくだされます。そして投獄され、獄中で死を覚悟しなければならないような迫害を受けるのです。

吉田敬太郎先生はその迫害のさ中に聖書を読み、聖書の言葉により「それまでは地獄の火のように燃えさかっていた軍部への密告者や迫害者たちに対する怒り、のろい、恨み、復讐の執念などが、いっぺんにスーと消えてゆくような気がした。」述懐しておられます。それから終戦を迎え、出獄し、キリスト者となり、牧師になられた先生です。

まさにイエス様が「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と語られた、その幸いを生き抜かれたのです。この幸いは、必ず喜びが伴います。義のために迫害にあっても、苦痛のさ中にあっても、損失を被っても喜びが伴います。それは天の国での幸いを、イエス様の、この言葉を聞く者に先取りして今、与えて下さるからです。

      (マタイによる福音書51012節)

 

 

24         牧師 松村 誠一

     「心の清い人々は、幸いである」

 今日の聖書の箇所「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」。この教えもこれからイエス様がご自分の生涯をかけて、宣べ伝えていくとても大切な教えであると同時に、神様から命を頂いた者が約束として与えられるものであります。心の清い人とはどのような人でしょうか。イエス様は当時の祭司長や律法学者、ファリサイ派の人たちの誤った“清さ”を正し、神様が望んでおられる“清さ”を指し示めさなくてはなかったのです。当時のユダヤ教においては“清さ”を保つための様々な律法が定められておりました。律法学者、祭司、ファリサイ派の人々はこの清めについての律法を厳格に守り、そして自分は清い人間であることを誇りに思っておりました。

しかし、イエス様はそれは外見だけ、心は清くないと痛烈に批判しております。マタイ23章はそのはじめの見出しに記されております通りイエス様が律法学者とファリサイ派の人々を非難しております。心の清いということが分かりやすい箇所2526節を見てみましょう。イエス様は「あなたたち偽善者は不幸だ。」と語っております。この“偽善者”とは、役者とも訳せる言葉であります。あなたたち役者は不幸だ、ということです。なぜ彼らは“役者”と言われているのでしょうか。それは演技をしているからです。彼らは「杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。」と言っております。杯や皿、これは神殿で行われる儀式の時に使われた杯や器でしょう。彼らは律法の教えに従い、杯や器を洗い清め、儀式に臨んでいたのですが、ところがそれは演技だという指摘です。いくらうやうやしく儀式を行っても、その本人は強欲と放縦に満ちているという指摘です。人前で演技をし、心は清さなどから遠い存在であるのに、清い人間ぶる。そうあってはならない、とイエス様は教え、心の清い人になれ。いや、私(イエス)の教えを聞き、清い人となるのだ、と語りかけているのです。この箇所から、私こそが清さを演じている「偽善者」なのだ。イエス様はそうあってはならいのだ、心の清い人とならなければならないのだと語りかけてくださっていることに気付かされました。心の清い人とはまずは自分自身で偽善者的存在であることを認識し、その存在をイエス様の前に告白し、赦して頂く者でしょう。いつもイエス様の言葉を聞いていく者でしょう。イエス様の言葉を聞く者は、イエス様の言葉によって清い者へと導かれていくでしょう。

この山上の説教とは、単なる教えではありません。イエス様の然りであり、イエス様が心の清い人へと導いて下さる。その約束でもあります。「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」。これはイエス様の約束です。私たちは、イエス様に「心の清い人々」と呼ばれる存在になることを確信し、日々、御言葉を聞き、また悔い改めて日々過ごしてまいりましょう。

            (マタイによる福音書5-8)