説教記録2月

226日 説 教 ―        牧師 山中 臨在

「したいこととしなければならないこと」

  マタイによる福音書6:3134

私たちの人生で、したいこととしなければならないことは何でしょう。年齢を重ねていく内に、「しなければならないこと」が増えてきて、ある人はそれに圧倒されてがんじがらめになってしまいます。それができないことに必要以上に罪悪感を感じたり、自信をなくしたり、悩むことが増え、その結果疲れ果てたり人生に絶望したりして、違法な薬物に手を出したり自ら命を絶とうとする人も少なくないのではないでしょうか。

または、しなければならないことができないという苦しみから逃れるために、自分ができないことを他者のせいだと言い訳をしたり自己正当化をはかろうとすることがあるかもしれません。あるいはまた、自分のしたいことを押し通そうとして、「これが今私のしなければならないことだ」と言い張ることもあるかもしれません。それが本当はしなくてもいいことであったり他者には迷惑なことだと、その自分の主張を他者は受け入れてくれないことが多く、受け入れない人を批判したり逆に批判されて落ち込んだりして、それがまた別の苦しみを産むことにもなりかねません。

思い悩む私たちに、イエス様は「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と語ります。「思い悩む」と訳されている言葉は、元来「道がいくつもの枝葉に分かれている」という意味です。神様に通じる道は一本なのに、私たちはその一本道から外れてあちらこちらの脇道へそれ、神様という目的地を見失ってしまいます。「何が食べたいか」「何を着たいか」「何を食べなければならないか」「何を着なければならないか」という脇道ではなく、まず神様へ通じるまっすぐな道を見なければならないことを聖書は語るのです。

  一晩中網を降ろして一匹も魚が取れなかったペトロたち漁師に、イエス様が「今沖へ漕ぎ出して網を降ろしなさい」と言われた時、ペトロは、無茶とも言えるこのイエス様の言われる通りにしました。これが「まず神の国と神の義を求める」ことです。その結果、有り余るほどの魚が取れたのです。自分のしたいこともしなければならないこともまず脇へ置いて、ペトロはまず主の言うことに従い、豊かで有り余るほどの恵みをいただきました。

私たちが何かしたいと思うことがある時、それは神様が喜んで良しとされることなのかどうか、「まず」神様に尋ねることが大切です。神様は今本当に必要なことは何なのかを教えてくださいます。また、しなければならないことが多すぎてそれに圧倒されて道に迷っている時には、しなければならないことはただ一つ、神の国と神の義を求めることだと聖書が語るのを心に刻みたいと思います。私たちの思い悩み、痛み、苦しみは全部イエス・キリストが引き受けてくださっているのです。イエス様は私たちの重荷を全部背負って十字架にご自分の命を差し出しました。あなたの思い悩みを全部引き受けたことを示されたのです。だから私たちは安心して、神様を信じてゆだねていいのです。私たちはしなければならないことはただ一つ、まず神の国と神の義を求めることです。神様が私たちを思い悩みから解放してくださいます。

219日 説 教―             牧師 山中 臨在

推薦状」エフェソの信徒への手紙6:1020 

推薦状は、その人物が優れていることや信用するに値することを証明するものですが、当時のユダヤ社会でもよく使われていたようです。パウロはいわば大祭司の推薦状を持ってあちらこちらに出向いて、イエス・キリストを信じる者たちを迫害していました。推薦状はこのように悪用されることも大いにあるものですが、これは現在私たちの周りでも起こっていることで注意しなければなりません。

聖書には、コリント教会の人たちがパウロの推薦状だと書かれています(2)。コリント教会の人々を見れば、パウロという人物がわかる、ということですが、そのコリント教会というのはどんな教会だったでしょうか。偶像礼拝や不品行が横行していたコリント教会の人々に、パウロは悔い改めを迫り、神の愛の中で生きていくことを伝えます。残念ながらパウロを批判し彼の言うことに耳を貸さない人も少なくありませんでしたが、そんな彼らにも「あなたがたこそが私の推薦状だ」とパウロが言っています。もっと言えば、キリストの推薦状だ(3)と言っているのです。

