説教記録3月

 

33日 説教―                 牧師 松村 誠一

         「世に遣わされていく私たち」

ローマの信徒への手紙の12章からは、パウロが今まで語ってきたことが、単なる観念や思想の世界で終わってしまわないための、パウロの愛に満ちた勧めが記されています。1節ですが「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」と勧めています。旧約時代の礼拝で大切な行為は、燔祭を献げることでした。この燔祭は、犠牲の動物を祭壇で焼いて献げる儀式で、日ごとの献身を表す象徴的行為として行われておりました。パウロはその神にささげるいけにえは動物ではなく、あなた方自身を献げなさいと勧めています。そしてそれこそがあなたがたのなすべき礼拝であるというのです。

 私たちは礼拝をどのように理解しているでしょうか。日曜日に教会に集まり、神を賛美し、み言葉の解き明かしを聞き、献金を献げる行為として理解しているのではないでしょうか。

神学校1年目のクリスマス礼拝は私には忘れることの出来ないものでした。その時のメッセンジャーはルーテル教会の先生で、メッセージが終わり祝祷をされました。その祝祷ですが、「ここから出ていきなさい。これから、あなた方の礼拝が始まります。」というものでした。主の日の礼拝は神の祝福を頂くと共に、私たちの決意の時でもあります。世に遣わされていく私たちであることを確認し、決意する場であり、

時なのです。

私たちの毎日の生活が神奉仕であり、神第一となっていくとは具体的にはどういうことでしょうか。それは2節に記されています。この世に倣ってはならないのです。神の働きかけを無視して歩む人間の世界がこの世なのです。神無き世界、神の意思を、神の働きかけを無視して歩む人間は本当に恐ろしい存在となってしまうのです。神無き世界に生きるならば人間は人間性を失い、悪魔化していくのです。人間が神の前にぬかずき、神の言葉を頂いていくときに人間性を回復していくのです。だから、なのです。この世に倣ってはならないのです。むしろ心を新たにして、自分を変えて頂かなければならないのです。自分を変えていただいた時に、何が神の御心であるか、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえることが出来るのです。神の意思、神の御心は聖書に示されております。しかし、その聖書の言葉を私たちはあらゆる状況の中で、生活の中で聞いていかなければならないのです。この複雑な日々の生活の中で、何が神の御心であるか分からないことが日々の生活の中でいっぱいあるのではないでしょうか。このような状況の中で神の御心を知るには、心を新たにし、神によりつくり変えられ続けなければならないのであります。自分がつくり変えられ続け、信仰をもってこの世へと遣わされていきましょう。

        (ローマの信徒への手紙1212節)

 

 

310日 説教―                   牧師 松村 誠一

          「イエス様 バプテスマを受ける」

バプテスマのヨハネは、荒れ野でユダヤ人に向かって「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝え、イスラエルの人々の不信仰を正していました。バプテスマのヨハネの言葉は鋭く当時の多くの人々の心をとらえ、多くの人々がヨハネのもとに集まって来ておりました。そしてそれぞれが自分の罪を告白し、バプテスマをヨハネから受けていました。そしてイエス様もヨハネからバプテスマを受けるためにこの現場に来られたのです。ヨハネはイエス様の願いを一旦が断りますが、イエス様の強い願いによってヨハネはイエス様にバプテスマを授けています。

 さて、イエス様はなぜヨハネからバプテスマを受けられたのでしょうか。イエス様もユダヤ人として生まれ、ご自分の約30年にわたる人生での数々の過ち、罪を悔い改めなければならなかったのでしょうか。そうではありません。ではなぜイエス様はバプテスマを受けられたのでしょうか。それは悔い改めを必要とする人間の立場にイエス様ご自身が立ってくださったのです。弱さと罪の中で悩んでいる私たち。その私たちに連帯してくださるお方であることを聖書は語り伝えているのです。

イエス様がヨハネからバプテスマを受けられたもう一つ理由があります。ヨハネは神の代理でもなければ、神の子でもありません。ヨハネは人間的な行為としてバプテスマを授けていたのです。しかし、その人間的な行為であるバプテスマが神の出来事となっていくのです。イエス様が水の中から上がられますと「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」という出来事が起きております。イエス様に促されてのヨハネの行為が、神の霊が降るという出来事を引き起こしているのです。

