2017年2月記録

 

226日 説教―              牧師 松村 誠一

          「思いやりに溢れているイエス様」

ヨハネによる福音書の著者ヨハネは、紀元一世紀後半に生き、生活をしていた人物です。そのヨハネが、イエス様は「わたしたちの間に宿られた」「わたしたちはその栄光を見た」と語っております。紀元一世紀後半にはイエス様はこの世におられません。イエス様はおよそ紀元30年頃に、十字架刑によって処刑されてしまっているのです。著者のヨハネとその教団の人々は死より復活をし、今霊なるイエス様の働きを、体験していたということです。「栄光」とは神の活動の姿です。神がいかなる神であるかを神ご自身が人々に具体的に示す行為であります。その神ご自身が人々に示したその活動の姿は「恵みと真理に満ちていた」のです。私は、恵みとは“神の限りない思いやり”であることに気付かされました。神の愛してやまない思いやりを霊なるイエス様の働きを通してヨハネ教団の人々は体験していたということであります。

ヨハネ教団は一世紀の後半、信仰の地をシリア地方に見出し、その地で神の限りない思いやりの中で信仰生活を営むことができたのでしょう。その神の限りない思いやりを具体的に示してくださったのが、バプテスマのヨハネが「わたしよりも優れている」と言っていた方なのだ、ということを歴史をさかのぼり訴えているのです。そしてさらに著者自身がイエスの偉大さを語り伝えています。16節ですが、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に,更に恵みを受けた」と。イエス様の満ち溢れる豊かさの中から、思いやりにさらに思いやりを受けた、と述べています。 ヨハネ教団の人々は、激しい迫害に遭いながらも、イエス様を信じ、受け入れ、ユダヤ教から分離して、信仰の群れを築いていたのでしょう。その教団が直面していた数々の苦難の中においても、霊なるイエス様の思いやりに包まれており、何一つ欠けるものもなく、満ち足りていたのでしょう。そして著者のヨハネはとても重要なことを語ります。イエス様の思いやりとは、モーセの律法では救われない我々が、イエス様の思いやりによって神によしとされ、救いに与れるのだ、ということが述べられているのです。18節は、こんにちの私たちに取りましても真理であります。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。

人類が誕生してから、今日に至るまで、この世に生きた人で神を見た人はいないでしょう。これからもいないでしょう。しかし、ここに記されているように、父のふところにいる独り子である神、イエス様が神を示して下さったのです。このことのゆえに、私たちはイエス様を通して神の御手の中で、私たちは育まれているのだということに気付かされ、神に感謝して生きる者へと導かれているのです。霊なるイエス様は、この世でのご自身の生き様を、あのヨハネ教団の人々に思い起こさせ、そしてその人々の中でご自身の姿を顕わし、その人々を通してさらに多くの人々に、ご自身を顕されるのです。

そして今でも、イエス様に服従する人々の中に自らの姿を現され、この世界は神の御手によって育まれていることを示しておられるのであります。こんな不信仰な私たちであってでもです。私たちが顕すのではなく、信じる者に霊なるイエス様ご自身が働き賜い、ご自身を顕されるのです。

             (ヨハネによる福音書11418節)

 

 

219日 説教―               牧師 松村 誠一

                「悪魔の策略」

手紙の著者は、見出しに記されていますように、「悪と戦え」と当時のキリスト者に呼びかけております。「悪と戦え」とは具体的にどのような戦いなのでしょうか。キリスト者の敵とは誰なのでしょうか。それは私たちキリスト者を含め、人間を神から引き離し、私たちを暗闇へと招き入れる悪の諸霊、悪魔が私たちの敵なのです。

 この現代社会で悪魔が私たちの敵だなんて、漫画の世界じゃないか、と多くの方が思われるかも知れません。加賀乙彦氏は著書「悪魔のささやき」の中の“人の心の奥底に潜むもの”の項で「つらつらと考え私なりに出した結論は、やはり悪魔はいるだろうということです。どんな姿をしているのか、肉体などなく霊的な存在なのか、そういったことはわからないし、これからもわかりえないでしょう。しかし、これだけは断言できます。少なくとも私たちの心のなかには、悪魔的なものが断固として存在している、と。」述べています。

