2015年説教記録

―3月22日説教―               牧師 松村誠一

「隅の親石であるイエス様」

 イエス様は「ぶどう園の農夫」のたとえ話をイザヤ書を引用しながら話しておられます。ぶどう園の主人はぶどう畑をすべて整え、後はぶどうの収穫を待つだけにして、ぶどう畑を農夫たちに任せて旅に出かけております。そして収穫の時になったので、ぶどう園の主人は収穫を受け取るために僕を使いに出すのですが、農夫たちはその僕を袋叩きにして、何も収穫物を持たせずに追い返えしております。主人はもう一人、もう一人と僕を送り、収穫を受け取ろうと試みるのですが、農夫たちはその都度僕を殴ったり、殺したりしてしまいます。そこで主人は「私の息子なら敬ってくれるだろう」という期待を込めて息子を農夫のところに送っております。ところが、農夫たちはその息子も殺し、ぶどう園の外に放り出してしまったというたとえ話です。

イエス様はこのたとえ話で何を訴えているのでしょうか。神が関係の修復のために息子(イエス様)を送っていることに気付かされます。イエス様の使命は真の神を神とするその関係の修復のためにこの世に来たり給うたのです。しかしイスラエルの指導者たちは神との関係を修復し神の国の価値観をこの世に再び取り戻そうとするイエス様の意に反して、この世の価値観によってこの世を治めようと行動していくのです。それは最終的にイエス様を十字架へと追いやっていくことになるのです。この価値観は当時のイスラエルの指導者たちだけが持っていたものではありません。イエス様の弟子たちですら、この価値観を持っておりましたし、そして、私たちもこの価値観に立とうとする思いがあることに気付かされます。この世の価値観で全てを判断し、物ごとを進めていこうとする思いがいつも心の奥深くにあることに気付かされます。しかし、そのような価値観に生きることいかに虚しいことであるかをイエス様は詩編11822,23節を引用して訴えています。「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。これは主の御業 わたしたちの目には驚くべきこと。」つまり、この世から捨て去られ、殺害されるであろうイエス様は神によって復活させられ、神の国の民を支える大切な、なくてはならない方であることが語られているのです。神の価値観に生きる者が神の国に招かれるのです。これはイエス様も念を押しておりますが、人間にはなかなか受け入れることのできないことなのです。しかしこの世の中は神価値観によって生きる人の本当に小さな業が、実はこの世を動かす大きな力になっているのです。この世の価値観に抗して、神の示す価値観が優っているのです。信仰の眼で見れば、神の価値観がこの世の価値観に優っていることがあちらこちらで見ることが出来るのではないでしょうか。そして私たちも、自分自身の心の奥底にある人間の価値観に優る神の価値観に生きようとするその思いを共に確認し、神の権威のもとに神の価値観に生きる者でありたいと思います。

(マルコにゆる福音書12112節)


―3月29日説教―                          牧師 松村誠一

「イエス様、弟子の足を洗う」

 過越しの前の日、夕食の時にイエス様は御自分がこの世を去り、父のみもとに行く時が来たことを悟り、弟子たちの足を洗らっておられます。当時イスラエルにおいては、外出して帰って来ると、必ず家の前にある水がめから水を汲み出し、足を洗ってから家に入るという習慣がありました。イエス様は、ここではおそらく食事が終わったあとに、歓談の時に弟子たちの足を洗われたのでしょう。当時、足を洗うのは奴隷の仕事です。ですからペトロの番になりますと、ペトロは「主よ、あなたが、わたしの足を洗ってくださるのですか。」と問いただしています。主なるイエス様が、どうして弟子である私の足を洗われるのですか。それは奴隷の仕事ではないですか。そのようなことはやめて下さい、という思いによるものではないでしょうか。

 そのようなペトロの言葉に対してイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えておられます。 このイエス様とペトロとの会話で著者のヨハネは何を訴えようとしているのでしょうか。イエス様が弟子たちの足を洗う、この行為を通して何を指し示しているのでしょうか。それはイエス様の十字架の死による罪の赦しを指し示しているのです。つまり、イエス様による罪の赦し、罪の清めがないならば、イエス様とペトロとの関係は切れてしまう、ということが語られているのです。

