記録

 

228日説教―           牧師 松村 誠一

       「神の国に招かれている子供たち」

 「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(マルコによる福音書1013節)

 弟子たちは、子どもたちを連れて来た人々を叱っております。なぜ、弟子たちが叱ったのかについては具体的に記されておりませんが、想像できることは、いつも多くの群衆を相手に神の国について説教し、休む暇もないイエス様。イエス様をこれ以上疲れさせてはいけない、という思いからではないでしょうか。ところがイエス様はこの弟子たちの判断、行為に憤っております。そして「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(101415節)と弟子たちに語りかけ教えています。

これはどういう意味でしょうか。当時のユダヤ人の一般的な判断、考え方によると、子供は律法について何も知らず、それゆえ律法を守ることも出来ない子どもたちは、神の国から遠い存在でした。イエス様はまさしく神の国から遠い存在である子供たちが、神の憐みによって神の国に招かれているのだ。神からの無条件で差し出され神の国は、ただ受けることによって入ることが出来るのだ、ということが語られているのです。律法的に何の功績もない子どもたちに、無条件で神の国を約束するイエス様は、子供に対する神の愛と恵みを示しているのです。「子供のようにとは」無力であると同時に神への信頼を意味する言葉でしょう。そして「子供のように」とは実は無力であるまさに私たちであり、私たちに対する招きの言葉として聞いていくことが求められているのです。

今朝の少し前ですが、933節からの箇所に、弟子たちの間で誰が一番偉いかを議論していた所が出てまいります。この誰が一番偉いのかの議論は、この世の価値観による議論でしょう。弟子たちはここに及んでも信仰を働き、功績に置き換え議論をしています。イエス様は神の国は働きではない、功績ではない、業ではない、人間の努力によって勝ち取るものではない。神の憐みよって神が招いてくださる、その招きをただ受け入れることによって自らのものにすることが出来るのだ、ということを弟子たちに、そしてこんにちこの聖書を聞く私たちに語りかけ教えているのです。

私たちも何の功績もない子供を無条件で神の国に招いて下さるイエス様を信じ受け入れ、自らを低くし、自らを小さき者と理解し、イエス様の教えに従い、神の国に招かれている者として歩んでまいりたいと思います。

    (マルコによる福音書101316節)

 

 

 

221日 説教―            牧師 松村 誠一

            「正しい自己認識」

 イエス様はその公生涯の初めはバプテスマのヨハネと一緒に行動を共にしていましたが、やがてバプテスマのヨハネのグループから離れて御自分の弟子を選び、ご自身の福音宣教活動へと進んで行くわけでありますが、今朝の聖書箇所はその丁度その時の事が記されています。

 バプテスマのヨハネはイスラエルの民に罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを受けさせておりました。バプテスマのヨハネは罪の指摘と悔い改めを迫ったのに対して、イエス様は、独り子を、つまりイエス様を信じる信仰、その信仰を持つようにと群衆に語り伝えております。そしてそのイエス様の評判がバプテスマのヨハネよりも高くなり、群衆もバプテスマのヨハネからイエス様へと流れていき、イエス様はまさに時の人になろうとしていたのであります。そのような時にヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で清めのことで論争が起こっております。ヨハネの弟子たちのイエス様のグループに対する嫉妬が元となったのでしょう。なぜイエスが時の人として群衆から注目されているのか、ヨハネの弟子たちには受け入れることができなかったのでしょう。

 しかし、師であるヨハネは弟子たちの嫉妬の思いや憤懣に次のように答えております。「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない。わたしは、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証してくれる。」(2728節)ヨハネは自分自身をこのように理解していたのです。ヨハネはイエスのところに沢山の群衆が集まって来ている。それは天から、すなわち神が与えて下さっているからだ、神が与えて下っているからこそ、イエスの周りに多くの群衆が集まってきているのではないか、とヨハネは弟子たちに教えているのです。そしてヨハネは巷ではメシアではないか、とも噂をされていたのですが、自分はメシアではない、そして自分は「あの方の前に遣わされた者」であることをはっきりと伝えております。自分自身を正しく認識し、その認識は世間の噂や、取り巻きたちの誘惑にも曲げられることもなかったのです。ほとんどの人間は本当の自分よりも、少しでも高い地位に、少しでも有名に、少しでも権力ある立場に立とうとする思いがあるのでないでしょうか。

自分については自分自身が一番よく理解しているということは確かでしょう。しかし、自分のことは自分自身が一番知らないということも事実です。ですから本当の“私”を知るためには、他者が“私”をどのように見ているかを知ることも大切であると思います。しかし一番正しい自己認識は、イエス様を通して“私”を見ていくことだと思います。私は何者なのでしょうか、とイエス様に尋ね求め、イエス様に従って行く時に、本当の自分自身に出会うことが出来るのです。イエス様の出会いにより、正しく自己を認識し、イエス様に従いつつ与えられた人生を共に歩んでまいりましょう。

                (ヨハネによる福音書32230節)

 

 

214日 説教―          牧師 松村 誠一

          「イエス様につながって」

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書316節)

