説教記録3月

328日 説教―             牧師 山中 臨在

「がんばれ、ろばの子」マルコによる福音書11:111

 この世の王としてエルサレムに入られたイエス様は、勇ましく見た目の優れた馬ではなく、頼りない子ろばに乗ってやって来ました。この箇所は私たちにどんなメッセージを伝えているでしょう。

一つのメッセージは、イエス様は私を必要としてくださっている、ということです。ろばは淡白でコミュニケーションのとりにくい動物です。しかもイエス様が用いたのは、まだだれも乗ったことのない子ろばです。乗り心地はきっと最悪です。しかしイエス様はそんな子ろばを指名し、「おまえが必要だ」(3)と言って用いてくださったのです。イエス様は無理して子ろばを使ったのではなく、子ろばが必要だったのです。民衆は、自分たちを抑圧する時の権力を力で打ち負かしてくれるヒーローをイエス様に期待していましたが、イエス様は、真の王は力ではなく愛と平和で治める者であることを示すために、何の力も威厳もない子ろばと共にいなければダメだったのです。それと同じように、イエス様は、あなたを必要としてくださっています。あなたが世間の人からどのように見えようが、たとえ世間の評価が低かろうが、あなたにしかない価値があってそのあなたが必要だと言ってくださるのです。移ろいゆくこの世の評価ではなく、変わることなくあなたを尊びあなたを必要とするイエス様に目を向けるべきではないでしょうか。

次に、聖書は私たちの傲慢さを指摘しそれを脱ぎ捨てよ、というメッセージを送っています。人は自分が立派な人にならなければならないと思いますが、実際はそんなに立派でない自分の姿を突きつけられます。それではダメだと思うのか、あるいは立派でない自分の姿を受け入れることができないからか、人は、自分を大きく見せようとします。しかし自分を大きく見せる必要はないのです。「わたしの目にあなたは高価で尊い」(イザヤ書43:4)と神様は言います。自分を大きく見せようとするのは、あなたを造りあなたを高価だと言ってくださる神様に対する傲慢さの表れです。イエス様の入城に、人々は「自分の服を道に敷き」ました(8)。自分の服を脱いだのです。真の王の前に人々は自分自身を脱ぎ捨てなければなりません。自分を大きく見せようとする傲慢さを捨て去らなければならないのです。着飾ろうとし過ぎる私たちは、むしろへりくだって服を脱ぎ捨て、裸になり、自分が何も誇ることもないことを謙虚に受け止める時「ろばの子であるあなたが必要だ。がんばれ、ろばの子!」という主イエスの声が聞こえるのです。

真の王はただお一人だけです。その王は、あなたのことを誰が何と言おうと「わたしの目にあなたは高価だ」と言い、「あなたが必要だ。がんばれ、ろばの子」とやさしく語りかけてくださる方です。その王は「あなたを見放すことも、見捨てられることも」ありません(申命記31:8)。その方を信じて生きる人生を共に歩みましょう。

 

 

 321日説 教―               牧師 山中 臨在

「いやなものはいやだ」マタイによる福音書263646

  神様から、自分の苦手なことややりたくないことをやるようなチャレンジを受けた時、聖書は意外にも「いやなものはいやだ」と言っていいのだ、と教えているようです。救い主として十字架への道を神様から託されていたイエス様は、悲しみもだえました。「わたしは死ぬばかりに悲しい」と本音を弟子に言わずにはいられないほど苦しまれたのです。その思いをイエス様は正直に祈りの中で言います「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と。イエス様は「いやなものはいやです。そんな苦しい目に遭いたくありません!」と正直に言うのです。誰でも、いやな思いや苦しい気持ちを正直に神様にぶつけていいのです。

しかし「いやなものはいやだ」と言っていいのは、その思いを一番理解し、一番良い解決方法をご存じの神様に対してだけです。その思いを人にぶつけても解決には至りません。

十字架への道を取り止めてほしかったイエス様は、「しかし、あなたの御心が行われますように」という思いに導かれ、結局十字架へ進まれました。何が起こったのでしょうか。そこにはイエス様の必死な祈りがありました。「いやなものはいやだ」という思いを何時間も必死に祈る中で、神様からのチャレンジを受けとめ、「御心のままに」という思いに変えられただけでなく、その後三日目に復活するという、人の思いをはるかに超えた神様の恵みが与えられました。神様は「いやなものはいやだ」という私たちの祈りに応答して、「いやなものはいやだ」という私たちの思いをはるかに超えた素晴らしいご計画を与えてくださることを聖書は語るのです。

私たちは神様からチャレンジを受けます。それは自分のやりたくないことかもしれません。そんな時、私たちは思い出さなければなりません。「私」自身の罪ゆえに本当は「私が」負わなければならなかった十字架を、「私」も「私の隣り人」も誰も負いたくなく、皆神様の恵みから外されていくしかなかった時、イエス様が私たちの罪を全部背負って、十字架にかかってくださったのです。それによって私たちは救いの恵みの中に生かされています。

今私たちは、来年度の奉仕を考えるようにという一つのチャレンジを与えられています。正直やりたくないと思う奉仕をせよとのチャレンジもあるでしょう。チャレンジが与えられた時は、祈るチャンスです。「いやなものはいやだ」と必死に神様に祈ったらいいのです。まず人に言ったり人と話し合うのではなく、まず神様に祈るのです。その祈りの中で、神様は私たちが考えるシナリオより素晴らしい喜びや恵みの計画をもって応答してくださる方です。