 私は牧師の務めを誠実に果たしていきたいという思いをもって今日まで歩んできましたが、罪深い私が、神の言葉など取り次ぐことなどできないのです。しかし神はその言葉をよしとして受け入れてくださり、神の言葉としてくださったのではないでしょうか。また牧師の務めも不十分であったと言わざるを得ません。しかしこの不十分な務めを神はよしとして受け入れてくださり、神の出来事を起こしてくださったのではないでしょうか。それはヨハネのバプテスマの行為と同じことであると思うのです。これは牧師だけにとどまらず私たちキリスト者の行為全てが、そうなのです。教会学校で語る教師の聖書研究もそうでしょう、聖歌隊の賛美の奉仕もそうでしょう。神によって促されての私たちの行為、それがいくら信仰から出た行為であっても、人間の行為には変わりありません。しかしそれら人間の行為すべてを神がよしとして下さることにより、神の行為、神の業へと変えられてゆくのです。新しい年度が間もなく始まります。それぞれ主によって示された奉仕を喜びをもって担ってゆきましょう。私たちの奉仕は神によって、神の行為となってゆくのです。

(マタイによる福音書31317節)

 

317日 説 教―                古川 敬康先生

「自分にしてくださった主の業を共に知らせましょう」

西南女学院大学宗教部主任の古川敬康先生がメッセージを取り次いでくださいました。先生はまずイエスがゲラサ人の地方に行かれ、悪霊に取りつかれた人を癒される前の状況についてお話しくださいました。その状況とはイエスが「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」とガリラヤで第声をあげ、弟子を作り、宣教を開始したこと。そして最初の宣教中に汚れた霊にとりつかれた男を癒し、さらに重い皮膚病を患っている人、そして中風の者を癒されている。この癒しで罪を赦す権威について律法学者との問で争いが起こっている。モーセ律法による権威とイエスの権威との対立構造が生み出され、イエス殺害の陰謀という当局側の集団的な動きがカファルナウムに結集し始める。イエスは迫害から逃れるため、異邦人の土地での宣教に移行し、最初に行ったのがこの癒しの出来事であると。

今日の学びですが、一人の人が墓場から来た。人々に足かせをはめられ鎖でつながれていたが、砕き引きちぎり、その繰り返しが幾度もなされていた。イエスが舟から上がると、遠くから見て、走り寄ってひれ伏し、大声でイエスに叫び願っている。イエスが、「汚れた霊、この人から出ていけ」と言ったからである。イエスが名を尋ねると「レギオン」と答え、この地方から追い出さないように幾度も頼んで、「豚の中へ」と自ら願い、イエスの許可で、その通りに豚の中に入っていく。豚の群れは崖を下って湖になだれ込み溺死してしまう。この人に取りついていた多くの悪霊(2000匹の豚に入った悪霊)が出て行ったことにより、この人は「正気」となり、イエスに「一緒に行きたい」と願った。イエスは「自分の家に帰り、身内に <主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと> をことごとく知らせなさい」と伝えている。

そもそも、この悪霊に取りつかれた人は自分自身の存在に気付いていない。足かせを壊し、鎖をちぎる行為を何回も繰り返している。私たちもこの人のように問題を抱えていても自分では気づかないで、被害者的意識と疎外感、孤独感しか味わっていないという状況におかれていることがある。しかしイエス様にとっては、その人が神様に創造された素晴らしい自分として生きているかが問題だったのだ。この人はイエス様のもとに走り寄って拝している。イエス様は私たちにも神が創造された素晴らしい存在として生きよ、と接してくださっているのである。

今日の社会ですが、多くの人々が虚無の中で苦しんいる。何が原因であるかも分からない。このような時代だからこそ、イエスのもとに走り寄り、叫んでいいのだ。イエス様が私たちを憐れみ、抱えている問題を解決してくださる。イエス様によって問題解決された者は「この自分の身になさってくださったことを、ことごとく知らせなさい」というイエス様の言葉を聞く者とされてゆくのである。

(マルコによる福音書5120節)

 

古川先生のメッセージを以上のように要約しました。古川先生のメッセージに突き動かされ、「イエスが自分にしてく

さったことを」与えられている場で言い広めてゆきたい。                 (松村記)

 

―3月24日 説教―                牧師 松村 誠一

       「神と和解させていただきなさい」

「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(コリントの信徒への手紙518)

