説教記録4月

426日 説 教―               牧師 山中 臨在

   「 信じる 」  ヨハネによる福音書20:1929

聖書は、見ないで信じることが信仰であることを、イエス様の使徒の一人、トマスの物語から、どのように語っているでしょうか。トマスは「疑う人」の代表者みたいに言われることがあります。イエス様に「お前は私を見たから信じるのか。見ないで信じる人は幸いです」と言われましたが、見たから信じたのは他の弟子も同じです。弟子たちはイエス様が十字架にかかられる前あんなにイエス様に従順だったのに、十字架につけられる時全員イエス様を見捨てて逃げたのです。そしてイエス様の復活の日、彼らは「自分たちのいる家の戸に鍵をかけて」(19) いました。弟子であることがばれて自分たちもつかまえられるのではないかと恐かったのです。イエス様は死んで三日目によみがえると言っていたのに、信じなかったのです。この日復活されたイエス様に会ったとマグダラのマリアは弟子たちに告げたのに(18)、それを信じられず、おびえて家の中に隠れていました。でもイエス様はそんな弟子たちの中に現れました。イエス様は手とわき腹を見せて、確かに十字架につけられたイエスご自身であることを示しました。「見た」弟子たちは大いに喜びます(20)

さてこの感動的な場面に、なぜかトマスはいませんでした。仲間は興奮して復活のイエス様に会った話をする。おまけにイエス様によって聖霊を受け、罪の赦しに関する大きな責任もいただいている。自分だって会いたかった、聖霊を受け大きな責任をもらいたかった。復活のイエス様に会いそびれたトマスの心中は察して余りあります。喜びにあふれる仲間たちに置いてけぼりにされたトマスの落胆が疑い深い心を引き起こしたことは無理もないことかもしれません。

しかしイエス様はそんな疑い深いトマスをも愛され、彼にまた現れて下さったのです。そして「おまえの望み通り、私の手の釘あとを触ってごらん、私の脇腹を触って確かめてごらん」とイエス様がおっしゃった時、トマスはイエス様の手やわき腹を触らずに「あなたが主です」と信仰の告白をしました。トマスだって信じたかったことでしょう。でも信じたいのにどうしても信じられなかった。そんな自分に自らを現わして下さったイエス様の愛に、トマスは感動したのではないでしょうか。

このイエス様が復活し今も生きておられることを、私たちも信じきれず、疑います。不安と恐れのために心の扉を閉ざしてしまいます。しかしたとえそうであったとしても主イエス様自ら私たちに現れ、答え、平安を与えて下さいます。私たちがどんなに疑っても、何度疑っても、イエス様は忍耐強く私たちに触れてくださる愛の方です。だから主イエス様を信じましょう。新型コロナウイルスの不安や恐れから信じる心を失いそうな今こそ、主イエス様を信じて歩みましょう。

 

 

419日 説 教―               牧師 山中 臨在

        「チャレンジ」   ハガイ書1:115

イスラエルの民がバビロン捕囚から帰還後2年ほどして、彼らの信仰を象徴するエルサレムの神殿の再建が始まったのですが、程なくして人々は神殿より自分の家や自分の町を再建することを優先し、神殿再建が後回しになっていました。そこで神様は預言者ハガイを通じて、「お前たちは神殿を廃墟のままにして、自分の家のために走り回っている」と彼らに言います(4、9)。「お前たちは神を信じる神の民だと言いながら、自分自身の生活を整えるためにあくせくして、神のことを放ったらかしにしているじゃないか!」と厳しく叱っているのです。私たちはどうでしょうか。神第一の生活をしていますか、それとも自分のことを整えることが優先されて神様のことが放ったらかしになっていますか。自分の生活を整えることは不信仰なことではありません。しかし神様は、自分の生活をする中で「主の御声に耳を傾けているか。神を畏れ敬っているのか」(12)という問いかけを私たちにしているのです。まず神の国と神の義を求めて生活をしているのか、それとも自分の予定の余った時間にだけ神様が入る余地を与えているのか。そんな問いではないでしょうか。

この世にあって自分の生活を整えるために走り回る私たちが、神第一の人生を送ることには容易なことではないかもしれません。むしろ大きなチャレンジがあります。しかし神の子である私が私であるためには、神様のチャレンジを受ける必要があります。イエス・キリストが私のために十字架で死んで下さった、それ程までに神の愛を受けている私が私であるためには、神様が望まれるなら私の予定を神様に明け渡さなければなりません。そのチャレンジを受ける民に、神様は心強い約束を下さっています、「わたしはあなたたちと共にいる」(12)と。あなたは一人ではない、主が共におられるというメッセージです。その約束のもう一つの力強さは「あなたたちと共にいる」と言われていることにあります(13)。「あなたと」ではなく、「あなたたちと」なのです。主のチャレンジを受けるのはあなた一人ではない、チャレンジを共に受けてくれる人々がいるのです。これが神の家族の強さであり、キリストの体の恵みなのではないでしょうか。

教会の使命は伝道です。伝道は誰かがやってくれるのではなく、「あなたが」担うようにと主がチャレンジしておられます。ウイルス感染拡大の状況下でどうやって伝道するのだと思うかもしれません。しかし主は「こんな時だから伝道しなくていいよ」とは言われません。伝道が困難だと思われる時にこそ伝道する、まさにそのために教会があります。チャレンジを共に受けている私「たち」がいます。このチャレンジは孤独な戦いではありません。主イエスが伴ってくださる恵みであり、主にある家族がチームとなって共に祈り合う喜びの歩みです。今こそ心を合わせて共に祈りましょう。

