説教記録2018年4月

 

429日 奨 励―                 片桐 健司 兄

             「人はなんで生きるか」

■先週、ナルドの会がありました。そこでは恵まれた2日間を過ごすことができましたが、思わぬできごともありました。1日目の夜はお楽しみプログラムでした。参加者の紹介や映画鑑賞等予定されていました。ところが、パソコンとプロジェクターのつなぎが悪くて借りてきた映画のDVDを映すことができません。仕方なく、パソコンの小さな画面を十数人が頭を寄せ合って観ることにしました。

■観たのは「家族はつらいよ2」という映画でした。73歳になるおじいちゃんは車をあちこちぶつけてきます。心配した家族が運転をやめさせようとするのですが、おじいちゃんは言うことをききません。そんなおじいちゃんが、ある日、高校の時の友人に会いました。懐かしくて、高校時代の友人数人も呼んで、いっしょに食事をしました。その夜、おじいちゃんはその友人を家に連れてきて泊めたのですが、朝になってみると、その友人は亡くなっていたのです。そしてどうなったか・・・、

突然パソコンの電池が切れて、映画は観られなくなってしまいました。

■私も70歳。若いときにはずっと乗れると思ってとった運転免許もいつ返すか考えなければいけない年になりました。周りでは同じ位の年の人が次々亡くなってもいきます。小さいときにいた近所のおじさん、おばさんもいなくなりました。人はいつまでも同じではいられないのです。そんなとき、人はなんで生きているのか、何のために生きているのか、考えてしまいます。

■トルストイの民話に「人は何で生きるか」という話があります。死にそうな母親の魂を天にあげなさいと言われた天使が、その母親には二人の双子の赤ちゃんがいて、父親もいないことを知り、とてもそんなことはできないと帰ってきてしまいます。そこで神は怒って、次の3つのことを分かるようになるまでは天に帰ってきてはいけないと地上に天使を下ろしてしまいます。

その3つとは、

      「人の中には何があるか」

      「人に知らされていないものは何か」

      「人は何で生きるか」 でした。

■地上に降りて飢えと寒さで震えている人間の姿の天使を助けたのは貧しい靴屋でした。靴屋のおかみさんは、暖かいスープを天使に飲ませます。それからしばらくして、靴屋で仕事を教わった天使のもとに一人の金持ちがやってきて、上等な長靴を作ってほしいと言ってきます。しかし天使は、長靴を作らずにスリッパを作ります。するとそのとき金持ちの使いがやってきて、主人は死んだのでスリッパを作ってほしいと言ってきたのです。

■それから6年。靴屋さんに双子の女の子を連れた女の人がやってきます。その人は亡くなった双子のお母さんの子どもを育てた人でした。その時、天使は、神様の言われた3つのことがすべて分かりました。暖かいスープをくれた靴屋夫婦の中には愛があること。大金持ちは、自分の必要なものが何であるかを知らされていなかったこと。そして、女の人に立派に育てられた赤ちゃんを見て、人は愛で生きるのだと言うこと。

■神様は私たちを愛してくださっているから、私たちも愛をもって生きていかれたらと思います。

                   (ヨハネの手紙Ⅰ 4712)

 

 

422日 奨 励―              片桐 健司 兄

              「神様のげんこつ」

■毎日新聞の人生相談の欄に、父が入院、姉は事故、母は亡くなり、自分も体調不良で事故を起こしてしまった。悪いことばかり起きて生きる気力がなくなったという若い女性からの相談がありました。皆さんは、こういう相談を受けたらどう答えますか? 新聞での回答者は作家の高橋源一郎さん。高橋さんはなんと答えたでしょうか。

■「神様のげんこつ」という題は、ある雑誌に載っていた記事からとらせていただきました。これを書いた方は、父から受け継いだ工務店を経営し、順調にいっていたのですが、38歳の時にオートバイで事故をおこし、車いすの生活になってしまいます。しかし彼は、これをどこか驕りがあった自分への神様のげんこつと受け止め、車いすだからこそ分かる経験を建築設計に生かして、車いすの方にも喜ばれる仕事をするようになりました。

■皆さんは、神様からげんこつをいただいたと感じたことがありますか。私は、これまでの自分の人生の中で何回かありました。

私は、貧しくはありましたが、父と母と兄という4人の家族の中で、幸せな家庭で育ちました。高校にも大学にも行かせてもらい、大学を卒業してそのまま小学校の教員になりました。教員になって結婚し、子どもも3人できて、これだけ考えれば、何の問題もなく順風満帆な生活でありました。

しかし、そこにはどこか驕りがありました。そして、一番上の子が高校生のときに神様からげんこつをいただきました。一番上の子が高校の途中で急に学校に行けなくなったのです。完全な不登校ではありませんでしたが、卒業するまでいろいろ大変でした。なんとか高校を卒業して、今度は大学へ行きたいとそれなりにがんばるのですが、精神的に不安定になって苦しんでいました。そして、そのいらいらを親の私への批判という形でぶつけてきました。

