記録

 

327日イースター説教―   牧師 松村 誠一

        「わたしは復活であり、命である」

今朝は111節から始まるラザロの死の出来事に関するイエス様の重要な教えが記されている箇所から共に学びの時をもちます。ラザロは大変重い病気だったのでしょう。イエス様はラザロが病気であることを聞くのですが、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と語り、ラザロのところには行こうとはしませんでした。しかし、その後イエス様がラザロのところに行った時にはラザロはもうすでに死んでから4日も経っておりました。ベタニアに到着したイエス様にマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」と語りかけております。そのマルタの言葉にイエス様は「あなたの兄弟は復活する」と話されています。マルタはそのイエス様に「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」と答えております。マルタの答えは、ユダヤ黙示文学に属する“終末論”という思想によるものでしょう。ところがイエス様はマルタの答えに満足されませんでした。イエス様は、「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」とマルタに語りかけております。

 ここでヨハネは復活の命はイエス様によって与えられるもので、イエス様ご自身が復活の命に生きておられるお方であることを宣べ伝えているのです。そしてここで宣べ伝えているようにイエス様は十字架刑により殺害されましたけれど、三日目に復活されたのです。

 「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」というマルタの答えにイエス様はなぜ満足しなかったのでしょうか。それは、人間が死んだ後に終末の時が来て、その時に復活の命が与えられるという考えに対してです。この“黙示文学的終末論”は、つまり命というものが、この世の終わり日に与えられるなどと考える命は決して現実的な命ではないでしょう。このような黙示文学的終末論は、今、どのように生きるかは視野に入ってこないのではないでしょうか。

復活の命は人間の思想や考えによるものありません。復活の命はイエス様を信じる信仰において、その命に与ることが出来るのです。イエス様を信じ、イエス様に従って今どう生きていくかが問われながら生きる者が復活の命に与ることができるのです。その命は神によって与えられる命ですから、たとえこの肉体が滅びたとしても決してなくなるものではなく、イエス様と共に生きる命なのです。ヨハネはこのことをラザロの死と復活の出来事の物語を通して私たちに訴えているのです。

 今日はイエス様の復活の出来事を想起して礼拝を守っています。今も復活の命に生きておられるイエス様を信じ、私たちも復活の命を頂いて与えられている生をイエス様と共に歩んでまいりましょう。

            (ヨハネによる福音書111727節)

 

 

 

 320日 説教―          牧師 松村 誠一

               「ペトロの裏切り」

イエス様は弟子たちと過越しの食事の後、オリーブ山に行かれ、一人で神に向かい、汗が血のしたたり落ちるほど真剣に祈りを捧げていた時です。その時にイエス様はユダの裏切りにより捕らえられ、大祭司の官邸に引かれていっております。ペトロはイエス様から遠く離れてはいましたが、官邸の庭に行っております。そのペトロですが、ある女中から「この人も一緒にいました」と指摘されると「私はあの人を知らない」とイエス様を否認してしまうのです。ペトロは、次もその次もイエスとは何の関係もないと否認し裏切ってしまうのです。聖書の3回という数字は、何度も何度も、という意味があります。ですから、著者ルカは、弟子を代表するペトロは何度もイエス様を裏切ってしまう弱さを持っている人物であることを訴えているのです。

 ペトロが3回目の裏切りの言葉を吐いた時に、突然鶏が鳴きます。そして主は振り向いてペトロを見つめられます。そのイエス様の眼差しによりペトロは鮮明にイエス様が語られた言葉を思い出すのです。この箇所には、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは3度、私を知らないと言うだろう」と、その言葉しか記されておりませんが、ペトロが思い起こしたのは、むしろ、2232節の「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」というイエス様の言葉だったのではないでしょうか。

 イエス様が“振り向いて”語る行為はただ間違いの指摘に留まらず、赦しを与え、再出発を促すための無言の言葉なのです。ペトロはこのイエス様の赦しを与え、再出発を促すまなざしに触れた時に、自分の卑劣な行為、自分の弱さ、自分の罪深さが示され、そのどうしょうもない者をも、主のしもべとしての道が備えられていることを知り、ペトロは激しく泣き、悔い改の時をもったのではないでしょうか。ご承知の通りペトロは復活のイエス様に会い、正真正銘イエス様の一番弟子として、今度は自分の命をもいとわないで福音線宣教のために働く人物となっていくのです。

 ルカは、ペトロの卑劣な裏切り行為をあらわにし、その行為をも赦し、再出発へと導かれるイエス様のまなざしがペトロをはじめ、すべてのキリスト者に注がれていることを訴えているのです。

 私たちキリスト者は、イエス様を救い主と信じておりますが、その信仰すらも、自己中心的であり、偽善に満ちているのではないでしょうか。しかし、そのような者であっても、主イエス様はその間違いをただ指摘するだけでなく、赦しと、再出発を促すまなざしを一人一人に注いで下さっているのです。私たちはペトロ同様にイエス様を何度も何度も裏切ってしまう信仰弱き者ですが、そのような私たちにもイエス様のまなざしが注がれていることを確認し、その赦しのまなざしを感じつつ、日々を過ごす者でありたいと思います。