 私たちは残念ながら毎日、争いや、憎しみ、あるいは差別の思いから完全に解放されてはいないのではないでしょうか。いつもこれらの思いに悩まされながら日々過ごしております。そして、そのような思いに支配されてしまう自分自身にいつも気付かされ、神の御前にただただ、祈り、赦しを乞い、これらの思いから解放されますようにと祈りつつ毎日過ごしているのではないでしょうか。これでいいとは、一つも思っておりませんが、この繰り返しの中で日々過ごせることは、イエス様との関係があるからなのです。

ペトロが「わたしの足など、決して洗わないでください」と、イエス様との関係を切ろうとするならば、イエス様がおっしゃる通り、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」のです。私たちもイエス様との関係がないならば、この世の悪魔的な力に、私たちの理性も、考えも歪めらえてしまい恐ろしい悪魔的な人間と化してしまうのです。

 私たちキリスト者はイエス様の関係の中で罪を無条件で赦してくださる神の愛を確認し、感謝して、それを受け、その愛と行為に応答して行きたいという思いが与えられていることは感謝なことではないでしょうか。私たちも互いに足を洗い合い、私たちに仕えて下さるイエス様を想起し、イエス様に従い、日々歩む者でありたいと思います。

(ヨハネによる福音書13章1~11節)


―3月15日 説教―                     牧師 松村誠一

「イエスの姿が変わる」

  イエス様と弟子たちがフィリポ・カイザリア地方に行った時ですが、イエス様はご自分対する世間での噂を弟子たちにお尋ねになりました。その後イエス様は「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と尋ねております。ペトロは弟子を代表して「あなたは、メシアです、」と答えております。このペトロのメシア告白の後、イエス様はご自分がこれから歩まなければならないメシアの歩みを弟子たちに告げるのですが、弟子たちは、そのメシアの歩みを理解出来ない様子が聖書に記されています。それから6日後の出来事が今日の聖書の箇所です。

 高い山でイエス様の姿が変わったのです。この光景は出エジプト記34章29節以下のモーセのシナイ山での出来事と似ております。ここでの出来事は天上界のことが述べられているのでしょう。モーセとエリヤが登場してきます。神はモーセに律法を授け、また預言者を立て、その都度イスラエルの民に神の御心を示してきました。そのモーセとエリヤの働きの完成者として神はイエス様をお立てになり、そのイエス様こそ救い主、メシアであることを語り教えているのでしょう。そして弟子たちに本当のメシア理解を指し示しているのです。

 ペトロを初め、弟子たちのメシア理解はどのようなものだったのでしょうか。それはローマ帝国を滅ぼし、政治的にも経済的にも世界の国々の長として君臨する力あるメシアでありました。ですから、イエス様が、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるなど、ペトロは受け入れることが出来なかったのです。どうして弟子たちはこのようなメシアを受け入れることができなかったのでしょうか。それは神理解からでしょう。人間は等しく強い神を求めるからです。

 さて、もう一度“高い山での出来事”に目を留めてみましょう。天上界の出来事を目の当たりにして恐れている弟子たちに「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という言葉が語りかけられています。これは、これから苦難の道を歩み、十字架上で殺害される無力なイエスこそ、神の子メシアである。このイエス様に聞き従え、ということをこの出来事を通して語り伝えているのです。

人間は強い神、絶対的力を持っている神、そのような神観を持っています。苦難の道を歩むイエス様など神の子、救い主として認め、信じることが出来ないのです。その誤ったメシア理解をこの出来事を通して正しているのです。私たちも、この出来事によって神が示して下さったメシアを受け入れ、イエス様こそ私たちの救い主として信じ、イエイエス様に従い歩んでいくことが望まれるのです。

「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために、また、福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8:34,35)と語られたイエス様のこの言葉を受け入れ、イエス様に従う者として歩んでまいりましょう。

(マルコによる福音書9:2~13節)


―3月8日説教―              牧師 松村誠一

「キリストに生きる」

パウロは「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」と語っています。このようにパウロが語ると、罪の増し加わったところには恵みが益々満ち溢れるなら、我々はもっと罪を犯そうではないか、という屁理屈を言う人に対して、パウロは決してそうではない、と強くその屁理屈を退けています。そしてその理由を6章1節以下で述べています。