上記のパウロの言葉に感動を覚えます。世とは、この世のすべての人を指しております。神はキリストによってこの世のすべての人々を御自分と和解させ、しかも人々の罪の責任を問うことをしないということを語っています。和解にあたって神様は何の条件も付けられない、無条件なのです。この和解の言葉をすべての人々に伝えるために、パウロはイエス様によって選ばれ、その務めを果たしているのだ、と語っているのです。そしてパウロはその和解の言葉を伝えるのに、このように言っています。「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」。何と愛に満ちたパウロの勧めの言葉ではないでしょうか。パウロがこのように語ることができるのは神の和解の行為が前提になっております。 その和解の行為をパウロは「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」と述べております。 (ローマの信徒への手紙425)

人間はまことの神を神とせず、まことの神から離れ、神に背き、神抜きで生きようとしております。そのような生き方をする人々が味わわなければならないのは虚無です。この虚無はとても恐ろしい力をもっております。ですから人間はこの虚無から逃れるために様々な努力をするのです。しかし残念ながら虚無はまことの神を信じる信仰によってのみ解決されるのです。パウロは自らの体験を通してイエス・キリストを信じる信仰によって虚無から解放され、そして信じる信仰によって神からの使命を与えられ、喜びと希望の日々を送っていたのでしょう。その体験を通して「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」と勧めています。神との和解はイエス・キリストによって既に成立しているのです。ですから私たちに出来ることは和解の言葉を感謝して受け入れることなのです。そこに神との和解が成立するのです。そして和解を受け入れることにおいて、私たちは神の赦しが与えられ、魂の平安を得ることが出来るのです。その時に人間は年を取ろうが、どのような境遇にあろうが虚無から解放され、喜びと希望のうちに人生を送ることが出来るのです。

私たち人間関係においても対立しているならば、心穏やかではありません。ましてや私たちに命を与えてくださる神との関係を一方的にせよ 損なうなら、穏やかではいられないのではないでしょうか。

人間が一方的に神との関係を切ってしまったにもかかわらず神は一方的にイエス・キリストによって和解の道を整えてくださったのですから、パウロが「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきない。」という愛に満ちた勧めを感謝して受け入れてゆきましょう。

          (コリントの信徒への手紙()51721節)

 

 

331日 説 教―                  牧師 松村 誠一

          「万事を益としてくださる神」

パウロは26節で「同様に、霊も弱い私たちを助けてくださいます。」と語っています。パウロは自分をはじめとするキリスト者を「弱いわたしたち」と理解しています。私たちはイエス様を救い主と信じている者ですが、相変わらず弱さをもっています。内から、外からの誘惑にいつもさらされ、その誘惑に負けてしまうことがしばしばです。その弱い私たちを霊は助けてくださいます、とパウロは教えています。さらにパウロは「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」と教えています。私たちも、どのように祈るべきかを知らないのです。そのような祈りでさえも“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。

 私たちは祈りの時に本当の自分と出会うのではないでしょうか。ですからパウロは、弱い私という本当の自分を祈りの中で知り、そして祈る時にイエス様の霊が、その弱い私と共に居てくださり、助けてくださるのだと語っているのです。

 自分の生活をふり返ってみますと、祈りの時、自らの心の内を探りながら、与えられている苦しみ、悲しみに向き合って祈ります。また祈りの時、自分のいたらなさ、愛に欠けた人間性を思い起こして過ごすことしばしばです。そして与えられている苦しみ、悲しみ、自分の罪深さにただうめくことしか出来ない存在であることが示されます。しかし、そのうめきは、私だけのうめきではなく、そのうめきを“霊”なるイエス様ご自身がうめき、神に執り成してくださっておられるというのです。イエス様は私たちのうめきを、天の高いところから見ておられるのではなく、私たちがうめいている、うめきの現場にまで来て下さり、神に執り成しをして下さっておられるのだというのです。これはなんと慰めに満ちた言葉ではないでしょうか。そしてその霊の働きは、私たちと共にうめいてくださるだけではなく、万事が益となるように共に働いて下さるというのです。そしてこの世の終末においては、私たちは神の子キリストに似たものにして下さる。そしてさらにパウロは30節で「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」と語り教えています。これが私たちの最終的な目的であり、救いの完成であります。救いの完成は将来に成就する事柄であります。しかしパウロは、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです、と過去形で語っております。私たち救いに与った者は、今現在においても、イエス様によって救いの完成へと招かれていることが確かであるがゆえに、過去形を用いることによってその確かさを訴えているのです。こんな不信仰者、行いの伴わない者。他人に厳しく、自分に甘い私。こんな不義な者を義とし、そして最終的に神の子としての栄光を与えてくださるのですから、感謝して、喜びをもってイエス様を救い主と信じて、信仰生活を共にしてゆきたいと思います。

                     (ローマの信徒への手紙826~30)