     (ルカによる福音書225462節)

 

 

 

313日 説教―            牧師 松村 誠一

           「地に蒔かれた一粒の麦」

十字架の道を歩まれるイエス様がギリシャ人に向かって話をされているところが今朝の聖書の箇所です。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシャ人がいた。」(ヨハネによる福音書1220節)と記されています。このギリシャ人は弟子のフィリポの元に来て「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです。」とイエス様との面会を求めております。ここにギリシャ人が登場して来ておりますが、単に一民族のギリシャ人ではなく、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人を指している言葉と理解してもいいでしょう。著者のヨハネがここで語ろうとしていることは、イエス様の救いの出来事はユダヤ人のみにとどまらず、すべての民に開かれていくということです。キリスト教は一民族の宗教ではない。すべての民の宗教であるというヨハネの理解が示されているのです。

イエス様はギリシャ人に語ります。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(202324節)人の子とは、イエス様ご自身のことです。栄光を受けるということは“一粒の麦が地に落ちて死ぬこと”です。すなわち十字架の死です。十字架の死はイエス様にとって栄光を受ける時としてヨハネは捉えております。そしてイエス様の死は、ユダヤ人だけでなく、ギリシャ人にも、すべての人々の罪のための死であり、その死によって人間の救いの道が明らかに示されたのです。救いの道とは、罪から救いであり、そして永遠の命に生かされることです。

イエス様は続いて「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と語っています。“自分の命を愛する”とは自己中心的に生きることでしょう。神抜きで生きる生き方でしょう。永遠を思うことのできない生き方でしょう。他者が視野に入らない生き方でしょう。そのような生き方は永遠の命に至る生き方ではない、という事が語られているのです。そして“自分の命を憎む”とは自己中心な生き方、神抜きで生きる生き方、そのような生き方を憎むことです。自己中心的、神を抜きにして生きようとするときに、人間は悪魔化するのであります。そのような生き方はまさに悪魔の誘惑であり、それゆえに人間にとり大変魅力的に思えるのです。そのような生き方が魅力的だからこそ、それを憎むというほどの態度をもって内なる自己と戦わなければ永遠の命に至る生き方は出来ないことが告げ知らされているのです。

イエス様はまさに一粒の麦が地に落ちて死ぬ時を迎えているのです。その死によってすべての人々の救いを開き示されるのです。私たちはその道を歩んで行かれたイエス様を想起して、私たちもそのイエス様を信じ、イエス様に仕え、永遠の命に生かされる者として歩んでまいりましょう。

        (ヨハネによる福音書122026節)

 

 

36 説教―            牧師 松村 誠一

       「真実を証しするイエス様」

病が癒されることを期待して38年間もベトザタの池のほとりで過ごしていた一人の人にイエス様は出会われ、その人を癒されました。ところがユダヤ人たちはイエス様の癒しが安息日で、律法を守らなかったということでイエス様を非難するのです。イエス様はその非難に対して「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と答えています。このイエス様の言葉を聞いたユダヤ人たちはイエスが神を御自分の父と呼んでいる。これは神を冒涜する者であり、赦すことはできない、殺害し、葬ってしまうことを企むのです。このユダヤ人に対してイエス様は御自分が神の子であることを証ししている箇所が今朝の聖書の箇所です。 

イエス様はまずバプテスマのヨハネについて語ります。ヨハネはイエス様を「見よ、神の子羊」と言ってイエスこそがメシアであることを証した人物であります。イエス様はそのヨハネを「燃えて輝くともし火であった。」と称賛しております。そして実際にユダヤ人たちはヨハネの証し、世直し運動のメッセージを喜び楽しんだのであります。神様がヨハネを遣わしたのは、そのヨハネの言葉を聞く人々が、イエス様を信じ救われるためであったのではないでしょうか。しかしユダヤ人たちは単なる好奇心でしか、ヨハネを見ること出来なかったのです。イエス様はその事実をユダヤ人に付きつけながら、さらにイエス様はユダヤ人に語りかけています。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」(36節)父なる神が子なるイエスに与えられた業、すなわち人を生かし、裁きを行うイエス様の業、その業そのものが神から遣わされた者であると語りかけています。安息日に人を癒したのは、イエス様を遣わした方の意志によるもので、病人を憐れまれる神の愛をこの地上で具体的に示すためであったことを明らかにしております。

イエス様は父なる神から示されたことは、御自分がどのような状況の中でも、どのようなことが想定されようとも、示されたことを真実に行い、生涯を歩まれました。そしてその最期は十字架による死でした。イエス様の十字架上での最期の言葉は「成し遂げられた」(1930節)とヨハネは記し、死ぬことにおいて御自分の使命を果たされたと報告しています。イエス様は神から遣わされた者として神のご意志を自らのものとして、ご生涯を真実に生き抜かれました。

真実というものは、あれこれ説明しなくても、人間は何が真実であるかは一人一人分かる資質が備えられています。イエス様は神の真実に生き抜いたお方であります。わたしたちも聖書を通して、イエス様がおこなった業を想起し、イエス様の真実に触れて、私たちもその真実に生きる者でありたいと思います。

      (ヨハネによる福音書53140節)