 

 

412日 説 教―              牧師 山中 臨在

「 希望 」テサロニケの信徒への手紙()4:1318

パウロは、クリスチャンの信仰の中心的なメッセージは、キリストの復活と再臨によって示される希望であること、クリスチャンは「希望を持たないほかの人々」(13)とは違うことを語ります。なぜ復活と再臨が希望なのでしょうか。イエス様が復活されたことによって、主イエスを信じる者もまた復活をすることが約束されたからです。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(1コリント15:20)と語る聖書は、イエス様が復活した最初の人となり、私たちもそれと同じように復活させられることを私たちに教えます。肉体の死が終わりではなく、その先に永遠の命を与えていただける希望があるのです。そもそも「死」とは言わず「眠り」とパウロは言います。眠りの先には「起き上がり」があります。イエス様は眠っている私たちを起こしてくださるのです。私たちが起き上がる時に主は共にいてくださるのです。そのためにまずイエス様が人に先駆けて復活して起き上がってくださいました。そして再び来られ、私たちを起こしてくださる、そのことが私たちに与えられている大きな希望です。

 新生讃美歌257「起きよエルサレム」はドイツのフィリップ・ニコライという牧師が作った賛美歌です。ニコライがウンナという町の牧師だった1597年にペストが流行し、5,000人ほどの小さな町で1,300人を超える人が半年ほどの間に亡くなりました。町中が恐怖と混乱に覆われている時、ニコライが住民の慰めと励ましを祈り続ける中で生まれたのがこの賛美歌です。死と隣り合わせにいる人々に、復活の主の希望と永遠の命の喜びを伝えました。花婿であるイエス様は来る、初穂となって復活されたイエス様は私たちを起き上がらせてくださる、そのメッセージをもって人々を慰め励ましたのです。私たちも今 新型コロナウイルスという感染症の恐怖と混乱にさらされています。死と隣り合わせといっても過言ではない状況です。そんな私たちに必要なのは、復活の主が与えてくださる希望です。主が私たちと共にいて、私たちを起き上がらせてくださるという確信です。

パウロは「今述べた言葉によって励まし合いなさい」(18)と語ります。教会の力は、主にあって励まし合うことにあります。「今述べた言葉」即ち、主の復活と再臨を通して、主はいつまでも私たちと共にいる(17)という希望に根拠があるから、キリスト者の励まし合いには力があります。主にある励まし合いは、みことばと祈りに裏打ちされるものです。みことばに聞き、互いに祈りの内に励まし合いましょう。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5:5)と聖書は語ります。

 

 

45日 説 教―              牧師 山中 臨在

   「 渇く 」  ヨハネによる福音書19:2830

 イエス様は十字架上で「渇く」と言われました。釘を打たれた手や足から大量の血が流れ、十字架刑による呼吸困難のため喘いで口が開くから余計に体は渇きます。十字架刑は本当に酷く恐ろしいです。そんなイエス様に周りの人は、酸いぶどう酒を差し出しました。酸っぱいぶどう酒はとても人が飲めるような代物ではなく、侮辱を表すものです。詩編69編には、信仰ゆえに人々に嘲られ侮辱され、酸いぶどう酒を飲まされている詩人の祈りが描かれています。「人は・・渇くわたしに酢(酸いぶどう酒)を飲ませようとしています(69:22)・・わたしが受けている嘲りを、恥を、屈辱を、あなたはよくごぞんじです」。この詩人と同じような状況の十字架上のイエス様です。イエス様は人となり肉体をとられて、私たちと同じように渇きを経験されました。また酸いぶどう酒を受けるという屈辱を味わい試練を受けて、私たちよりももっと大きな苦しみを経験されました。イエス様が経験されない試練や痛みはありません。ヘブライ書2:18が語るように、「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」。肉体をとって私たちと苦しみを共にしてくださったからこそ、私たちは主イエス様を信頼しゆだねることができるのです。

 またイエス様は十字架上で霊的な渇きも覚えました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と悲痛な叫びをしたイエス様。神であるイエス・キリストが今父なる神様から見捨てられ、神様との交わりを絶たれようとしています。神様との親しい交わりを回復したくて霊の渇きを覚えておられるのです。私たちはどうでしょうか? 私たち人間は罪ゆえに自ら父なる神様と断絶してしまっています。自分の罪を悔い改めて、神様との交わりを回復していただかなければなりません。イエス様は息も絶え絶えの中、「お前たちは霊の渇きがあるか? 私のように神様との交わりの回復を求めて祈りなさい」というメッセージを私たちに伝えているのではないでしょうか。霊の渇きをいやしていただくべく、主に祈りを捧げましょう。今週は受難週ですが、イエス様の受けられた受難に目を注ぎ、彼の受難は私たちのためであったことを悔い改めて心から祈る週としたいと思います。

 イエス様が息を引き取ったあと、兵士がわき腹を刺すと、血と水が流れ出ました。イエス様の贖いの血が流されたことによって、私たちには命の水があふれ注がれたことを伝えているのです。私たちには様々な渇きがあります。永遠に渇くことのない命の水であるイエス・キリスト(ヨハネ4:14参照)の言葉を宿すことでしか、私たちの渇きをいやすことはできません。絶えずみ言葉に聞き、絶えず祈り、罪を悔い改めましょう。主はあふれる命の水を注いでくださいます。