説教記録4月

425日 説 教―           牧師 山中 臨在

   「あなたを見捨てない」   哀歌3:2533

  「哀歌」は、バビロン捕囚に遭ったイスラエルの民の嘆きの歌、祈りです。3章は、絶望の底に突き落とされ苦しみを味わう中からも、主の希望にたどり着く様が描かれています。

エリ・ヴィーゼルというユダヤ人がいました。彼は戦争中、多くの同胞と共にアウシュビッツの収容所に入れられ、絶望を味わいました。毎日のように何人かずつ絞首刑にされていき、自分たちもいつ命を取られるかわからない中で怯えながら過ごしていました。収容所の過酷さは、人間の自己中心的な本性も引き出します。父親を絶対に死なせない、そんな父への愛情を支えに頑張っていたエリ・ヴィーゼルですが、父は老いていて体力もなく、収容所でははっきりいってお荷物なのです。そんな父を支えなければならないという思いとは裏腹に、「父の面倒を見ることから解放されて自分は生き延びたい」という思いが芽生えてしまい、それが更に彼を地獄のような苦しみに突き落とします。収容所はこれほどまでに残酷、過酷なものでした。エリ・ヴィーゼルを始め、多くの人が神を信じる信仰を捨てました。ある日3人の男性(大人二人と子供一人)が絞首刑になります。大人二人は即死しましたが、子供は体重が軽かったせいか、しばらく息があり、じわじわと迫り来る死の苦しみを味わわなければなりませんでした。その時誰かが「一体神はどこにおられるのだ!」と叫びました。これこそ、絶望の中にいる人の問い、叫びではないでしょうか。しかしまさにその時、ヴィーゼルに「どこだって?ここに神はおられる。ここに、この絞首台に吊るされておられる」と言う声が聞こえます。そして神の存在を否定していた彼はこの時はっきりと、神の存在を確信しました。「神は絞首刑にあった人を見捨てなかった、彼らと共におられ、彼らと一緒に吊るされている」ことを感じたのです。

イエス様は私たちの罪や絶望を一身に背負って、十字架にかかられました。私たちの絶望の中に主イエスはおられたのです。神様は私たちを見捨てないために、御子イエス様を見捨てました。しかし絶望の中で十字架に命を捨てたイエス様を神様は復活させました。絶望の先には、主にある望みがあることをわからせるためです。

「主の救いを黙って待て」と26節は語ります。「黙って待つ」とは、あきらめることではなく、じっと我慢していることでもありません。「主に望みをおき」(25)祈り求めることです。祈りは私たちの信仰生活には欠かせません。

「一体神はどこにいるのだ」「神がいるなら一体なぜこんなことが起こるのか」と絶望の中から人は叫び問いますが、それに対して答えられる人はいません。しかし答えは神様の御手にあります。すべて神様が備えておられます。神様はおられます。そして神様は私たちを見捨てられません。

その神様を信じて、神様の希望を待ち望む人生を送りましょう。

 

418日 説 教―              牧師 山中 臨在

 「どこに行っても大丈夫」ヨシュア記159

   モーセの後を継いでイスラエルのリーダーとなったヨシュアに、神様は「強く雄々しくあれ」と語りました。ここで神様が言われる「強さ」とは何でしょうか。弱っている時に「強くなければならない」と言われるのはつらくないでしょうか。「強い」ことと「強がる」ことは違います。どんなに強そうに見えても人は弱いのです。その弱さを認めてすぐ対処したほうが、早く良い状態に回復できます。自分の弱さを認められないと、回復する道がどんどん遠のき、結果的に取り返しのつかないことになってしまうのです。

 強くあれ、とは、自分の力が強くなることではなく、自分が弱いことを受け入れ、神の強さに信頼して委ねることです。神様は弱かったイスラエル人を強いエジプトから救い出す力と強さを持っている方です。そして「あなたと共にいて、あなたを見放すことも見捨てることもない」方(5)です。ヨシュアも強くなかったのです。偉大なリーダーであったモーセの後を継ぐプレッシャーや不安があったでしょう。また新しい地には敵も大勢いて、彼はうろたえおののいていたことでしょう。そんなヨシュアは民に「主が得させようとしておられる土地に入ろう」(11)と言いました。「自分たちの力で土地を得よう」と言うのではなく、神様の強さに委ねたのです。「雄々しくあれ」と訳されている言葉は、元来「勇気を持ちなさい」という意味です。自分の弱さを認め受け入れることは勇気のいることです。でも勇気をもって自分の弱さを認めた時に、神様の強さに委ね、神様の強さが自分の中に力となるのではないでしょうか。

 神様の強さに委ねる具体は何かというと、「律法の書(御言葉)を口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、すべて忠実に守る」(8)ことです。そうすれば、「あなたはどこに行っても成功する」(7,8)と神様は言います。成功とは、人間が考える成功ではありません。実際ヨシュアはどこでも成功したわけではありません。仲間の不信仰や難敵の存在により、うまくいかないことも度々ありました。けれど神様はいつもヨシュアを守られました。どんな状況でも、「わたしはあなたと共にいる。あなたを見放さない、見捨てない」と神様が言われ、だから「どこに行っても大丈夫」ということをこの言葉は語るのです。

 しかし民は御言葉からしばしば離れ、困難な戦いが続きました。私たちも主イエスを通して示される神の愛を信じているのに、ともすると御言葉から離れ、人を傷つけ、自己中心的な生活を送ってしまいます。私たちの心の中にも神の敵が存在するのです。神の敵に囲まれている私たちの歩みには、御言葉に立ち返ることが必要です。御言葉が根底になければなりません。