神様が今あなたに与えておられるチャレンジは何ですか?そのチャレンジにあなたはどう応答しているでしょう?喜んでそれを受けますか?いやですと拒否しますか、それとも無視しますか?あなたが正直に切実に祈ることを、神様は待っておられます。

 

―314日 説 教―             牧師 山中 臨在

 「葬りの準備」 ヨハネによる福音書 1218

私たち人間はやがて死にます。死は誰にも避けて通ることのできない事柄です。では私たちは死に対してどのように向き合っているでしょうか。

 イエス様が十字架にかかる直前、マリアの家で食事をしている時、マリアは大変高価なナルドの香油をイエス様に注ぎました。イスカリオテのユダは、その香油を売ったお金で貧しい人に施すべきだと憤慨しますが、イエス様は、「マリアはわたしの葬り日のために準備をしてくれているのだ」と言ってそのままにさせました。イエス様の葬りの日とはどんな日でしょうか。それは神様の救いのご計画が示される日です。神様と私たちを隔てていた壁を神様が自ら取り払ってくださるという良い知らせが明らかにされる時です。そしてそれはイエス様の復活への道が始まる時、永遠の命の希望に向かう道が開かれる喜びの時です。だからイエス様は死ななければなりませんでした。更に、死は絶望の事柄ではなく、その先に復活の希望があることを私たちの先駆けとなって示してくださいました。イエス様の葬りの日の備えをしたマリアの行為は、神様が示してくださる救いの計画に対する応答として、愛と感謝をもって自分の最善をささげた礼拝でした。それはまた、救い主を信じその復活の希望を信じるマリアの信仰の証しでした。マリアはこのことを通して伝道をしたのです。

 マリアの行為は、私たちに、葬りの準備が必要であることを教えています。死の準備をすることは、私たちに与えられた、主イエスを証しする恵みの機会です。マリアはイエス様が十字架へ進むことは悲しかったでしょう。しかしイエス様の葬りの準備をすることは、神様の救いの計画を信じる喜びの準備であり、復活の希望をいただく準備でした。私たちも死に対する準備をすることは、礼拝の行為であり、信仰の証しであり、福音宣教のわざです。希望の道への始まりです。死について語ることを忌み嫌う必要はなく、死の先にある希望を見据えて準備をしたいものです。「どう死ぬか」は「どう生きるか」を反映します。主に出会い主を信じる人生が自分にとってどんなものであるのかを綴り、主を証しし、主にある希望を伝えていきましょう。葬儀は人生で最後の伝道のチャンスです。

ナルドの香油を注がれて埋葬の準備がなされたイエス様は、私たちを愛し、その愛のゆえに十字架で死んでくださいました。そして私たちに先駆けて、三日後に復活し、死が終わりでないことを明らかにされました。イエス・キリストが自分の命をかけて私たちを愛して下さっていること、そしてそのイエス様を信じることは死に打ち勝つ希望が与えられることだということを心に刻みましょう。そしてイエス様の十字架の死に思いをはせる受難節の今、私たちも自分自身の死を見つめ、感謝しつつ死の備えをしていきましょう。それはあなたの礼拝であり、あなたの信仰の証しとなる、大切な福音宣教のわざです。

 

37日 説 教―             牧師 山中 臨在

  「そんなことあるわけない」

  マルコによる福音書8:3138

神の国の福音を宣べ伝え、数々の奇跡を行うイエス様に群集は興奮し、自分たちの待ち焦がれていた救い主メシアが到来したと大いに期待しました。そんな時イエス様は、ご自身が「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と話します。ペトロは大変ショックを受け、「そんなことあるわけない」とイエス様をいさめます(32)。弟子たちを含むユダヤ人は、自分たちを悪から救い出し悪を打ち負かすはずの先生が、権威に苦しめられて殺されるわけがない、とイエス様を自分たちにとって都合のよいヒーローに仕立て上げようとしていましたが、イエス様は、自分は殺され復活「することになっている」(31)ことを「はっきりと」(32)言います。このことは人間の思いではなく、必然的な神様のご計画であることを示しているのです。私たちは、自分の都合に合うイエス様を仕立て上げるのではなく、むしろ神様の御心にかなうように自分を作り変えていただくように祈らなければなりません。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ12:2)と聖書は語ります。それが「自分を捨てて」(34)イエス様に従うことなのです。

この箇所の後半で「自分の命を救いたいと思う者はそれを失い、福音のために命を失う者はそれを得る」(35)と主は言われています。ここで「命」と言われているものは、「魂」とか「あなたの存在の本質的な価値」だと考えると良いでしょう。イエス様は、「あなたの存在は、たとえ全世界を手に入れても(36)替えることのできないほど尊いものだ。そんな計り知れない価値が神様から与えられているのだ」と気づいてほしいと願っているのです。しかし私たちは全世界を手に入れてこの世の名誉を得ることが自分の価値だと思います。そしてそれがうまくいかない時、「そんなことあるわけない」と思い、傷つき悲しみ苦しむ中で、自分は価値がないと絶望することがあるのです。そんな私たちが忘れてはならないのは、イエス様は死んで三日目に復活することです。人の目に絶望と思われる先には、主が永遠の命の希望を約束されているのです。絶望は絶望で終わりません。あなたは主の与えてくださる永遠の命を得て、何物にも替えられない価値を与えられているのです。

処刑の象徴であり絶望の象徴である十字架は、しかし神様のご計画の中では、永遠の命という希望の象徴であります。「そんなことあるわけない」と嘆く私たちの先には、主が希望を用意してくださっています。その希望に生きるためには「自分を捨て」(34)ること、自分の計画ではなく、神様の計画にゆだねなさいと、聖書は語っているのではないでしょうか。