そこにこそ、神様の偉大さ、ご計画のすごさがあるのではないかと思います。このパウロを批判し問題の多い人たちというのは、実はパウロ自身の姿なのではないでしょうか。かつてあらゆる所でキリスト者たちを迫害して回ったパウロは、ダマスコ途上でイエス様に出会ったことによって180度回心させられました。かつての迫害者を伝道者に造り変えるイエス・キリストの大いなる恵みの中で、パウロはまさにイエス・キリストの推薦状であり、キリストの手紙なのです。そして神様は、今はパウロに敵対し不品行にまみれている人々をも、やがて悔い改めさせ、回心に導かれる力をお持ちです。そのダイナミックな神様を私たちは信じ、神様のわざに希望を持っているでしょうか。

「私たちもキリストの推薦状と呼ばれるようになりましょう」ということとは少し違うのではないかと思います。私たちが頑張ってキリストの推薦状に「なる」のではなく、神様が私たちに「新しい契約に仕える者としてくださる」(6)のです。新しい契約とは、イエス様の十字架の死によって与えられた、赦しの契約であり、救いの道へ導く契約です。私たちは、自分で頑張って、キリストの手紙(推薦状)になるのではありません。キリストが欠点の多い私たちをキリストの推薦状とする、と言ってくださるのです。

私たちがなすべきことは、主イエスに信頼し主イエスと共に歩むということです。一人一人に主が与えてくださった、キリストの手紙としての働きがあります。それは一人一人異なるでしょう。委ねられた働きは正直キツイかもしれないし、いつも嬉しく楽しい働きばかりではないでしょう。しかしどんな場合であっても、主は私たちと共にいて見捨てず、生かしてくださいます。それが私たちの希望です。私たちの生活も、私たちの教会も課題がたくさんあると思いますが、そんな中、この主にある希望を私たちは信じて、主イエスと共に、キリストの推薦状とさせていただく希望の人生を歩みたいと思います。

 

212日 説 教 ―     牧師 山中 臨在

スイッチオン」 エフェソの信徒への手紙6:1020

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい(11)と聖書は語ります。悪魔は私たちのすぐそばに潜んでいて、優しく誘惑し、私たちを神様から引き離そうとします。私たちはそれを悪魔と思っていないから、その策略に対して太刀打ちできず、その誘惑に負けそうになるのです。私たちはそんな策略に打ち勝つほど強くありません。10節で「強くなれ」と訳されている言葉は元々、「強くされなさい」という受動態です。力があるのは神様だけ、だから強くなれない私たちはその神様の力をいただいて、悪魔の策略がある時に対応しなさい、と聖書は言うのです。

私たちには、神様につながるスイッチが与えられていて、悪魔の策略に囲まれてピンチの時にはそのスイッチをオンにすることが必要です。それは「主に依り頼む」ことであり(10)、「神の言葉を取る」(17)ことであり、「どのような時にも祈り続けることだ」(18)と聖書は私たちに語っているのではないでしょうか。イエス様御自身も悪魔の策略に遭いました。その時イエス様は神様に信頼し、御言葉に依って立ち、神様の御心を求めて祈りました。キリストに倣う者である私たちもまた、イエス様に倣って、神様のスイッチをオンにしていかなければなりません。

悪魔は実に巧みに私たちを神様から引き離そうとします。どんな「策略」が私たちのまわりに潜んでいるでしょうか。ガラテヤ書5:1922に記されている「敵意、争い、怒り、利己心、仲間争い」などは私たちのごく身近にあるものです。テモテ1:910には「父を殺す者や母を殺す者・・・偽りを言う者・・」と書かれていますが、怒りや利己心、また偽りなどは、自分の親さえも殺しかねない恐ろしい策略であることを感じます。