その通りではないでしょうか。悪魔の策略に勝利していくには、私たちもこの聖書の言葉を聞いていかなければならないでしょう。それには主に寄り頼み、強くなることです。そしてその戦い方でありますが、「神の武具を身に着けなさい」と命じております。神の武具ですが、第一に「立って真理を帯として腰に締める」ことが勧められています。私たちが神の真理から離れないように、その神の真理の中で生活せよ、という勧告です。そして次に「正義を胸当てとして着けよ」と命じております。エミール・ブルンナーは、正義とは神が与えて下さった愛以外の何ものでもない。この神の愛に包まれる時に、人間は正しいことを行うのだと述べております。私たちが神の愛に包まれているならば、私たちは自分の良心、自分の真実な思いに反して、悪魔の策略などに屈してしまうことはないでしょう。そして「平和の福音を告げる準備を履物としなさい。」と命じております。平和とはイエス・キリストにおいて実現している平和です。その平和を得ている者は、その平和をいつでも語る者でなければならないのです。そ平和を語り伝えることにより、平和は実現していくのです。悪魔の策略によって放たれる鋭い矢も、信仰の盾が受けとめてくれるのです。さらに「救いの兜をかぶりなさい」と命じております。救いは、一度救われたら、いい、というものではありません。救いは、イエス様を信じ続けることにより、救われ続けるのです。イエス様を信じ続け、信仰に生きよ、との勧めです。最後に唯一相手を攻撃する武器があげられています。それは霊の剣です。霊の剣とは、「神の言葉である」と述べられています。聖書の言葉です。この聖書の言葉は、神の霊の働きによって″霊の剣“となるのです。

悪魔の策略、それは人を介して,あるいは物やお金を通して臨んでくることもあるでしょう。 しかしいずれにしろ最終的には、この私、という人格そのものに働きかけてくるものであることを認識していなければならないと思います。加賀乙人氏も言っておりますように、誰の心にも、悪魔のささやきがある、ということです。私たちにもです。私たちはこのような時代だからこそ、この悪魔のささやき、悪魔の策略に勝利しなければなりません。勝利するためには今まで見て来ましたように、私たち自身がイエス・キリストを信じ、日々御言葉を頂き、信仰に生きることです。教会生活を共にし、励まし合い、悪魔の策略に対抗して立つことが出来るように、神の武具を身に付けて、日々歩んでまいりましょう。

         (エフェソの信徒への手紙61020節)

 

 

 212日 説教―               牧師 松村 誠一

               「価値の転換」

 パウロはフィリピの教会員に、イエス様の出会いによって価値観が変えられたことを語り伝えています。イエス様に出会う前のパウロの価値観が56節に記されています。八日目に割礼を受ける、これは正統なユダヤ教の儀式によるものです。イスラエルの民に属している、ということは神に選ばれた民に属していることであり民族の最高の誇りでした。しかもベニヤミン族の出身。イスラエル12部族の中でもヤコブの正妻ラケルの子供で、特別な部族としての評価を受けておりました。ヘブライ人である、つまりヘブル語を母国語としていたということです。言語とは日常の生活習慣と密接に関わってきます。毎日の生活もユダヤ人として生活をしていたということです。生まれ、育ち、家柄、宗教的にも生活習慣的にも申し分のない、他者から抜きに出ていたのです。パウロはさらに、「律法に関してはファリサイイ派の一員。熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については、非の打ちどころのない者でした。」と語っております。パウロ自身、非常に努力をして当時の価値観に生きていたことを告白しております。 

ところが、そのすべては人間の肉的思いから来ているものであることがイエス様によって示されるのです。生まれや、家柄、あるいは人間の能力、これらのものは、人間の肉的な思いから来ているのではないでしょうか。そしてそれらに人間の救いの基準があるならば、イエス様は全く必要ないでしょう。パウロはイエス様との出会いにより、「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損出と見なすようになったのです。」と告白しております。

