説教記録2018年3月

 

325日 説 教―             牧師 松村 誠一

        「ゲッセマネの祈り」

「そして彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ2639節)

 死は人間にとって恐怖であり、避けて通りたいと誰でもが願うものであります。人はなぜ死に恐怖を覚えるのでしょうか。それはパウロが語っておりますように「罪が支払う報酬は死」だからでしょう。創世記のアダムをエバの物語を思い出していただきたいのですが、神によって創造されたアダムとエバに神は語りかけ、命じております。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記216節)。神がこのように命じられてもアダムもエバも善悪の木を食べてしまいます。その結果、人は善悪の知識を持ち合わせましたが、死ぬ存在になってしまったのです。死は神への背きの結果です。

それゆえに死は人間にとって恐怖であり、避けて通りたいと誰もが願うのです。イエス様はその人間の罪を引き受け、罪なき者とし、永遠に生きる者にさせるために人の子としてこの世に来られたお方であります。イエス様は半分人間で、半分神様というお方ではありません。イエス様は私たちと全く変わることのない人間であり、同時に神の御子です。私たち同様で、まったく人間であるイエス様は十字架刑によって死んでいくことは耐えがたいことであることは当たり前のことではないでしょうか。ですからイエス様は「この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と父なる神に懇願しているのです。しかしイエス様は、それは自分の願いであることを十分に承知しておられ、神の御計画にすべてをゆだねてゆくことを祈り願っております。その神の御計画とは、御子イエス様を通して、人の死は神への背きの罪の結果であることを知らしめると同時に、その神への背きの罪の結果である死でさえ、神は無きものとされ、死を通して与えてくださる命へと招かれていることを人に知らしめるためだったのでしょう。

 今日から受難週に入りますが、この一週間、十字架の道を歩まれるイエス様を覚えつつ日々過ごしていきましょう。そしてイエス様のゲッセマネの祈りを繰り返し、各々自分の心に刻み、「罪が支払う報酬は死である」こと。そしてその報酬をイエス様が支払ってくださり、罪赦された者として死の恐怖から、死からすでに解放されている者であることを覚え、感謝して日々過ごしてまいりましょう。

           (マタイによる福音書263646節)

 

 

318日 説 教―            牧師 松村 誠一

               「皆の僕になりなさい」

「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」このイエス様の受難の予告は3度目です。イエス様はどうして、同じことを3回も弟子たちに言い聞かせているのでしょうか。それはメシアであるイエス様はイスラエルをローマから解放し、イスラエルが世界を治める国にならなければならない。イエス様はその政治的メシアなのだ、という弟子たちの理解がなかなか払拭することが出来なかったからでしょう。それゆえにイエス様は機会があるたびに弟子たちの誤ったメシア理解を正さなければならなかったからでしょう。

3回目の受難告知を聞いた弟子たちは、少しは理解したのでしょうか。弟子たちはイエス様が十字架の死後、復活され、王座に付いた時、自分の地位が気になり始めるのです。ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエス様にお願いをしようとしてやってきております。母親はイエス様に促されて「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と頼んでおります。

人間は誰でも一番になりたい、成功したい、偉くなりたいという思いがあるのではないでしょうか。イエス様は母親の願いを聞き、母親にではなく、二人の弟子に尋ねています。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むこしの杯を飲むこととができるか」と。イエス様の苦難と死の杯を共に飲むことができるかという問です。ヤコブとヨハネは「できます」と答えております。その答えにイエス様は 「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ」と語りかけております。

それからイエス様は弟子たちに「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうあってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりない。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」と教えています。弟子たちは復活されたイエス様との出会いによってイエス様の教えに忠実な者となっていくのです。

 

さて私たちはこのイエス様の教えを受け入れ、“皆に仕える者”“皆の僕”となることが出来るでしょうか。私たちは弟子たち同様に一番偉くなりたい思いが心の奥底にあります。そのような私たちですが、このイエス様の教えを聞き、祈りつつ日々歩んでいかなければならない存在なのだと思います。そのような歩みをする者をイエス様は良としてくださるでしょう。

       (マタイによる福音書201728節)

 

 

311日 説 教―        牧師 松村 誠一

        「受難から栄光」

 マタイによる福音書171節に「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて,高い山に登られた。」と記されています。 この“六日の後”とは、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表した時からです。この時からイエス様はペトロをはじめ弟子たちの誤ったメシア理解を正していかなければならないと決心されたのでしょう。そのような思いでイエス様は3人の弟子を連れて山に登られたのです。山に登ると「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。」と記されています。