 神はこの世、すなわちすべての人々を愛しておられる、その愛を具体的に示すために独り子イエス様をこの世に遣わしてくださったのです。そしてそれは独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。永遠の命とはどのような命なのでしょうか。永遠の命とはイエス様によって与えられる命、この世の命とは質的に異なる命です。その命とはイエス様との交わりによって与えられる命と言えるでしょう。この永遠の命は、永遠であるがゆえに、私たちのこの肉体が滅んでもなお与えられる命です。すなわち神の国における命なのです。この永遠の命は“死んで与えられる命”ではありません。イエス様を信じる信仰によって神の国の命を先取りして与えられる命なのです。

 さて、18節には「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じないからである。」と記されています。イエス様は世を裁くためではなく、世が救われるために、神から遣わされたお方であります。しかし、そのイエス様を信じないと裁かれるというのです。キリスト教も他の宗教と同様に、信じたら天国に行き、信じないと地獄にいくのだ、ということを教えているのでしょうか。しかしよく見てみると、聖書は御子を信じない者は既に裁かれていると言っております。この裁かれるという言葉は完了形で書かれております。ですから信じない者は既に裁かれていて、裁かれ続けられているのだと語られているのです。

 第二次世界大戦後、30年経って一人の日本兵、小野田さんがフィリピンのルソン島から帰還してきました。戦後30年経った日本は既に経済的にも立ち直り平和な社会が築かれていました。小野田さんは、戦争は終り日本は平和な社会が築かれているのだ、というメッセージをジャングルで何回も聞いておりました。しかし小野田さんはこの言葉は敵国の戦略だと思い、信じることが出来ず、ジャングルから出て来ませんでした。彼は戦後30年間も相変わらず戦争の日々を過ごしていたのです。

 「イエス様を信じない者は既に裁かれている」ということは上記の小野田さんの話と同じではないでしょうか。「信じないと地獄に行く」ということではなく、イエス様との関係を持たない、イエス様とのつながりのないこの世の生は既に裁きの中にある、ということが言われているのです。ですから真の希望を見いだせずに虚無に陥り、不安と恐怖に悩まされながらの人生を歩むということになるのではないでしょうか。永遠の命は神の国の命であり、その命はイエス様とつながることよって与えられる命です。その命に生きることがこの世を生きる私たちが本当に生きる命なのです。その命に生きることが出来るようにイエス様につながって日々過ごす者でありたいと思います。

               (ヨハネによる福音書31621節)

 

 

27日 説教―     牧師 松村 誠一

   「すべてのことは許されている」

コリントの教会員の一部には「わたしには、すべてのことが許されている」を合言葉に倫理道徳的にも乱れた行為を行っていました。この言葉はパウロ自身がコリントの教会で語っていた言葉で、この言葉をコリントの教会員は何をしてもかまわないと受け取っていたのです。このように受け取ったのはグノーシス主義の影響によるもので、このグノーシス主義の特徴の一つが二元論です。つまり人間の肉体はいずれ滅びるものなのである。神によって生かされるのは、我々の霊的な存在なのである。肉体は滅び去るものだから何をしてもかまわないと言う考えです。

コリントの町は港町で、当時人口60万人の大都会で、女神アフロディテの神殿に千人の神殿娼婦がいたと言われています。そして世の男性どもは娼婦のもとに通うということが普通に行われていたようです。コリントの教会の男性も「わたしには、すべてのことが許されている」と言って世の男性と同じような倫理道徳的に乱れた生活をしていた人がいたのです。そこでパウロは「すべてのことが許されている」それは確かにその通り。しかし「すべてのことが益になるわけではない」とパウロはコリントの教会員の過ちを指摘しております。13節の「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、、、」と記されていますが、この言葉はコリントの教会の人びとが自分たちの不品行を正当化するために語っていた言葉です。つまりコリントの教会員は、人間の食生活は永遠の命には関係の無いこと。それと同様に性的な不品行も永遠の命には関係のないこと。肉体はどんなに汚れようとも、やがては滅んでしまうのだから何をしてもかまわないと主張していたのです。しかしパウロは朽ち果てる肉体と体とは区別しています。パウロの“体”とはその人の人格を伴う全てです。イエス様を救い主と信じるキリスト者の“体”はイエス様に買い取られ、イエス様の体の一部とされているのですから、その体を汚してはならない、とパウロはコリントの教会員に訴えているのです。

同じ肉体を持って生きつつも新しい体とされるのです。主イエス様によって与えられた新しい体(全人格)を、私たちは、自分の欲望のためにではなく、神のみ心を行うために用いていくことが望まれているのです。すべてのことは許されています。人の犯す罪は全て、主イエス・キリストの十字架の贖いによって赦されるのです。しかしその赦しの恵みの中で、自分の体を、主イエス様と共に神様に仕えて歩むことこそ自分にとって益となり、本当に人間らしく、自由に生きることであることをパウロは訴えているのです。

人の犯す罪は全て、主イエス様の十字架の贖いによって赦されるのです。その赦しを頂いていることを知っている者は世俗社会の中でも世俗の力にのみ込まれることなく、神の価値観に生きる者でありたいと思います。神の価値観に生き、歩む者こそ本当に人間らしく、自由に生きることであることをいつも共に確認し、信仰を頂いて歩んでまいりましょう。

 (コリントの信徒への手紙一61220節)