説教記録3月

327日 説 教―              牧師 山中 臨在

       「生き生きとした希望」

            ペトロの手紙()1:39

ペトロは、苦難のさなかにあるキリスト者たちを励まそうと、「神は生き生きとした希望を与えておられる」ことを伝えます。恐ろしい武力侵略を受けて いるウクライナの人たちや、先日の地震の被害に遭われた方々、コロナに苦しんでいる私たちにも、神様は生き生きとした希望があると語られています。 生き生きとした希望、とは「生きている希望」ということです。希望が生きていて、「朽ちず、汚れず、しぼまない」(4)のです。これは絵に描いた理想ではなく、ペトロが実体験したことで、ペトロが確信を持って話せる希望なのです。その根幹にあるのは、「神の憐れみ」と「イエスの復活」です。憐れみとは、神様から捨て置かれるべき者を神様は見捨てないという恵みのことです。ペトロは、大切なイエス様を見捨てました。捕えられた師匠を知らないと三度も否定しました。ペトロに裏切られたイエス様は十字架の道を進み血まみれになりました。「自分はとりかえしのつかないことをしてしまった」と嘆くペトロは、残酷なまでに流されるイエス様の血を正視できたのでしょうか。彼はどうしようもない罪の意識と絶望感にさいなまれたことでしょう。「オレの人生 は終わった」と思ったかもしれません。しかしイエス様は復活され、その復活 がペトロの絶望を拭い去りました。ペトロの罪はイエス様の十字架により赦さ れ、しかもそこで終わるのではなく、イエス様の復活によりペトロは「新たに 生まれさせ」られ(3)たのです。主にある希望とは、生きているものなのだ と実感したのです。神から見捨てられても仕方なかった彼が、もう一度神のも とで生きる者とされました。まさに神の豊かな憐れみが与えられたのです。

「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まなければならない」(6)と人々に語るペトロも、イエス様の復活の後も、様々な苦難や試練に遭いました。でも彼にはもう、朽ちることのない生きた希望が与えられていましたから、喜びの中で生きていけたのです。それは主の憐れみとその復活により、キリストにある者には試練が終着点ではないことを実体験したからです。試練の先に本物の信仰が与えられ(7)ることを知ったのです。

アメリカでいただいた腕時計が壊れ、時計屋さんに修理を頼みましたが、どの店でも修理できないと言われました。「これは作った人でないと直せないね」という声を聞いてがっかりしましたが、同時に「作った人なら直せる」希望をいただきました。私たちはさまざまな苦難や試練に遭うと絶望し壊れてしまいます。しかし壊れた私たちを修繕する道がたった一つあります。それは私たちを造った方のもとに行って直していただくことです。今の私たち、今の教会、今の日本、今の世界、壊れている部分がとても多いでしょう。でも、神の希望は生き生きしています。私たちを造られた神様のもとに行き、みことばをいただき、神様に直していただきましょう。

 

 320日 説 教―               宝田 豊 牧師

「キリストの僕」 ガラテヤの信徒への手紙110

ガラテヤ書 110 節に、パウロの確信と強い決意を読み取ることが出来ま す。パウロにとってイエスとの出会いはまさしく青天の霹靂でしだ。しかし、 その体験により、それまで大切にしてきた人間的誇りや名誉ではなく、神のた めに人生を捧げて生きることの喜びを見いだしたのです。フィリピ書 37 節 で「わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うよ うになった」と明言しています。この言葉に彼の信仰に対する誇りのようなも のを感じます。わたしたちはどうでしょうか。信仰に生きる誇りをもって生活 しているでしょうか。

今回の箇所で、特に注目したいのが、「今」と「今もなお」という二つの言 葉です。

パウロにとっての今は、過去との決別を意味しています。熱心なユダヤ人と して教会の迫害者だったパウロの人生は、復活のキリストとの出会を通して一 変しました。そして、キリストの僕として新しく歩みだしました。この新しい 人生を「今」と言っているのです。

次に「今もなお」とは、過去に死んだはずの自分が、今も変わらず過去の栄 光を追い求めて生きている姿を指しています。エフェソ書 42223 節で命 じています。「あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古 き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にか たどって造られた新しき人を着るべきである。」 パウロは、人の歓心を買っ たり人の顔色を伺ったりするような生き方は、キリストの僕として相応しくな いと言っています。

パウロはまた、ローマ 148 節で断言しています。「わたしたちは、生き るのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死 ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。」

クリスチャンはキリストの僕、彼に属する者とされたのです。そのわたした ちに対し、互いに愛し合い、共に聖書に学び、共に霊的に成長し、心を合わせ て神の喜ばれる教会を建てあげていくことを望まれているのです。

また、ひとりひとりを神の使者として選び、福音宣教の働きのために召され たのです。ですから、毎週教会からそれぞれの宣教の場に遣わされているので す。それは、家庭であったり、学校であったり、あるいは職場であったりする かもしれません。わたしたちが活動している日々の生活の場こそが、わたした ちの宣教地なのです。

献身は、牧師や宣教師だけのものではありません。クリスチャンはみなキリ ストの僕として、神の御心をこの世界で全うするために選び出された献身者な のです。ですから、わたしたちは神の御心が地上で成就するために、家族、友 人、学友や同僚の魂の救いの為に日々祈り、キリストの僕として働いていくべ きなのです。

 