イエス様に出会い、イエス様の生き様によってパウロは価値観が変ってしまったのです。そのイエス様の生き様を思い出して頂きたいのですが、姦淫の女がイエス様の前に引き連れられて来た時、当時の信仰深い人たちは石打の刑に処するのが当たり前であり、正しい考え方でした。しかしイエス様はあなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい、と言われ、この女を処罰なさいませんでした。イエス様は世間で罪人と呼ばれている人、汚れていると差別をされている人々の友となり、彼らを憐れまれました。イエス様はいつも弱い人を憐み、その傍らにいて下さいました。イエス様を信じるということは、イエス様の示す価値基準に生きるということであります。

さて、私たちの価値基準はどこにおいているでしょうか。この世の価値基準に生きているのではないでしょうか。自分自身はどうなのか言いますと、相変わらず、この世の価値基準に身を置いておいていることに気付かされています。そこに立っての発言、振る舞いはこの世に受け入れられるから、なおさらこの世の価値判断、価値基準に身を置いてしまうのです。しかしそうであってはならない、といつも自分に言い聞かせております。弱い私たちですから、ついつい、イエス様のことを忘れて、物事を考え、発言してしまいます。しかしイエス様がここにいらしたら、どのようになさるか、その視点で物事を考え、発言出来るように信仰生活を共にしてまいりましょう。

   (フィリピの信徒への手紙3411節)

 

 

25日 説教―               牧師 松村 誠一

           「外国人でも寄留者でもない」

 パウロはイエス・キリストはイスラエルの民だけの救い主ではない。全ての民の救いのためにこの世に来られたのだということを語り伝えました。そのパウロの福音宣教により、異邦人が信仰に導かれ、福音は全世界へと宣べ伝えらえてゆきました。

 しかしユダヤ人たちは異邦人に神の救いの御手が差し伸べられていることは、なかなか受け入れることが出来ず、異邦人に対して激しい敵意を抱いておりました。また異邦人もユダヤ人に対して、快く思っておらず、お互いに憎しみ合っておりました。そのような中、エフェソの信徒への手紙の著者は「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ21416)と語り教えております。この聖書の箇所は、読むたびに心を打たれます。

そして今日こそ、この言葉はすべての人々が、とりわけ、米国の大領領トランプさんが聞かなければならないメッセージではないでしょうか。実にトランプさんは隔ての壁を築き、敵を作り、憎しみを増長させているのではないでしょうか。

エフェソの教会の構成メンバーは割礼のない者、神の救いからもれた民であるといわれた人々です。それゆえに「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」人々です。しかし、救い主であるイエス様を信じる信仰において、「外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族」であると告げられています。

このメッセージはまさに現代の私たちに語られているのではないでしょうか。敵意、争い、憎しみが充満している今日の社会で、私たちは主イエス様によって信仰が与えられ、神の愛に包まれていることの幸いを感謝しなければならないと思います。そしてイエス様の生き様、語られたこと、考え、ふるまいに目を注ぎ、何が神のみ旨なのかを知る者へと導かれておりますことを感謝したいと思います。そしてイエス様を信じる兄弟、姉妹が共に集い、このように信仰の群れを築き、聖なる民に属する者、そして神の家族であることを感謝したいと思います。 その関係はイエス・キリストを信じる信仰において、築かれるのです。教会のかなめ石はイエス様です。私たちがイエス様に固着するならば、そのイエス様の教えに従うならば、家族の関係が成立するのです。今、人々が求めているのは、家族のような人間関係です。しかし私たちは家族のような関係ではなく、神の家族なのです。そしてその関係の中で、信仰生活を送ってまいりましょう。律法的にならず、律法で縛られるのではなく、愛により、愛に促され、愛に押し出され、神の家族としての絆を深めてまいりましょう。

         (エフェソの信徒への手紙21922節)