パウロは「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」と問うています。このことを病気にたとえて考えて見ますと、癌で蝕まれている人がお医者さんによってその癌細胞を取り除いてもらい、癌が癒されたなら、またお医者さんによって癒してもらえるなら、もっと重い病気になってやろう、などとは思わないのではないでしょうか。罪においても然りです。そしてそのことを説明するためにパウロはバプテスマの礼典をたとえに語っております。バプテスマ、これは水に沈めることですが、その指し示すところは、イエス様の十字架の死であり、また水から上がることにより、その指し示すところはイエス様の復活です。

パウロが「罪に対して死んだわたしたち」と言い切れるのはイエス様の十字架の死からです。罪の支払う報酬は死なのです。イエス様はすべての人間が死をもって支払わなければならない罪、その罪すべてをご自分のものとし、十字架上で死んでくださったのです。ですからパウロはコリントの信徒への手紙一15章で「『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」と、死からの勝利を歌い上げています。私たちはいずれ誰でも死ぬでしょう。しかし、その死はもうとげが抜かれた死、本質的な死、絶対的な死ではないのです。死を通り抜けて永遠の命へと招かれている、私たちはそのような存在なのです。

罪に対して死ななければ罪からの解放はあり得ません。罪に死ななければ新しい命は与えられないのです。罪に死ぬことも、新しい命に生きることも、私たちの側で出来る事柄ではありません。イエス様がそのようにみなして下さる。罪を赦す方が、私たちの罪を赦すと宣言して下さることによります。赦すとは、罪が無くなるのでも、罪が消えてしまうのではなく、罪ある者が赦されて罪なき者とみなして下さるのです。

私たちが出来ることは、その宣言を受け入れることです。その宣言を感謝して受け入れる時に“罪赦された者とされるのです。自分の罪を認め、あのイエス様の十字架の死がこの私の罪の清算の死であることを信じ、神の前に罪を告白し、その罪の赦しを願う時に私たちは新しい命へ生かされ、希望に生きる者とされるのです。

(ローマの信徒への手紙6章1~11節) 

                   


-3月1日 説教―                   牧師 松村誠一

「神の愛が注がれている」

(ローマの信徒への手紙5章1~5節) 

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」ローマの信徒への手紙5:1、2)

 「神との間に平和を得ている」。私たちがこのことを認識する時に、人生がらっと変わるのではないでしょうか。それゆえにこの言葉は、すべての者が聞かなければならない言葉、まさに福音であると思います。

 人間とは何者なのでしょうか。コヘレトの言葉3章の11節には、「神はすべてを適宜にかなうように造り、また永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなされる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」と記されております。私たちは有限な存在にもかかわらず、永遠を思う心を神は与えて下さいました。だから私たちは永遠を思い、神のことを思い、将来を、未来を思い、また死後のことまでも思うことが出来るのです。神は人を神との人格的関係の中で生きる存在として創造されたからであります。それゆえ、イエス様が示してくださった神との間に平和を得ている、という事実を私たちは受け取り、神との関係の中で人生を歩んで行くことが望まれているのです。そして私たちが神との間に平和を得ていることを自らのものにするなら、そこに希望が生まれてくるのであります。神との関係の中で人間は希望を持つことが出来、その希望に生きることが出来るのであります。

希望とはなんでしょうか。それは単なる人間の願望ではなく、神の約束です。その約束を得ることが私たちの希望です。神が備えてくださる未来であるとも言えましょう。その希望に生きることが出来るのがキリスト者の特権であり、その希望が確実だから、失望に終わることがないのであります。

パウロは、この約束、希望が与えられているからこそ、苦難をも誇りとします。と言い放つのです。苦難、それは確かにいやなものです。しかしその苦難によって支配されるのではなく、約束の道を歩む時の限られた苦難なのだ、目の前に与えられている絶大な希望を得るための過程なら、それを誇りとします、というのです。

私たちはこの希望に生きるときに、苦難は耐え得ることが出来、そして忍耐することにより、練達を、そして練達はさらに希望を与えてくれ、キリスト者として成長していくのです。イエス様が備えてくださった神との関係の中で、神が与えてくださる希望をはっきりと見据えて、現実の日々の生活、たとえ苦難に出会っても苦難に勝利し、希望に生きる者でありたいと思います。

(ローマの信徒への手紙5章1~5節)