あなたの周りに潜む悪魔の策略とは何でしょうか。どうしようもなく他者に怒りがこみ上げる時「怒っていいよ、憎んでいいよ、殺してもいいよ、あなたは悪くないんだから」というささやきを聞いたら、どうしますか。どうしようもなく傷ついたり悲しい時、お金がない時、人間関係に疲れた時、「どうせ神様は何もしてくれないよ。信仰なんて持つだけ無駄だよ。疲れたら礼拝なんて行かなくてもいいよ」というささやきがある時、どうしますか。悪魔はまるで天使のように優しい顔をして私たちを神様から引き離そうと誘惑します。でも聖書は語ります。私たちが神様を信じようと信じまいと、神様はあなたを決して見捨てず見放さない、と。そしてそんなささやきがある時こそ、神様のスイッチをオンにしなさい、主の力に依り頼みなさい、神様の言葉に聞きなさい、どのような時にも祈りなさい、と聖書は教えるのです。

 

25日 説 教-        牧師 山中 臨在

言葉では言い尽くせない贈り物

コリントの信徒への手紙()9:115

パウロはコリントの教会の人々に、エルサレム教会への献金を勧めています。当時コリントの教会はエルサレム教会と必ずしも良い関係にあるとは言えませんでしたし、コリント教会は自分たちの教会のことだけでも手いっぱいで、「なぜ自分たちがエルサレム教会を支援しなくちゃいけないのか」という声も少なくありません。そんなコリント教会の人たちに、パウロは、献金の本質を語ります。まず、献金は種まきだと言います610)。献金は、自分の手持ちが減る引き算ではなく、刈り入れ(収穫)が与えられ、「実を成長させてくださる」(10)足し算なのです。そして献金は強制されてするのでなく自由であること、そして「喜んで(7)」献げる慈しみの結ぶ実(10)であること、つまり寛大であることだと教えられています。更に献金は、言葉では言い尽くせない贈り物です。贈り物を渡す相手の喜びを考え、更にそれが自分への喜びとなるものです。ここで「贈り物」と訳されているギリシャ語(エウロギア)は「祝福」という意味であり、まず神様が祝福として私たちに与えてくださっているものであることがわかります。そのいただいた恵みと祝福を私たちが他者と分かち合うのが献金であるのです。

献金は、それを通して「キリストの福音が従順に語られ」、また「人々が神をほめたたえる」(13)信仰(礼拝、伝道)の行為です。神様の祝福を受けたキリスト者は、神様の栄光を現すために、自由にかつ寛大に献げるはずであり、それによって他者の必要も満たされ、他者と共に神様をほめたたえる礼拝ができる喜びがあふれることを聖書は語ります。

品川教会は、教会の耐震工事や建て替えの検討もしなければならない時期にさしかかり、財政的なチャレンジもあり、自分たちのことに必死です。苦しみながら福音宣教のわざに励む他の教会や団体があるのは知っていても、とてもそこへ献金する余裕はないと思うかもしれません。しかし聖書は、「神様からいただいている、言葉では言い尽くせない贈り物を、喜んで惜しみなく他者と分かち合いなさい。そのことで神様がほめたたえられるのだ」、と語ります。それが協力伝道の恵みだと思うのです。

「言葉では言い尽くせない贈り物」はまた、イエス・キリストのことではないかと思うのです。イエス様は、自ら惜しまず十字架に御自分を捧げました。それによって私たちに救いの喜びと命が与えられ、福音の実が豊かに実りました。こんな素敵な贈り物をいただいたから、それが嬉しくて、感動して私たちはクリスチャンとなり、礼拝に来るのではないでしょうか。そのイエス様の恵みに感謝して、私たちも言い尽くせない贈り物を他者と分かち合いたいと思います。献金は、金銭的な束縛ではなく、むしろ「いくら献げなければならない」「献金しなければ教会やあの人、この人に悪いから」という束縛から解放される祝福です。