私は、一人の親として、休みになれば子どもたちを遊びに連れて行ったり、勉強も見たリ、それなりに子どもを育ててきたと思っていたのですが、息子はそんな私に本当に自分が困っていたときちゃんと話を聞いてくれなかったではないかとうったえます。

子育てはこれでよいと思っていた私でしたが、実は、子どもと向き合って こなかったことを突きつけられました。

子どもを助けるには、子どもと向き合いきちんと話を聞くしかない、そう思って私は、1時間でも2時間でも息子の話を聞くことからやり直し、今、少し落ち着いたかなと思います。

■ヨナは、神様の命令を守らず、魚に食べられました。これが神様のヨナへのげんこつです。ヨナは、自分のしたことを反省し、神に向かって叫びます。「苦難の中で私が叫ぶと、主は答えてくださった。」

■最初の人生相談で、高橋さんは、「怒れ」と答えています。怒りを生きる力に変えろという意味だと思います。それは、このヨナの叫びと同じことのように思います。「神様、なんとか助けてください」と叫ぶとき、神はその叫びを聞いてくださるのだと思います。

                          (ヨナ書2111)

 

 

415日 説 教―              牧師 松村 誠一

           「復活のイエス様に出会って」

このガラテヤの信徒への手紙を読んで見ますと、パウロの激しい心の思いが至るところに出てまいります。激しいパウロの心の思いが露わな手紙を書き送っているということは、パウロ自身、そしてガラテヤの諸教会が危機的状況にあったということでしょう。ガラテヤの教会の危機的状況とはパウロは使徒ではない、偽使徒なのだ、ということを言いふらす者が教会内に入り込んできたことによるものです。彼らは、パウロが語る福音を信じるだけでは救いに与ることはできない、ユダヤ教の律法である割礼を受けなければならないということを教え、その教えに多くの教会員がなびいていっていたのです。

 さて112節ですが「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。」という文章から手紙を書き始めています。この書き始めから他のパウロが書いた手紙とは異なっております。それは先に見ましたようにパウロが偽使徒だといううわさが行き渡っていたからでしょう。使徒とは、イエス様の12弟子のことです。マルコによる福音書3章にイエス様が12人弟子を選ぶところが記されています。「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」(1215節)使徒とはイエス様によって遣わされ、宣教させ、悪霊を追い出すためにイエス様が任命された人々のことです。当時においては12使徒以外にごくわずかな人が使徒と呼ばれていたようです。当然のことながらパウロはその使徒の中には入っておりませんでした。ではなぜ、パウロは使徒パウロと自分自身を紹介しているのでしょうか。それは112節でパウロが述べているようにイエス様から直接啓示を受けたからです。そのイエス様についてパウロは次のように紹介しています。「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです。」(14節)

この箇所は青野先生が指摘しておりますように“罪のため”は複数です。ですから数えられる罪、すなわち律法違反のために献げてくださったということです。イエス様の十字架の死は、この邪悪の世から私たちを救い出すためであり、この邪悪の世から来るべき世への救出が、イエス様によって行われ、そのイエス様の福音を宣べ伝える責任が主イエス様から直接与えられているのだ、と手紙の冒頭から書き記しているのです。パウロは、その始まっている、来るべき世を視野に入れて、イエス・キリストを救い主と信じる信仰に生きよと、私たちにも語りかけているのです。

                 (ガラテヤの信徒への手紙115) 

 

 

48日 説 教―             牧師 松村 誠一

              「信仰による自己認識」

 ローマの信徒への手紙ですが、1章から8章まで、パウロは福音とは何か、救いとは何かを述べております。人間が救われるのはイエス様を信じる信仰により救われるのだということをいろいろな方面から語って来ました。そしてパウロは同時に福音の力、神の愛の深さ、強さを訴えて来ました。その神の愛はイエス様の十字架の死によって私たちに具体的に示して下さり、そのイエス様の死によって律法から、罪から、死から解放して下さったのだ。そのことをパウロは筋道をたて、しかも体験的に、自分の渾身の力を振り絞り書き進めて来ました。そして91011章はその神の愛はパウロ自身が考えたものではない、歴史を見るならば歴史を導いておられるお方は、生きた真の神であることが分かるではないかとイスラエルの民の歴史を振り返っております。そして神の愛は決定的に御子イエス・キリストによってはっきりと示されたではないか、とパウロはローマにいるキリスト者に対して語ってきております。

