説教記録4月

47日 説教―          牧師 山中 臨在

       「あなたのガリラヤ」

イエスの復活という喜びの知らせを受けたイエスの弟子達は怯えていました。イエスが逮捕されると雲の子を散らしたように逃げて行き、今や自分達も捕えられるかもしれないという恐れから、家の戸に鍵をかけて閉じこもっています。そんな彼らに、イエス様は女性達を通して「ガリラヤに行きなさい」(10)と告げます。

 ガリラヤとはどこでしょう? それはイエスが生まれ育った場所であり、弟子達にとって、イエスに出会い、イエスに導かれ、イエスと親しく過ごした場所、彼らの生活の場、現実の場です。イエスは、恐れおののいている弟子達に、現実の生活の場に戻り、もう一度イエスと会いなさい、と言われました。しかし今いるところから外に出て、ガリラヤに戻ること、現実の場に戻ることは弟子達にとっては難しいことだったでしょう。恐ろしいことであったでしょう。しかし復活なさったイエス様は、ご自分が先にそこに行っているから恐れないで行きなさい、と招かれました。

 「主御自身があなたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。・・・恐れてはならない」(申命記31:8)との御言葉を私達は受けています。主が私の先に行って道を備えておられるのであれば、私にはその道が今は見えなくても大丈夫なのだ、という希望が私達には与えられています。

あなたにとってのガリラヤはどこでしょう? あなたが現実の生活の中で抱えている問題はなんですか? イエス様は、あなたが行こうと思ってもどうしても躊躇してしまうあなたのガリラヤ、行きたくないのに行かざるをえないで苦しんでいるあなたのガリラヤに先に行ってあなたを待ち、そこで福音を伝えなさい、と招いておられます。

 復活されたイエス様は3人の女性に出会って下さいました。またガリラヤで弟子達に会って下さいました。復活のイエス様に出会う、それが礼拝です。ここから私達の歩みが始まります。そして私達に出会って下さる主は「あなたのガリラヤに行って、福音を伝えなさい」と語っておられます。だから私達は礼拝をし、礼拝から出て行って、主の証し人としてそれぞれのガリラヤに遣わされてゆきます。

 私達品川教会はこの地に遣わされた教会として、この地域にイエス様を伝えていきたいと思います。品川教会のお一人お一人のガリラヤに、復活のイエス様が先に行き、そして共にいて下さいます。だから恐れずに、私達のガリラヤに「行って」、そこで出会う人々と交わって、復活のイエス様を伝えていきましょう。そしていつも共に祈って歩んでゆきましょう。

   (マタイによる福音書287101620

 

 

414日 説 教―                 牧師 松村 誠一

      「本当に、この人は神の子だった」

「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』。これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」(マタイ274546

このイエス様の叫びは、キリスト教の2000年の歴史の中で議論されて来ております。イエス様の叫びは詩編22編 最初の言葉です。この歌は最初は神に見捨てられているが、最後は神を高らかに賛美し勝利の歌を歌って終わっているではないか。イエス様はこの詩編を口ずさみつつ、勝利の歌を歌いながら御自分の死を死んでいったのだ、という理解もされています。イエス様は本当に声高らかに賛美を捧げ死んでいったのでしょうか。さらに聖書を読んでいきますと、そのあとに不思議なことが語られています。神殿の垂れ幕が上から下まで二つに裂けたという出来事、それから地震が起こり岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れたと記されています。そしてこれらの出来事を見ていたローマの百卒長をはじめ、そこにいた人々が「本当に、この人は神の子だった。」と告白したことが記されています。私たちは、この聖書の箇所をどのように理解したらいいのでしょうか。

マタイ福音書は紀元80年頃に記された書であります。ですからマタイはイエス様の十字架の死のあと、イエス様の復活の出来事も知っていたのです。マタイは、マタイの福音書を復活の出来事を通して書き記しているのです。マタイはイエス様の降誕の時に、見よおとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は「神は我々と共におられる」という意味である、と述べています。神は我々と共にいて下さる。あの十字架刑のさ中にあっても、苦しみ悶えているイエス様に神は共にいて下さるお方であることを語り知らせているのです。そしてイエス様と共におられる神は、復活という出来事を通して、神の真実を明らかに示してくださったのです。ですから神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた出来を記すのです。マタイはこのような描写によって、モーセによる古い契約が廃止され、イエス様によって新しい救いの道が開けたのだということを述べているのでしょう。また地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、多くの聖なる者たちが生き返ったという記述によって間もなく到来するであろう、イエス様の再臨の出来事を述べているのだと思います。そして最後に百卒長たちがイエス様を神の子と告白しています。百卒長は異邦人です。マタイはイエス様降誕のお祝いに最初に駆け付けたのは、異邦人の学者であることを記しています。マタイはユダヤ人をはじめ、全ての民が救われることを、信仰によってはっきりと見て、その見たことを自分の福音書に記しているのです。この箇所から私たちは、どんな環境、どんな境遇、どんな状況に置かれていても、神は共にいて下さるお方であることを、しかも神様が与えて下さる復活の命へと招かれていることを共に再確認し、与えられているこの世の生を感謝をもって歩んでいきたいと思います

マタイによる福音書 274556)

 

 

421日 説 教―                 牧師 山中 臨在

          「笑ってもいいんですか?」

  私達の人生はある意味死に向かい墓に納まる人生です。しかしキリストにある人生は、墓を突き破り死を越えて前に進んでいく人生です。イエス・キリストが死をもって死を滅ぼされ、復活という新しい命、神様が私達にプレゼントして下さる永遠の命の道を開いて下さったのです。