313日 説 教-              牧師 山中 臨在

  「慰め」 コリントの信徒への手紙()1311

東日本大震災から 11 年が経ちました。今も多くの方々がその苦しみを負ったままでおられます。被災された方々に主の慰めが与えられるようにと祈るばかりですが、一体彼らにとって「慰め」とは何でしょう。今日の箇所には「慰 め」という言葉が何度も出て来ますが、この言葉の原語「パラクレイシス」は 「そばに呼び寄せる」という意味です。確かに私たちは苦しむ人のそばに行き 慰めたいと思いますが、実際はどうでしょう。私は東日本大震災で被災された 方々に接した折に、自分には慰めの言葉がないことを思い知らされ自分の無力さを感じました。しかし主がこの箇所で告げるのは、慰めるのは私たちの言葉 や力ではない、ということではないかと思います。パウロはアジア州で苦難に 遭い、生きる望みを失っていました。絶望したのです。しかし彼は自分自身に は絶望しましたが、神に絶望したのではありません。自分に絶望することによってむしろ神に対しては希望をおくようになったのです。自分には力はないが、 み子イエスを復活させて死に打ち勝つ力を神は持っておられることを確信し たからです(10)。

私たちは主イエス・キリストを通して、真実の慰めが与えられます。この方 こそ、私たちのそばにいてくださる方です。十字架の苦しみを負われたイエス は私たちの苦しみの傍らに立ち、「主を求めて生きよ」(アモス 54)と語り かけ、希望を持って生きる道へと導いておられます。 私たちのまわりには実に多くの、慰めを必要としている人がいます。新型コ ロナ、ウクライナ危機、自然災害で被災された方々・・・。苦しみや悲しみの 渦中におられる方々は、信じることも祈ることもできなくなっているかもしれ ません。慰めることのできない私たちにできることは、その方々が信じられな い、あるいは信じられなくなっている神の御手の中にある希望、イエス・キリ ストを通して現わされる神の真実な愛を、その人に代わって信じ祈ることです。 私たちは、イエス・キリストが今も私たちの内に生きて働いておられることの 証人として召されています。そして真実の慰め主に出会うことが礼拝です。礼 拝においてこそ私たちは慰められます。

あなたのまわりに慰めを必要としている人はいますか。信じられず祈れない その人のために、本気で主を信じて、主の慰めが与えられるように祈りましょう。あなたご自身が慰めを必要としておられるでしょうか。それなら自分に頼 って頑張る前に、神に慰めを求めて礼拝をしましょう。

「私の目にあなたは高価で尊い」(イザヤ 434)と主は私たちにおっしゃ います。苦しくても悲しくても空しくても、怒りがこみあげて収まらなくても、 病気に苦しんでも、絶望に崩れ倒れそうになっても、それでもあなたの人生に は生きていく価値がある、なぜならあなたの代わりにみ子イエス・キリストが 十字架にかかって死んだほどに神はあなたを愛しているのだ、と主は私たちに 語り続けておられるからです。そこに本当の慰めがあります。

 

 

36日説 教―                  牧師 山中 臨在

    「信じきれない」 民数記20:113

過酷な強制労働に苦しんでいたイスラエル人を救い出して、神様が約束され た目的地へと 40 年もの間導いてきたモーセとその兄アロンが、神様から「あ なたたちは約束の地に行くことはできない」と宣告されてしまいます。イスラ エルの民は、今いるカデシュという場所に水も食べ物もなく、文句を言ってい ます。不平を言うのは今回に始まったことではありません。何か自分たちに都 合がよくないことが起こると毎度毎度不平を言います。神様に助け出してもら ったことを忘れてしまう罪深い人たちだ、という印象を持ちますが、しかし荒 野にいて水も食料もないのは死を意味することを考えると、彼らの置かれてい る状況は過酷です。いつまで経っても神様が約束された目的地に着けない、そ れどころか今にも死んでしまいそうな状況に置かれたイスラエルの民が不平 をいうのも無理はないと思えます。神様の約束を信じたいけれど、信じきるこ とができないのです。

一方、モーセとアロンにも同情します。神様の言われる通りにやっているの に民は文句を繰り返すばかり。モーセの苦労など誰もわかってくれません。モ ーセは結局このあと岩を杖で二度打ち、出てきた水を民は飲むことが出来まし たが、神様はこのことでモーセとアロンに「あなたたちは私を信じることをし なかった」と言って、約束された土地、40 年間もモーセをはじめイスラエル の民が目指してきた目的地に入らせない、と言われたのです。モーセの一体何 がいけなかったのでしょう? 神様がただ「岩に水を出せと命じなさい」と言 ったのに対し、モーセは「杖で岩を打って」しまい、神様の言われた通りにし なかったからなのでしょうか。神様を信じきることに疲れたモーセとアロンは、 自分たちの力でこの状況を解決しようとしているようです。それが 12 節で書 かれている「神様の聖なることを示さなかった」ことなのです。

神様を信じきることのできない民やモーセの姿はそのまま私たちの姿でも あります。信じるには、目の前の現実があまりにも厳しく残酷です。今も解決 されない震災からの復興、長引く新型コロナウイルス、深刻なウクライナ危機。 厳しい現実に対して不平を言ったり自分の力で何とかしようと思うこと、それ を誰も責められないでしょう。しかしそれでも神様は「神を神としなさい。神 を信じきりなさい」と私たちに語り続けられているのです。何が真実かわから ない、誰を信じたらいいのかわからない私たちに、神の子イエスは「私は道で あり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と語ります。イエス・キリスト こそが真実である、ただ一人信じるに値する方なのだと明言されているのです。 「神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ 315)と聖書は語ります。神様を信じきれないというのは心がかたくなにな ることです。神を神とし、神を信じてゆだね、かたくなでがんじがらめの状態 から抜け出して歩むことができるよう祈ります。