そして12章からはその神の愛に私たちは応えていこうではないかと勧めています。その勧めとは、あなたがたの体、つまりこの世に係わりを持っている具体的なあなたがたの全存在を神に喜ばれる聖なる生ける、いけにえとして献げなさい。それがあなたがたのなすべき礼拝ですと語っています。3節からは、それが具体的に展開されています。神の壮大な人類救済の計画、イエス・キリストによって示された神の愛の偉大さを語ってきたパウロがキリスト者への具体的な勧めは「自分を過大評価してはなりません。」であります。ローマの信徒への手紙を読んできますと、この勧めはとても大切な勧めであることが分かります。そしてこの3節の後半がパウロの言わんとしていることだと思います。「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」。これが「自分を過大評価してはならない」ことに繋がっていくのです。つまり、頂いた信仰によって自己を見る、頂いた信仰が、その人を慎み深くさせるのだということでしょう。

なぜパウロはこのことを勧めるのでしょうか。それは4節以降に述べられております。パウロは教会を“私たちの一つの体”である、と体にたとえています。そしてその教会に集う一人一人は、体を構成する部分にたとえております。

このたとえはコリントの信徒の手紙一12章で具体的に展開されておりますが、教会員の一人一人は体を構成する手であったり、目であったり、口であったり、皆その働きは違いますが、それぞれが無くてはならない部分です。その部分はその部分の働きをすることが求められております。教会も同じように、一人一人が無くてはならない存在なのです。その一人一人の働きが十分にできるように、一人一人が信仰によって自己を認識し、その認識のもとに奉仕をしていくことが。パウロの言う「慎み深く評価しなさい」ということでしょうか。一人一人がその自己認識に立ち、神の恵み(カリス)によって与えられている賜物(カリスマ)を生かして教会の福音宣教の業に参与していく時に教会はキリストの体なる教会となり、神の出来事が起こされていくのです。

             (ローマの信徒への手紙1238節)

 

 

41          牧師 松村 誠一

         「復 活」 

復活されたイエス様の出会いによってパウロは異邦人伝道の使命が与えられます。そしてその使命を果たすべく小アジアへと向かい、その地その地でイエス様がわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、そして三日目に復活したことを宣べ伝え、教会を立てあげてゆきます。

ところがコリント教会の中に復活は信じられない、という人たちが出てきたのです。これはパウロにとって絶対解決しなければなららない問題でありました。なぜならばイエス様を救い主と信じるということはイエス様が死者から復活させられたことを信じることであるからであり、信仰の根幹だからです

復活を信じることが出来ないという人々に、パウロは自然界を例にとりながら説明しております。花を咲かせようとするならば、まず種をまきます。種は土の中で姿をなくしますが、土から養分を吸収して美しい花を咲かせます。パウロは人間の復活についても植物同様に肉体(種)は滅びても霊なる体(花)として生かされるのだ、と類比をもって説明しています。

またパウロはこの世の被造物はそれぞれ違いがありますが、それは神の創造の業でありこの世に生きるものは人間であろうと、他の動物であろうと、神様はそれぞれに体(肉)を備えられたように、その被造物に霊なる体も備えられたのだと語っています。そしてこの世の体(肉)とやがて備えられる霊なる体との対比が記されています。最初の対比は朽ちるものと朽ちないものです。私たちの肉体はやがて朽ちるものです。この朽ちる肉体にイエス様は永遠の命を与えてくださり、朽ちない者によみがえらされるのだと。第二は卑しいものと栄光あるもの。そして次は弱いものと力強いものとの対比です。そして最後は自然の命の体がまかれ、つまり肉体をもった人間として生まれ、その肉体が死ぬと、霊の体が備えられるのだということを語り聞かせております。そしてその仕上げをアダムとキリストを対比して説明をしております。

 復活という出来事は、人間が理性で、知性で考えても理解できるものではありません。それは信じる信仰によってのみ信じ、受け入れることができる事柄です。パウロはその信じる信仰を手助けするために、この世の自然界を見渡し、その類比から考えてみなさいと語りかけています。ヤゴがトンボになることが一番分かりやすいと思うのですがいかがでしょうか。ヤゴは水の中で成長します。およそ水の中で数週間経つと水から上がり、草花の幹にへばりつき、そして間もなく昆虫として空を飛ぶトンボとなります。ヤゴであった時のヤゴはトンボになってもヤゴと同じ生き物です。人間もこの世では肉体を持っておりますが、やがて、この肉体を脱ぎ捨て、霊なる体、すなわち復活の体が備えられ、この世とは全く違った神の国で永遠に生きる者となるのではないでしょうか。いずれにしろ、肉体を持った私たちは自然界の生物、動物が指し示しているように、私たち肉体を脱ぎ捨てたあと、新しい霊の世界へと招かれていることを、このイースター礼拝で確認し、復活の命へと招いてくださるイエス様を主と告白し、信仰生活を共にしてゆきたいと思います。

     (コリントの信徒への手紙一153549節)