  もうこれ以上先へは進めない! 私達の人生はそういう絶望の中へ落とされます。しかしあなたの苦しみは苦しみのままでは終わらない。悲しみは悲しみのままでは終わらない。あなたの苦しみや悲しみと共にイエス・キリストはいるのです。ご自身が十字架というこの世で最も酷い死刑の宣告をされ、まさに死ぬために十字架の道へと向かったのがイエス・キリストです。私の苦しみも悲しみも痛みもご自分のこととして私と共にいて下さるためです。復活されたイエスは弟子たちのことを、兄弟たちと言っています。あんなに熱心にイエスと共にいた弟子たちも、イエスが捕えられるや否や皆一斉に逃げ、裏切りました。それなのに自分を裏切った弟子たちのことを「兄弟」と呼んで下さったのです。いや弟子たちだけではない、イエスを裏切った人すべてのことを、いや「あなた」のことを「兄弟」と愛を持って呼んで下さるのがイエス様なのです。

  だからこそ私達人間の、「私の」苦しみや悲しみに寄り添って下さるのです。私の痛みに寄り添うだけではなく、イエス・キリストは復活して、その私の苦しみの先にある慰めを、悲しみの先にある喜びを、絶望の先にある希望を先取りされたのです。イエスが復活したとき、天使は「イエスは復活してあなたがたより先にガリラヤに行かれる」(7)と告げています。ガリラヤというのは、弟子たちがイエスに出会いイエスと共に生活をした場所です。彼らの日常の生活の場、彼らの現実です。現実の世界は、嬉しいことも楽しいこともあるけれど、しかし苦しみ悲しみは勿論ストレスも結構たまる場所です。「ああ、この日常の生活から逃げたいな」と思うこともあるかもしれません。でもそれは決して逃れることのできない現実の場所です。そこへイエスは「先に行って、希望を携えて待っている」と言います。あなたの生きる場所、あなたの現実の場所、そこへ行って、そこでイエスにある希望と共に生きなさい、と主は語っておられるのです。

 復活したイエス様が初めて女性たちに姿を見せた時、「おはよう」(9)と言われました。この「おはよう」は、原語では「喜びなさい」という命令形です。復活のイエス様が私たちを出迎えて「さあ喜びなさい」と招いて下さるのがこの礼拝です。「あなたのガリラヤ、あなたの生活の只中にイエスは希望を用意して先に行っている。それを喜びなさい、礼拝で主に出会い、とてつもなく大いなる主のわざに触れ、力を与えられてあなたの現実の中で主を求め希望をもって生きなさい。」と主は私たちに語っておられます。

         (マタイによる福音書28110

 

 

428日 奨励 ―                 片桐 健司兄

「教会の前にいる傷ついた人があなたには見えますか」 

■こんな人とは会いたくない、この人がいたら困るという人はいますか?

■私は、この3月で49年間の教員生活を終えました。その中で、イエス様の次に私の人生を変えた一人の男の子と出会いました。その子は、勉強ができないのに、勝手なことばかりするし、怒ると物を投げたり、みんなとけんかしたりして、困ったなと思いました。でも、その子と一緒に生活していくうちに、その子が実はたくさんのことを私に教えてくれていることに気がつきました。その子は、神様がよこした子なのかも知れません。それから私は、大変な子ほど大切にしようと考えるようになりました。

■大井教会の牧師で加藤誠先生という方がおられます。その先生が神戸の教会にいたとき、ときどき訪ねてくる男の人がいたそうです。お金が入らないと食べる物がないので、教会に来るのです。ある晩、その人がきたので、先生はちょっといやだなと思いましたが、一緒に食事をし、教会にその人を泊めてあげたそうです。その次の朝、阪神淡路大震災がおきました。その人がいてくれたおかげで、たくさんの人を助けることができ、加藤先生は、その人のことを神様が遣わしてくれた天使のように感じたそうです。

■今日の聖書に出てくるのは、イエスのたとえ話で、金持ちと貧乏なラザロの話です。ラザロは、金持ちの家の前で食べるものもなく、横たわっていました。金持ちは、そんなラザロに目も向けず、贅沢をしていました。ふたりともやがて亡くなって天にあげられました。ところが天国ではラザロは大切にされ、金持ちはもだえ苦しみました。そして神様になんとかしてくださいと頼んだら、神様は、「お前はこれまで贅沢をしてきたのだから苦しむがよい。ラザロはこれまで苦労してきたのだから天国で大切にされるのは当然だ」と答えました。金持ちは、自分がラザロに何もしてこなかったことを悔いましたがもう手遅れでした。

■日本に被差別部落があります。その人たちは、部落に生まれたというだけで、結婚や就職にまで差別をされています。私は、バプテスト連盟の部落問題委員会という所に関わっていますが、それは、そういった差別がなくなるような働きをしているところです。イエスは、まずそういう人たちの「友」となりました。私たちも、そういうイエスと共に歩みたいと思っています。

■イエスが十字架を背負って歩く姿が「友」という字に見えると言う人がいました。イエスはこの世で様々な苦しみを負った人たち以上の苦しみをすることで、そういう人たちの「友」となったのです。

 

教会の前の傷ついた人とは、私たちの周りにいて、ちょっと困るなと感じられる人。でも実は、その人は神から遣わされた天使なのかも知れません。その人たちのことを大切にできる人になりたいです。

                          (ルカによる福音書161925)