この記述は、モーセがシナイ山で神から律法を授かった時の光景と似ております。イエス様の“姿が変わった”という記述によって、イエス様は神と出会ったということを述べているのでしょう。神はモーセに律法を授け、また預言者を立て、その都度イスラエルの民に神の御心を示してきました。モーセ、そして預言者の代表であるエリヤがここに登場してきますが、それはモーセとエリヤ、この二人の働きの完成者として神はイエス様をお立てになり、そのイエス様こそ真のメシアであることが語られているのです。この出来事は天上界の出来事です。天上界が、いかに素晴らしいかが述べられています。

ですからその光景を垣間見たペトロは「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と記されています。この記述によってペトロはここでずっと過ごしたいという思いを伝えております。そのような思いを抱いている時にペトロは「これは私の愛する子。これに聞け。」という天からの声を聞きます。イエス様こそ真のメシアであり、そのイエス様に聞いていかなければならないことが語られているのです。

イエス様の姿が変わったこの出来事に立ち会ったのはペトロとヤコブ、そしてその兄弟ヨハネです。この3人はイエス様の十字架の苦難が目の前に迫って来た時、ゲッセマネの祈りの時もイエス様はこの3人を連れて行っております。天上界のこの素晴らしい光景を垣間見たこの弟子たちが、これから苦難に遭い十字架刑によって殺害されるイエス様こそ、神によって復活させられる真のメシアであることの証人として立たれてゆくのです。

メシアであるイエス様がユダヤ議会によって苦しめられ殺されてしまうということはイエス様の弟子たちですら信じ、受け入れられることできなかったのです。しかし弟子たちはイエス様の教えとメシアとして働きを通してイエス様こそ、真のメシアであることを信じる者となっていったのです。私たちは受難節を過ごしておりますが、間もなくイースターを迎えます。この時私たちは“多くの人の身代金として自分の命を献げられた”イエス様を想起し、信仰と希望をもってイースターを迎えたいと思います。

      (マタイによる福音書17113節)

 

 

34日 説 教―         牧師 松村 誠一

     「十字架の道を歩まれるイエス様」

 「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」(マタイ1621)“長老、祭司長、律法学者たち”とはユダヤ議会のことです。ユダヤ議会とは神の御心を求め、神の判断を下すところです。そのユダヤ議会がイエス様を苦しめ、十字架へと追いやる。そしてそれは偶然なことではなく、神の必然なのだということが語られているのです。

イエス様はペトロが告白しているように“メシア、生ける神の子”です。しかしそのメシアとは地上的、政治的メシア。すなわちローマの属国となっていたイスラエルを、政治的に独立した国へと導いてくれるメシアでした。イエス様はそのようなメシア理解に対して否を言いつつ、これから起ころうしている神の出来事を通して正しいメシア理解を弟子たち与えようとしているのです。

 メシアが苦しみを受け、十字架に付けられ、殺されるなど、誰が信じる事が出来るでしょうか。むしろ力ある者として、この世を治め、悪をばたばたとなぎ倒す、そのような救い主、キリストの出現を待ち望んでいたのではないでしょうか。ですから、ペトロはイエス様がまことのメシア像を示されますと、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」とイエス様をいさめております。これはただペトロの思いだけでなく、すべての人間が抱く神に対する思いではないでしょうか。

神の子イエス様が、苦しみを受け、殺される、というところに神から離れた人間の罪が象徴的に語られており、イエス様が三日目に復活されることにより、神が与えて下さる永遠の命が語られているのです。ですからイエス様の苦しみと十字架の道を避けようとする人間の思いは、神の思いを否定することになるのです。それゆえイエス様はペトロに「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」と大変激しい言葉を語りかけております。イエス様は、かつて荒れ野でサタンの誘惑に遭われたように、今ペトロのイエス様の働きを必要としないという発言は、まさにサタンの働きであり、“サタンよ引き下がれ”と激しい言葉をもってサタンの働きを露わにし、その思いを正しているのです。そしてイエス様はペトロにも神からの命に生きるようにと「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と語りかけています。人間が抱く神のイメージを捨て去り、人間の罪のために死んで下さったイエス様を救い主と信じ、イエス様に従って歩む者であり続けましょう。

       (マタイによる福音書162128節)