 新年度を歩み出した私たちに、神様は「強くあれ、勇気をもて」と言われています。でもあなたが強く「なる」必要はありません。むしろ自分の弱さを認め、神様の強さに委ねることが必要です。主の言葉に委ねきる時、わたしたちはどこに行っても大丈夫なのです。

 

411日 説 教―            牧師 山中 臨在

      「希望はどこにあるの?」

                (ローマの信徒への手紙1212)

聖書は希望を語る書物です。エジプトの奴隷となって苦しむイスラエルの民を救い出すという神様の約束がイスラエル人の希望となり、彼らは救い出されました。その後バビロン捕囚という絶望の真っただ中にいたイスラエル人に、神様は、そこから救い出すと言葉をかけられ、人々はそこに希望を置いて歩みました。救い主イエス様は十字架に死なれ、人々は絶望の中に置かれましたが、「わたしは復活する」というイエス様の言葉は真実であることが示され人々は希望をいただきました。やがて立てられた教会は、強烈な迫害を受ける中でも、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」というイエス様の言葉が彼らに希望を与えました。希望はいつも人々の苦難と共にありました。逆に言うと、苦難は、主の希望があることに気づく恵みの機会です。

 逆境の中で、水泳の池江璃花子選手は「遠くで希望が輝いているから前を向ける」と言いました。希望は遠くにあるのです。苦難の中にいる時には希望は遠くぼんやりとしています。あるいは自分の目の前にのしかかる不安や苦しみという壁が大きすぎて、希望を覆い隠しているかもしれません。しかし希望は確かにあるのです。その時私たちは、自分がその希望に近づけばよいのです。目の前の大きな壁から離れたら、壁に隠されて見えなかった希望が見えてきます。自らが希望のほうに近づく、それが「たゆまず祈りなさい」ということです。神様こそが私たちの希望です。その神様のところに私たちが歩み寄り、祈ることをしなければ、そこにある希望を受け取ることができません。

 神様の希望を受け取ることは、「私の願いどおりになる」ことと必ずしも同じではありません。神様に近寄って行っても、私の願いが、願った時に叶わないかもしれません。でも、神様の計画には間違いがありません。あなたにとって最善の道を主は必ず備えてくださいます。自分の思ったように物事が進まない時こそ、たゆまず祈ることが大切だと聖書は語るのです。

 私たちにはたくさんの苦難があります。愛する人を失った痛み、病気と闘う苦痛、職場や学校や家庭で起きる諸問題、そしていつまで続くかわからない新型コロナウイルスによる苦しみ。これらの苦難の中を照らす希望はあるのか、くじけて疑いたくなります。でも神様の希望は確かにあります。雨の日に飛行機に乗ると気づきます。地上は雨で太陽の光は見えないのに、雲の上に行くと太陽が光輝いています。太陽は確実にそこにあって輝き続けています。それと同じように、私たちの苦難の中にも神様は確実にいて希望を与え続けてくださっているのです。希望は神様にあります。神様の言葉にあります。その希望の神様にたゆまず祈り、私たちのほうから神の希望に近づいていきましょう。「希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマ5:5)と聖書ははっきりと語ります。

 

44日 説 教―               牧師 山中 臨在

「命のバッテリー」 ルカによる福音書24112

  キリスト教信仰に立ちはだかる大きな壁の一つは、イエス・キリストの復活でしょう。イエス・キリストが人を愛し人に寄り添い愛の行いをしたことは史実として認めても、彼が復活した、などということは科学的に認めるわけにはいかない、と思う人は多いのではないでしょうか。

しかし、復活というこのちょっと信じにくい事柄を、聖書は大胆に語ります。「イエスの復活なんて、弟子たちがでっちあげた戯言だ」と当時言われましたが、もし弟子たちが復活をでっちあげようとしていたのなら、彼らはもっとうまくやるべきでした。当時ユダヤ社会では、女性の地位は低く、女性が何を語っても何の証拠にもなりませんでした。だからイエス様の復活の出来事がまず女性たちに知らされたことを弟子たちが書いたところで多くの人は信じられないのです。でもルカに限らず他の弟子たちもそれを書かざるを得ませんでした。イエス様の復活が真実で、女性たちに復活が実際に知らされたからです。またイエス様が捕えられた時彼を見捨てて逃げるように臆病だった弟子たちが、確信と勇気に満ちた伝道者に変えられたのは、復活のイエス様に出会い、死は終わりではないのだと力を受けたからに他なりません。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」という5節の言葉が私たちに鋭く問いかけます。イエス様は過去の偉人ではなく、今も生きて私たちを励まし力づける方です。今あなたを愛し、あなたの痛みや死ぬばかりの苦しみを知って寄り添い、自ら復活して、あなたの苦しみの先にある慰めを、悲しみの先による喜びを、絶望の先にある希望を先取りされたのです。

車のバッテリーが死んだ時、バッテリーケーブルで生きたバッテリーとつなぐと、死んでいたバッテリーが復活します。私たちの人生のバッテリーが死んで魂が擦り切れ、身も心も弱って動けなくなってしまう時、イエス・キリストという、永遠の命のバッテリーとつないでもらえば、車のバッテリーが生き返るように私たちの魂も復活させられるのです。この生きたバッテリーであるイエス・キリストと私たちをつなぐケーブルが、イエス様を信じる信仰です。

復活と永遠の命の約束の喜びにあずかるのがイースターです。私たちはすでに復活を経験しています。長く閉ざされていた対面礼拝が今日から復活しました。主は私たちの日常に復活を見せてくださっているのです。新型ウイルスはいつまで続くのか正直先が見えません。けれどそこから復活の希望があることを私たちは信じて祈っていきましょう。主の約束は確かなものであることを今日聖書は私たちにはっきりと語ります。ぜひ、命のバッテリーであるイエス・キリストにつながる命のケーブルを、今日手にして歩んでいきましょう。